(ちりも積もれば千里浜1、砂浜は競馬場だった、車のレースもにぎわい)
羽咋市で最も有名な場所と言えば、間違いなく千里浜海岸だろう。
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日本で唯一波打ち際を車で走れる能登屈指の人気観光地である。
陸に上がると、かつて「塵浜」の字を当てられ、住民の力で改名
千里浜海岸だろう。
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した千里浜町がある。砂だけではなく、いろいろな歴史や思い、
出来事が積もりに積もった千里浜の物語を調べてみよう。
まず町の長老に話を聞こうと、羽咋市で収入役、助役を務めた酒井
正則さん(93)=千里浜町=に会った。昔の浜辺の風景を尋ねる
と「千里浜には馬がたくさん走っていた。草競馬が盛んで競馬場も
あったみたいや」と教えてくれた。
1913(大正2)年から20年間、千里浜海岸北端の羽咋川周辺
の砂浜には、競馬場が存在した。詳細な場所特定する資料は残って
いないが、波打ち際から幅100メートルの砂浜に、1周約800
メートルのコースと有料の観客席もあったとされ、石川だけでなく、
富山からも馬がやってきたらしい。
「競馬場は千里浜側にあり」
(賞金1等200円)
「競馬場は千里浜側にあり、その後、羽咋川河口の北側に移った」
その後羽咋川河口の、戻る1
と記憶するのは、父親から競馬場の話を聞かされていた市議の山本
泰夫さん(73)=釜屋町。1世紀前の羽咋川は、現在の千里浜町
や島出町、羽咋町など南北に蛇行し、両岸にそびえた砂山は、子ど
もの遊び場だったそうだ。
最初の競馬は13年7月15、16日に行われた。レースの賞金は
1等200円。当時の教員の初任給40円の5倍だから、今の価値
なら100万円以上なのだろう。
酒井さんによると、千里浜には戦時中も馬がいた。「馬に乗って浜
まで行け、って親に言われた。千里浜にはたくさんの馬と軍人さん
がいた」。どうやら千里浜に農耕馬が集められ、秀でた馬を軍が運
んでいったらしい。競馬場は小銃射撃場に姿を変えられ、その歴史
に幕を下ろした。
競馬場の痕跡は何かないのか。千里浜の歴史を調べてきた市文化財
保護審議会の藤田豊郁会長(66)=四柳町=は「レースに出た馬
の石碑が残っている」とヒントを出してくれた。
「ちょっと探したら島出町」
ちょっと探したら、島出町の川沿いに石碑があった。周囲に草が茂
川沿いに石碑があった、戻る2
り、「馬畜類之霊供養塔也」と刻まれた文字も見えにくくなってい
た。大正末期にレース中に倒れて息を引き取った馬を弔っており、
「馬頭観音」とも呼ばれている。
(昭和の名優も撮影で)
「千里浜の馬と言えば」と藤田さんが話をつなぐ。76年上映の
映画「君よ憤怒の河を渉れ」の撮影で、俳優・高倉健さんも馬に
乗って千里浜海岸を疾走したらしい。同じ場所にいるというだけ
で、なぜかワクワクする。
(車のレースもにぎわい)
千里浜では二輪車や四輪車のレースも繰り広げられた。10(明治
43)年、砂浜に縄を張ったコースを走る自転車大会の写真が、市
歴史民俗資料館に残る。「固く締まった砂浜は、自転車の大会にも
適していたのでしょう」と藤田さんは見る。周囲には大人数のギャ
ラリーも写る。さぞ盛り上がっていたに違いない。
「かつては人や馬自転車が」
かつては人や馬、自転車が走った千里浜。今は日本各地のナンバー
走った千里浜今は日本各地、戻る3
を付けたバイクや乗用車が行き交う。いつの時代も、千里浜の海に
沈む夕日の美しさは変わらないだろう。あかね色に染まる浜辺は、
千里浜が人を引き付ける理由を雄弁に語っていた。ちりも積もれ
ば千里浜1、砂浜は競馬場だった、車のレースもにぎわい。昔は
千里浜が競馬場だったとは知りませんでした。バイクや車のレー
スの他に自転車大会まであったのです。市民の憩いの場所だった
のですね。今は全国からバイクや車が集まります。日本で唯一の
バイクや車が走れる砂浜です。心配なのは砂浜の幅がドンドンと
狭くなっているのです。何か対策を考えないと将来、大変なこと
になりそうです。
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