能登半島地震から1年たち、戦後80年、「昭和100年」に当た
能登半島地震から
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1年たち、
る一年が始まった。この節目に深く、多角的に、能登を見つめた
い。半島を歩き、近現代のあゆみをたどることで、どんな「のとの
戦後80年、「昭和100年」に
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こと」が浮かび上がってくるだろうか。
こたつでくつろいでいたあるじに妻が声をかける。「お父さん、そ
ろそろ上げれば?」。時計は午後5時半を回ったところ。あるじは
立ち上がった。2024年12月5日、珠洲市若山町二子、奥秀樹
さん(74)方。奥能登に伝わる伝統行事「あえのこと」の取材で
ある。
脚立に上り、秀樹さんは2尾の小ぶりなタイを供えた。脚立を下り
て拍手を打つ。こたつに戻る。「ま、こんなもんや」
思のわず、カメラマンと目を見合わせる。終わり?
一年の実りを感謝し、田んぼから家の中へ、裃を着たあるじが「田
の神様」を恭しく招き入れる。神様があたかもそこにいるかのよう
に風呂に案内し、御膳を説明する。
あえのことは、そんな神事だったはず。だが秀樹さんはジーパン姿
だ。わずか10秒で事を終え、缶ビールを取り出している。
慌ててカメラマンが、戻る1
「も、もう一回、お願いします」。、戻る1
「も、もう一回、お願いします」。慌ててカメラマンが要求した。
一連の流れをゆっくり繰り返してもらい、何とか写真に収めた。
(口上は心の中で)
「昔は『おやっさま』の所であえのことをやってたんや」。こたつ
に一緒に入っていた田畑稔さん(77)=が語りだす。地震であえ
のことを行わない家もある中、珠洲市内で取材先を捜す私たちに、
秀樹さんを紹介してくれた人だ。
おやっさまと呼ばれる地域の名士の家では「本式」の神事を執り行
っていた。後にそれに倣い、百姓たちがてんでんに「略式」でやる
ようになった。奥家もその一つだろうー。これが田畑さんの説だ。
秀樹さんによると、神様に述べる口上や説明は、特にない。「ま
あ、口には出さず、心の中で、な」
今年は何と?
「そやな、『命あった、ありがとう』かなあ」
話は自然に、かの地震へ。1度目の揺れが起き、集まっていた子や
孫らは皆、屋外へ避難した。直後の本震で屋根の瓦が落ちた。「逃
げる途中やったら、当たっとった。間一髪やった」
金沢へしばらく避難した。ただ水道が復旧する前の春先から、ちょ
くちょく珠洲へ戻っていた。コメの種籾を作るためだ。
今年は暑かった。刈り入れで、熱中症になった。直後に豪雨が襲っ
た。ここでも間一髪、田んぼは被害を免れた。
地震あり、病あり、大雨ありの一年。例年通り、カジュアルな神事
だが、感謝の思いはひとしおである。
「父楽」を実感
神様を田んぼに迎えに行くのがあえのことの常だが奥家では行わな
い。翌2月9日、神様を送り出す神事も「俺はやらんぞ。おやじ
も、じいさんもやっとらんかった」と秀樹さんは言う。
妻の静子さん(72)が笑って口をはさむ。「煮しめも、神様が
入るお風呂を沸かすのも、神様のため戸を少し開けとくのも、み
んな私。この人はなーんもせん」
「わずか10秒」と見えたが、その裏には何時間もの準備があっ
たのだ。そう気づき、だしの染みた煮しめを味わう。「能登の父
楽」という言葉がこの地にはある。女性が働き者で、男性は楽を
するとの意味だ。
テレビの石川県内ニュースで折しも「あえのこと」が流れた。正
装での神事が紹介されている。
裃のあえのこと、ジーパンのあえのこと。どちらも「田の神様」
すなわち自然を畏れ、感謝する気持ちがある限り、本物なのだ。
正装での儀式を見慣れた目にはむしろ、普段着姿が新鮮で、神様
との距離の近さを示しているようにも映る。