ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年、日本メーカー初、改めて振り返る

(ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年、日本メ

ーカー初、改めて振り返る)

ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年、日本メー
ルマン24時間

カー初、改めて振り返ると信じられない気持ちに、なります。



世界3大レースのひとつに数えられるフランスのルマン24時間、
総合優勝

レース、この伝統の一戦を日本メーカーが初めて制したのは、19
マツダ787B

91年のことで、マツダ787Bによる大願成就だった。30年の

歳月が流れた2021年の今、あらためて空前の大偉業を振り返っ

てみる。

(日本メーカー歴代最高と考えられる壮挙)

内部リンク

日本の四輪モータースポーツにとって、現段階までにおけるドライ

 

バー(選手)成した最大の偉業は2017年、佐藤琢磨が世界3大

レースのひとつであるアメリカの「インディ500」を初制覇した

ことで、満場一致、だろう(彼は2020年に2度目のインディ

500優勝も達成)。では、日本車あるいは日本社、日本の自動車

(メーカーが成した最大の偉業とは?)

こちらは観点によって意見がことなり、満場一致とはいかないかも
「観点によって」

しれないが、やはり世界3大レースのひとつであるフランスのルマ
こちらは、戻る1

ン24時間レースでのマツダによる日本車初の総合優勝(1991

年)、これが最大公約数的な答えではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

その壮挙から30年。マツダがルマン挑戦等のモータースポーツ史

をまとめた記念の資料や写真を公開した。今年のルマン24時間レ

ースはコロナ禍の影響で、例年の6月ではなく8月に延期開催される

予定だが夏至の時節という本来のルマン開催期に近いうちに、あら

ためてマツダの大偉業を振り返ってみたい。

外部リンク

(ラストチャンスだった1991年のルマン)

 

マツダのロータリーエンジン(RE)搭載車は1970年代からルマ
「ロータリー」

ン24時間レースに姿を現していたが、マツダオート東京~マツダ
マツダの、戻る2

スピードの本格的な挑戦がスタートしたのは1979年とされ、や

がて本社開発サイドとの一体化も進んだ真の、ワークス、として力

を高めていくのは80年代が進むにつれてのことであった(81年

から連続参戦)。参戦するクラスも1986年からは総合優勝を意

識するそれへと移る(Cカー)。1987年と1989年には総合

7位を獲得していた。1991年は当時のグループC規定が、端境

期、にあった年といえよう。当時のF1と同じ3.5リッター自然

吸気レシプロエンジン搭載一本化の新、Cカー、への移行が推進さ

れており、REという独自エンジン路線に誇りをもって歩んできた

マツダは当初、ルマンに参戦できなくなるなるはずだったが、19

91年はルマンを含む当時の「SRC」で、旧Cカー、の混走が認め

られるかたちになり、当時のマツダのルマン挑戦にとってラストチ

ャンスとなった。

 

(ついに成し遂げられたルマン初制覇)

6月22~23日に決勝レースが実施された。メルセデスが主導権
「決勝レース」

を握ってレースを進めるが、マツダも着実なレースを展開する。
実施、戻る3

ジャガーとは互角以上に戦える力があった。1ー2ー3をしめて

いたメルセデスがダメージやトラブルで崩れ出す。ただ1号車は

首位に君臨し続けていた。しかし残り3時間を切ってから波乱が

起きる。首位のメルセデスの1号車がトラブルで戦線を、去るこ

とになった。そしてトップに立ったのはマツダ55号車。最後の

土壇場で勝利の女神が微笑んだ。ジャガー勢を2ー3ー4位に抑

えて総合優勝を飾る。出走38台で完走は12台とされたサバイ

バル戦で素晴らしい耐久性も披露した。

 

日本メーカーのルマン24時間レース総合優勝はこのときのマツダ

が初。しかも、メルセデスやジャガーと戦って勝利しただけに価値

は格別に高い。ジャガーを上回り、メルセデスも耐久レ-スならで

はの安定感を武器にうっちゃっての勝利だった。本当に素晴らしい

勝利でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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