(元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさん死去、名将言葉の
向こうに人生)
元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムさんが1日、自宅のあ
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るオーストリアのグラーツで死去した。死因は不明。80歳。サラ
エボ出身。日本代表監督が指導の現場に立った最後の仕事だった。
日本代表監督が
独特の言い回しも魅力で、日本人選手が持つ特長を尊重ししながら
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成長を促し、日本サッカー界に多大な影響を与えた。旧ユーゴスラ
ビア代表でも実績を残し、母国のボスニア・ヘルツェゴビナだけで
なく民俗の枠を超えて尊敬を集める名将だった。
(評伝)
勝負への楽観や悲観を徹底して排し、無限の自問自答を繰り返して
勝つ術を考え抜いた。1日に亡くなったイビチャ・オシムさんがサ
ッカーを語る言葉の向こうに、人生があった。
面食らったことを今も思い出す。2006年7月に日本代表監督に
就任し、最初にメンバーを発表した時のことだ。直前のワールドカ
ップ(W杯)ドイツ大会で惨敗し、再建を託された老将の人選が注
目されたが、驚きは顔ぶれではなく人数だった。たった13人。ベ
ンチ入りを考えると試合には臨めない。記者会見で最初に「人数が
少ないのでは」と質問すると「あなたはなぜ最初から、この13人
を信用しないのか」と返ってきた。
「過密日程で発表時」
過密日程で発表時には体調万全の選手が少なかったのが理由だった
体調万全、戻る1
が、素直な返答はない。問いに対して問いで返すのが常だった。
「なぜドイツのW杯で1次リーグを突破できると思ったのか」「な
ぜブラジルには勝てないとかんがえたのか」。選手にも、時には記
者にも「なぜ」を突き付け、考えることを求めた。
1964年東京五輪に選手として来日。極東の国の技術力に驚き、
人々の温かなもてなしと文化に触れて親日の心を抱いた。旧ユーゴ
スラビア代表を率いた90年W杯8強、祖国の紛争と崩壊、家族離
散の辛酸。波瀾万丈の約40年を経て再び日本の地を踏んだのは、
昔日の縁も作用したのか。「日本サッカーの日本化」を打ち出し、
欧州や南米の模倣ではないサッカー確立に心血を注いだ。
07年アジア・カップは4位に終わったが、強敵オーストラリアを
撃破するなど「考えて走るサッカー」の輪郭は見え始めていた。だ
が、病魔により志半ばで退任。以降は現場にたてなかったが、サッ
カーへの情熱は衰えなかった。
「相手の戦術を壊す」
相手の戦術を壊すより、自らのスタイルを築くことに価値を置いた。
スタイル、戻る2
いつも「あなたなら、どうするか」と問われている気がした。そんな
オシム監督が率いる日本代表をW杯で見たかった。
「サッカーが何か教えてもらった」 教え子哀悼
オシムさんの訃報に、教え子がSNSで恩師をしのんだ。
阿部勇樹さんは市原(現千葉)で薫陶を受け、若くしてチームの主
将にも抜てきされた。「オシム監督から学んだことは、自分の今後
の人生で大事なことであり、それをしっかりと伝えていけるように
頑張ります。日本に来てくれてありがとうございます。必ず報告し
にいきます」とつづった。
鈴木啓太さんは日本代表時代、献身的なプレーでオシムさんの目指
す「走るサッカー」を支えた。「私にとって、サッカーというもの
が何かを教えていただき、その後の人生にも大きな影響を与えてく
ださった方。本当にありがとうございました。ゆっくり休んでくだ
さい」と記した。
「日本サッカー協会」
(川淵氏「偉大な人物」)
日本サッカー協会は2日、訃報を受けて幹部らの談話を発表し、代
訃報を受けて、戻る3
表監督就任当時の会長だった川淵三郎相談役は「偉大なる人物に指
揮してもらえたことは日本サッカーにとって大きな名誉だ」とたた
えた。元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさん死去、名将言
葉の向こうに人生。オシム監督は日本サッカー界に多大な影響を与
えてくれた人物である。走るサッカーを推進して日本サッカーの文
化にしてくれた人です。心から尊敬しています。教え子たちの人生
にも大きな影響を与えています。彼らの財産です。
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