南北に細長い内灘町の中央に位置する大根布地区。日本海と河北潟
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に挟まれた集落は古くから漁業で栄え、その時々の潮流に合わせて
姿を変えながら、内灘の政治行政の中心を長く狙ってきた。移り変
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わりの激しい時代の荒波にさらされながらも、進取の気概で乗り越
えてきた「ねぶ」の人々を訪ね歩いた。
大根布を歩くと、坂の多さが目を引く。急勾配の斜面に住宅が密集
して立ち並んでいる。坂の町の全体像をつかむため、地域の生き字
引を訪ねた。
「ねぶはもともと漁師町やったんや。家のすぐそばまで河北潟が広
がり、漁師は河北潟から川を通って日本海に船を出しとった」。元
町長の岩本秀雄さん(91)=大根布7丁目=がかつての漁村風景
を述懐する。
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組合運動、タクシー会社経営、町議、町長と激動の半生を歩んだ岩
本さんもスタートは漁師である。14歳から4年ほど海の上で仕事
をした後「これからは乗り物の時代」とタクシー業に転身した。戦
後、大根布では同じように船を降りる人が多かったらしい。
(地名由来はアイヌ語?)
地域の成り立ちとともに知りたかったことがある。住民の多
くが「ねぶ」と呼ぶ地名の由来である。
岩本さんによると、ねむの木が多く生えていたことや、漁業
を通じて交流が盛んだった北海道の言葉を語源とする説があ
るらしい。岩本さんは「アイヌ語でオットセイを『ねぶ』と
呼ぶそうだが、はっきりしたことは分からん」と苦笑いす
る。
内灘海岸にたたずむオットセイを想像しながら坂の街をぶ
らつく。小濱神社代の前の小道を進むと、軽トラから降りて
きた藤井茂治さん(91)と出会った。農作業をしてきた
のだという。
大根布の90代は元気な人が多い。
(放水路掘削に従事)
藤井さんも元漁師である。季節ごとに九州から北海道まで
北上し、ニシンやイワシ、アジを追い掛ける。「北海道の
ニシン場や貝場には体一つで行ったなあ」と懐かしそうに
振り返る。
そんな藤井さんも高度経済成長期には網を陸に上げた。1964
(昭和39)年秋に始まった河北潟放水路の掘削工事である。
「魚もすくなくなったし、漁師を辞めて、湖底を掘るサンドポンプ
船に乗っとんたんや。3交代制で24時間稼働しとった」。約10
年かけて造られた放水路は長さ1670メートル、幅110メート
ル、掘った土は750万トンに上ったという。
2001(平成13)年には放水路を渡るサンセットブリッジ内灘
が開通した。「まさか大根布にこんなでかい橋が架かるとは思わな
んだ」と笑う。
かつて人口の9割が海に出た大根布の男たち。荒れる日本海で育ま
れた気概は今も息づいている。
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