大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」

 

(大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、

課題は「交通問題」)

大野から金沢港を

大野から金沢港を望む護岸は、釣り人の人気スポットだ。夜にはラ



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イトアップされた金沢港クルーズターミナルが遠くに見える。

望む護岸は、釣り人の

「金沢港は、住民の長年の夢だったんや」。町会連合会の粟森長八
人気スポットだ。夜には

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さん(78)=大野町4丁目=を訪ねると、問わず語りに港整備の

歴史を言い始めた。

 

明治時代の大野の地図を見せてもらった。県金沢港大野からくり記

念館がある大野町4丁目周辺と、石油基地などがある対岸の粟崎の

丘は陸続きだった。港を造るため、農地を掘り込み、まちの形を大

きく変えたことがよく分かった。

 

(「復活劇」夢見て)

なぜ大野の人々は、これほど大がかりな港整備工事を受け入れたの

か。それは、鉄道の発達や自動車の登場で打撃を受けた舟運のまち

・港町大野にもう一度人を呼び込むための「復活劇」を夢見ていた

からだった。

 

大正時代、住民は大型船の着港を見据えて「金沢港整備」の声を上

げていた。1935(昭和10)年、旧大野町が金沢市との合併を

選んだのも「金沢港実現のため、住民の気持ちが一つになったから」

と粟森さんはみる。

「大がかりな掘り込みが必要」

大がかりな掘り込みが必要な金沢港整備の一大プロジェクトは、戦
金沢港整備の一大プロジェクト、戻る1

争の勃発などで幾度となく浮かんでは消えた。だが、三八豪雪で陸

上交通が破壊的な打撃を受けると、金沢港整備計画が一気に現実味

を帯びた。地元では開港に向けた建設用地の確保などを進め、70

年11月、悲願の金沢港開港となったのである。

 

金沢港は完成した。それでも大野に昔ほどの活気が戻ったとは言い

難い。昭和の終わり頃に若者世代の流出が進み、人口減が課題とな

った。そこで大野の住民が中心となって1988年に「まちづくり

委員会」を組織し、新たな大野の整備へ構想を練ってきた。

 

構想の中には港近くにある「お台場公園」整備やからくり記念館設

立の実現、子育て世代の増加を目指した県営住宅の誘致など、すで

に形になったものがある。

 

 

 

 

 

「大野のまちの象徴的な存在」

大野のまちの象徴的な存在といえるのが、98年に商工会の有志が
といえるのが、98年に商工会の有志、戻る2

設立した、カフェ兼ギャラリーの「ギャラリー&茶論 もろみ蔵」

だ。使われなくなったしょうゆ蔵をまちの活性化に生かそうと、9

8年にオープンした。

 

住民と観光客の憩いの場となっている蔵は、所有する「紺市醬油」

の紺田健司さん(72)が管理する。紺田さんは蔵のオープンを皮

切りに、他の建物も工房や店舗として貸し出し、一帯には大野の外

からやってきた人による出店が4件あった。自身も観光ガイドとし

て活動する紺田さんは「大野をリピーターが来るまちにしたい」と

笑みを見せる。

 

課題は「交通問題」

早くから「まちづくり」が意識されてきた大野。住民に今の課題を

尋ねると、「交通問題」を挙げる人が多かった。

 

大型クルーズ船の客が大野へ気軽に訪れることができたら。年間7

万5千人が来場する「糀パーク」は、もっとにぎわっているだろう。

市内全体の観光にも効果が波及するかもしれない。口々に大野の発

展を熱く語る人々を前にすると、自然と夢が膨らむ。

「金沢の城下町とは違った発展」

金沢の城下町とは違った発展の歴史をたどった「むらさきのまち」。
歴史をたどった「むらさきのまち」、戻る3

しょうゆ造りや祭礼を守るいちずさと、外からもたらされた文化や

人を柔軟に受け入れる懐の深さ。まちの形が金沢港整備で大きく変

わったが、大野の精神は今も息づいている。金沢の「海の玄関口」

として、たくましく発展するのだろう。大野はむらさき6、金沢港

から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」。醬

油は昔から大野が有名である。家では今でも大野醬油を使っていま

す。他の醬油は使いません。おいしい醬油です。

 

 

 

 

 

 

 

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