奥能登産科医ただ一人、「ワンオペ」課題浮き彫り、輪島病院で誤診新生児死亡

(奥能登産科医ただ一人、「ワンオペ」課題浮き彫り、輪島病院で

誤診新生児死亡)

市立輪島病院で

市立輪島病院で昨年6月、産科医の誤診が原因で新生児が亡くなっ



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たことが6日、明らかになった。奥能登全体で常勤産科医は同病院

 
昨年6月、産科医

の一人のみで、高いリスクを抱えた出産に医師1人で対応する「ワ
誤診が原因で新生児

外部リンク

ンオペ勤務」の問題点が浮き彫りになった。過疎地の公立病院が独

 

力で産科医を確保するのは容易ではなく、輪島、珠洲、穴水、能登

の2市2町では、石川県に対し、広域的な専門医療機関の設置を求

める声が大きくなっている。

 

珠洲は「院内助産」専門機関求める声

「突然、陣痛が起きたら慌ててしまう。近くに産婦人科医がいてく

れたら、どれだけ安心なことか」。昨年5月、珠洲市総合病院で出

産した40代女性は、奥能登への産科医の追加配置を強く望んでい

る。

 

緊急時、珠洲市中心部から産科医のいる市立輪島病院まで車で向か

うとなれば、約1時間を要する。出産を控えた女性にとって、近く

に医師がいることは「精神面でのサポートにもなる」と女性は語る。

 

奥能登には、6年前まで3人の産科医がいたが、2019年12月

に珠洲市総合病院から常勤産科医がいなくなり、市立輪島病院の1

人だけとなった。

 
珠洲市総合病院は

このため、珠洲市総合病院は、2人目以降の出産でリスクが低い場
2人目以降、戻る1

合に限り、助産師のみで担う「院内助産」を導入している。19年

度に6件、20年度に19件、21年度には10件を実施した。た

だ、産科医の多い金沢市内で出産を希望する人もいるのが実情だ。

 

奥能登の自治体は、金大などに産科医派遣を働き掛けているものの

、実現していない。昼夜を問わず対応しなければならず、訴訟リス

クも抱える産科医そのものが、若い医師から敬遠される傾向にある。

県地域医療推進室によると、開業医と公立病院勤務の県内産科医数

は、最新データとなる2020年12月末時点で116人であり、

減少傾向が続く。そのうち、金沢を中心とした石川中央医療圏が8

6人と全体の75%を占め、地域による偏りが大きい。

 

金大附属病院の浦田敏文院長は「過疎地でも産科医の複数配置が望

ましいが、産科の希望者自体が減っており、大学から医師を送りに

くい状況だ」と話す。

 

輪島、珠洲、穴水、能登の各市町からは「等距離の場所に、専門の

医療機関をつくるべきだ」(珠洲市の担当者)との要望が出ている。

馳浩知事は、3月の知事選で能登振興策として、周産期医療センタ

ーの整備を公約に掲げた。

 

「尋常ではない」

輪島市の坂口茂市長は6日の会見で、奥能登に産科医が一人で勤務

する状況を「尋常ではない」と指摘した。その上で「奥能登2市2

町が県、大学と力を合わせながら何とかしていきたい」と悩ましげ

に語った。

 

 

 
「市立輪島病院で」

(輪島市長、病院が謝罪)

市立輪島病院で新生児が亡くなった医療事故について、坂口茂市長
新生児が、戻る2

と品川誠院長が6日、市役所で記者会見し、謝罪した。市は全面的

に責任を認め、遺族に損害賠償金5825万円を支払い示談する。

同日の市議会臨時会で、損害賠償に関する議案が可決された。

病院によると主治医の男性産科医は、出産前に胎盤が子宮からはが

れる「常位胎盤早期剝離」を早産と誤診し、胎盤の剝離を進行させ

る陣痛促進剤の投与を続けた。

 

母親は東京在住で、里帰り出産のため昨年5月から輪島病院を受診

、妊娠35週の昨年6月2日早朝、出血があったとして来院した。

主治医は早産と判断して入院させ、同日午前11時45分から5時

間半の有給休暇を取得し、病院を離れた。

 

同日正午ごろから出血が急増し、助産師が主治医に連絡して判断を

仰いだが早産との判断は変わらず、陣痛促進剤を投与。午後3時4

5分に主治医は戻り、入院から約14時間後の午後8時に吸引分娩

を実施した。新生児はぐったりした状態で、金沢市内の病院に転院

したが3日に死亡した。

 

出産の際に胎盤を見て早期剝離の可能性に気付いたという。品川院

長は「帝王切開や別の医療機関への転院を判断するべきだった」と

説明した。

 
「主治医は約17年」

主治医は約17年、産婦人科の「一人医長」を務めてきた。品川院
産婦人科の、戻る3

長は、主治医が経験を過信し、現場の情報交換が不十分だったとし

、「ご遺族や市民に申し訳ない」と頭を下げた。早産や低体重、妊

婦に異常出血がある場合は、産科医が複数人いる病院へ搬送するこ

となど再発防止策を取る。奥能登産科医ただ一人、「ワンオペ」課

題浮き彫り、輪島病院で誤診新生児死亡。出産には危険が付き物で

特に今回は産科医が一人だけで誤診してしまった。その結果として

新生児の尊い命が奪われた。どんな医師も命を最優先して仕事をし

てほしいと思います。

 

 

 

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五島世界陸上代表に、日本選手権1万メートル3位、県出身女子で初「悲願かなった」

(五島世界陸上代表に、日本選手権1万メートル3位、県出身女子

で初「悲願かなった」)

陸上の日本選手権

陸上の日本選手権1万メートル女子は7日、世界選手権(7月、米



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オレゴン州)代表選考会を兼ねて東京・国立競技場で行われ、金沢

 
五島莉乃(24)

市出身の五島莉乃(24)資生堂が31分58秒97で3位に入り
資生堂が31分

外部リンク

、県出身の女子として史上初めて世界陸上代表に内定した。

 

(攻めて耐えて世界切符)

「積極的な自分らしいレースができました」。世界陸上への切符を

つかんだ五島莉乃選手(24)金沢市出身、資生堂の喜びの声が国

立競技場に響いた。7日夜に行われた日本選手権1万メートル女子

。3位以内が絶対条件の大一番で、耐えながら3位に入った。金沢

から羽ばたいた県女子陸上界のヒロインは「さらに進化しなきゃい

けない」と誓った。

 

(陸上女子1万メートル3位)

トラックの脇で出番を待った。右手を胸に当て、大きく息を吐く。

午後7時44分スタートの5分前、緊張はピークに達していた。係

員に促され、選手そろってスタート位置へ向かう時、「五島莉乃が

んばれ」の横断幕が目に飛び込み、ようやく笑みがこぼれた。

 
「レース前日に積極的」

レース前日に積極的に走ると宣言した通り、スタートで先頭に立っ
走ると、戻る1

た。2連覇した東京五輪7位の広中凜梨佳ら2選手に7千メートル

付近で引き離されたが、慌てなかった。「足が動かなくなったけど

、3番を勝ち取ることを考えた」。1位から30秒近く遅れたもの

の目標は達成した。

 

 

 

世界陸上の「夢」が「目標」に変わったのは昨年12月。参加標準

記録を切り、「絶対出場して、日の丸を背負うんだ」との思いが芽

生えた。今年1月の全国都道府県女子駅伝では東京五輪1500メ

ートル8位の田中希実選手に競り勝ち、1区で区間賞を獲得。トレ

ーニングで追い込み、着実に力をつけてきた。

 

2年後のパリ五輪も見据える五島選手は「チャレンジする気持ちを

持って、またレベルアップした走りをお見せできるように頑張りた

い」と気持ちを新たにしていた。

 
「五島選手の快挙に」

「悲願かなった」

五島選手の快挙に、自宅でテレビ観戦した石川陸恊の藤垣晴夫専務
自宅で、戻る2

理事(68)は「県陸上界の悲願がかなった。我慢して耐えた結果

の3位。本当にうれしい」と喜びの声を上げた。

 

五島選手については「前向きで素直、そして負けず嫌い」と評し、

都道府県対抗女子駅伝や国体など「チーム石川」の一員としても

「頼もしい存在」という。

 

石川の陸上界では400メートル障害の大森重宜氏、三段跳びの

杉林孝法氏、競歩の鈴木雄介氏など男子選手には世界選手権の出

場者はいたが、女子ではこれまでに日の丸を背負った選手はいな

かった。

 
「今後は日程が合えば」

今後は日程が合えば激励会の開催も検討している。藤垣さんは
激励会の、戻る3

「よく頑張ったね、と声を掛けてあげたい。世界陸上でも積極

的な自分らしいレースをしてほしい。そしてパリ五輪を目指し

て頑張ってほしい」とエールを送った。五島世界陸上代表に、

日本選手権1万メートル3位、県出身女子で初「悲願かなった」

五島選手は女子では初の世界陸上代表になった。日頃からよほど

の覚悟を持って練習しなければ出場できるものではない。そうい

う意味では立派なことを成し遂げたと思います。世界陸上でも頑

張ってきてほしいと思います。心から応援しています。

 

 

 

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金沢のTANIDA、エンジン部品を供給、米の航空機産業に参入、石川、富山の企業受注拡大狙う

(金沢のTANIDA、エンジン部品を供給、米の航空機産業に参入、

石川、富山の企業受注拡大狙う)

航空機部品などを

航空機部品などを手掛ける「TANIDA」(タニダ、金沢市)は2



内部リンク

日までに、米国の航空機産業に本格参入した。小型飛行機のエンジ

製造する現地法人

ンを中心に製造する現地法人と契約し、部品供給を始めた。国内で
部品供給を始めた

は新型コロナの影響で旅客需要が減少する一方、米国では企業の社

外部リンク

用機や自家用機の市場が大きく、同社は販路拡大の足掛かりとする

 

。北陸の航空関連各社は行政と連携し、受注機会をうかがう。

 

タニダが契約したのは、個人所有向けの小型機エンジンなどを製造

する現地法人。タニダは部品を供給し、年間約2億円の売り上げを

見込む。駒井公一社長は「自社の鋳造技術を高く評価していただい

た」と話した。

「今回の契約を機に」

今回の契約を機にタニダが販路拡大を狙うのは、定期路線で運航し
タニダが、戻る1

ている飛行機でなく、企業や個人が所有する「ゼネラル・アビエー

ション」と呼ばれる分野だ。

 

タニダによると、同分野の飛行機が利用できる空港は米国内で数多

くあり、新型コロナで航空需要が減少した中でも、一定の運航数が

見込める。タニダが納める部品は、規定の飛行時間で交換が必要で

、メンテナンス時の需要も多いという。

 

同社はフランスの大手航空機エンジンメーカーにも部品を供給する

など、海外で受注を伸ばす。かほく市で建設中の新本社工場は6月

に本格稼働する予定で、生産体制の強化も図っている。

 

 

「昭和37年創業」

1962(昭和37)年創業のタニダは、2022年1月期の売上
タニダは、戻る2

高が約26億円で、航空機部品や半導体製造装置部品の受注増を受

け、来期は約30億円を見込む。駒井社長は「航空機市場は新規参

入が難しい分野だが、技術力を生かして受注獲得を目指したい」と

語った。

 

(情報交換、技術力磨く)

タニダを含む石川県内の航空機部品メーカー約20社と県産業創出

支援機構(ISICO)は、2017年にクラスター「AC Ishikawa」を

発足させ、情報交換や技術力の向上に取り組んでいる。ISICOに

よると、航空機市場は参入障壁が高く、安定的に受注を獲得するに

は高い技術力が必要になるという。

 

富山県内では、製造業7社による航空機部品の共同受注グループ

「ソラトヤマ」が組織され、表面処理や機械加工など各社が得意

分野を生かして受注獲得を図る。

 

このうち石金精機(富山市)は2008年から航空機事業に参入

し、これまでに米ボーイング社や防衛省向けの機体に約300点

の部品を納入した。

「関係者によると」

関係者によると、米国と中国の国際的な緊張状態により、米国の
国際的な、戻る3

大手航空機メ-カーが発注先を中国から他国のメ-カーに切り替

える動きも出ているという。担当者は「需要の回復に向けて供給

体制を整えたい」と話した。金沢のTANIDA、エンジン部品を供

給、米の航空機産業に参入、石川、富山の企業受注拡大狙う。航

空機産業と言えば部品の欠陥や加工ミスは、許されない。技術力

が高いのはもちろんだが部品の加工精度や検査や管理まで完全で

なければならない。部品に問題があると時には事故につながるこ

ともあるので受け入れ側も部品の厳しいチェックをするでしょう

。航空機は空を飛ぶので甘い考えは、許されません。だから技術

と経験がないと新規参入が難しいのです。

 

 

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JAののいち、農薬ミス苗6000箱廃棄、農家30軒GWに田植えできず

(JAののいち、農薬ミス苗6000箱廃棄、農家30軒GWに田

植えできず)

JAののいち、

JAののいち(野々市市)が、農薬の使い方を誤ったため、組合員



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向けの水稲の育苗に失敗、販売予定だった約50軒分の苗約6千

全てを廃棄した

箱全てを廃棄したことが、2日までに分かった。同JAは、急きょ
2日までに分かった

外部リンク

約3千箱分の苗を他のJAから購入して配布したものの、農家約3

 

0軒が大型連休(GW)中の田植えができない異例の事態となった

(1~2週間遅れ)

JAののいちは、不足分は育苗をやり直しており、田植え時期は1

~2週間遅れる見込み。

「同JAは野々市市」

同JAは野々市市三日市の育苗施設などで約6千箱の水稲の苗を育
育苗施設、戻る1

て、希望する組合員に販売している。今年は4月上旬、種もみを

まくのと同時に、苗の病気を防ぐ粒状の農薬を散布した。16日

に職員が確認したところ生育にむらがあり、農薬の影響が疑われ

た。

 

同JAによると、使用予定だった農薬の販売が中止されていたため

、例年は使わない農薬で代用した。代用した農薬は、田植え直前

に使うタイプだった。使用時期を誤ったため、生育不良になった

とみられる。

 

農薬は、使用する分量やタイミングが農薬取締法で決められてい

る。県に相談したところ、同法に抵触する可能性もあったため、

苗の廃棄を決め、約20軒に引き渡し済だった約3千箱を回収、

農家に陳謝した。

「同JAは、多くの」

同JAは、多くの農家が田植えをする大型連休に間に合わせるため
田植えを、戻る2

、県内の他JAから苗を調達した。足りない分は、種まきと同時に

散布できる農薬を使って育苗をやり直した。14日ごろに組合員

約30軒に引き渡しを予定する。

 

 

 

例年、大型連休中に家族総出で田植えをしているという組合員男性

(66)は「苗が遅くなると言われて困った。家族の手があるのは

連休だけ。連休以外でやるのはつらい」と話し、苗を別の農事組合

法人から購入して間に合わせるという。

 

(収量や品質「影響なし」)

石川県農林総合研究センター農業試験場中央普及支援センター(金

沢市)によると、20日ごろまでに田植えをすればコメの収量や品

質に大きな影響はない。天候や病害で育苗がうまくいかない例は過

去にもあったが、農薬の誤使用で育苗に失敗するケースは珍しい。

同センターの田中澄恵担当課長は「全く起こりえないことではない

が、あってはならないことだ」と話した。

「西村信夫組合長は」

西村信夫組合長は、前例のないミスに「初めて使う農薬なら余計に
前例のない、戻る3

注意が必要だった。組合員に迷惑が掛からないよう全力で対応した

い」と陳謝した。再発防止策として、農薬の発注を含めて作業を確

認する職員の増員を検討する。JAののいち、農薬ミス苗6000箱

廃棄、農家30軒GWに田植えできず。初めて使う農薬なので使い

方の確認をすべきだったと思います。何でも分からないことがあっ

たら専門家に聞くべきです。そうすれば今回のようなミスは防止で

きます。

 

 

 

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元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさん死去、名将言葉の向こうに人生

(元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさん死去、名将言葉の

向こうに人生)

日本代表監督の

元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムさんが1日、自宅のあ



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るオーストリアのグラーツで死去した。死因は不明。80歳。サラ

指導の現場に

エボ出身。日本代表監督が指導の現場に立った最後の仕事だった。
日本代表監督が

独特の言い回しも魅力で、日本人選手が持つ特長を尊重ししながら

外部リンク

成長を促し、日本サッカー界に多大な影響を与えた。旧ユーゴスラ

 

ビア代表でも実績を残し、母国のボスニア・ヘルツェゴビナだけで

なく民俗の枠を超えて尊敬を集める名将だった。

 

(評伝)

勝負への楽観や悲観を徹底して排し、無限の自問自答を繰り返して

勝つ術を考え抜いた。1日に亡くなったイビチャ・オシムさんがサ

ッカーを語る言葉の向こうに、人生があった。

 

面食らったことを今も思い出す。2006年7月に日本代表監督に

就任し、最初にメンバーを発表した時のことだ。直前のワールドカ

ップ(W杯)ドイツ大会で惨敗し、再建を託された老将の人選が注

目されたが、驚きは顔ぶれではなく人数だった。たった13人。ベ

ンチ入りを考えると試合には臨めない。記者会見で最初に「人数が

少ないのでは」と質問すると「あなたはなぜ最初から、この13人

を信用しないのか」と返ってきた。

「過密日程で発表時」

過密日程で発表時には体調万全の選手が少なかったのが理由だった
体調万全、戻る1

が、素直な返答はない。問いに対して問いで返すのが常だった。

 

「なぜドイツのW杯で1次リーグを突破できると思ったのか」「な

ぜブラジルには勝てないとかんがえたのか」。選手にも、時には記

者にも「なぜ」を突き付け、考えることを求めた。

 

 

 

1964年東京五輪に選手として来日。極東の国の技術力に驚き、

人々の温かなもてなしと文化に触れて親日の心を抱いた。旧ユーゴ

スラビア代表を率いた90年W杯8強、祖国の紛争と崩壊、家族離

散の辛酸。波瀾万丈の約40年を経て再び日本の地を踏んだのは、

昔日の縁も作用したのか。「日本サッカーの日本化」を打ち出し、

欧州や南米の模倣ではないサッカー確立に心血を注いだ。

 

07年アジア・カップは4位に終わったが、強敵オーストラリアを

撃破するなど「考えて走るサッカー」の輪郭は見え始めていた。だ

が、病魔により志半ばで退任。以降は現場にたてなかったが、サッ

カーへの情熱は衰えなかった。

「相手の戦術を壊す」

相手の戦術を壊すより、自らのスタイルを築くことに価値を置いた。
スタイル、戻る2

いつも「あなたなら、どうするか」と問われている気がした。そんな

オシム監督が率いる日本代表をW杯で見たかった。

 

「サッカーが何か教えてもらった」 教え子哀悼

オシムさんの訃報に、教え子がSNSで恩師をしのんだ。

阿部勇樹さんは市原(現千葉)で薫陶を受け、若くしてチームの主

将にも抜てきされた。「オシム監督から学んだことは、自分の今後

の人生で大事なことであり、それをしっかりと伝えていけるように

頑張ります。日本に来てくれてありがとうございます。必ず報告し

にいきます」とつづった。

 

鈴木啓太さんは日本代表時代、献身的なプレーでオシムさんの目指

す「走るサッカー」を支えた。「私にとって、サッカーというもの

が何かを教えていただき、その後の人生にも大きな影響を与えてく

ださった方。本当にありがとうございました。ゆっくり休んでくだ

さい」と記した。

「日本サッカー協会」

(川淵氏「偉大な人物」)

日本サッカー協会は2日、訃報を受けて幹部らの談話を発表し、代
訃報を受けて、戻る3

表監督就任当時の会長だった川淵三郎相談役は「偉大なる人物に指

揮してもらえたことは日本サッカーにとって大きな名誉だ」とたた

えた。元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさん死去、名将言

葉の向こうに人生。オシム監督は日本サッカー界に多大な影響を与

えてくれた人物である。走るサッカーを推進して日本サッカーの文

化にしてくれた人です。心から尊敬しています。教え子たちの人生

にも大きな影響を与えています。彼らの財産です。

 

 

 

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オシム元日本監督死去、80歳「考えて走るサッカー」「君たちはプロ。休むのは引退してから」

(オシム元日本監督死去、80歳「考えて走るサッカー」「君たち

はプロ。休むのは引退してから」)

日本代表監督で

元サッカー日本代表監督で、独特のユーモアとサッカー愛にあふれ



内部リンク

た言葉が「オシム語録」として人気を呼んだイビチャ・オシムさん

 

が死去したことが1日、関係者の話で分かった。80歳。サラエボ

出身。

独特のユーモアと

旧ユーゴスラビア代表監督としてストイコビッチらを擁して199
サッカー愛に

外部リンク

0年ワールドカップ(W杯)でベスト8。2003年、J1下位に

 

低迷する市原(現J2千葉)を強豪に育て、06年に日本代表監督

に就いた。

 

日本選手の特徴を生かした「考えて走るサッカー」を掲げて10年

W杯での躍進を目指したが07年11月、脳梗塞で倒れて退任を余

儀なくされた。後任は岡田武史さん。

 

旧ユーゴの民族紛争に翻弄された半生を記した書籍「オシムの言葉」

が、日本でベストセラーになるなど競技の枠を超えて注目された。

その後は母国であるボスニア・ヘルツェゴビナ協会の正常化などに

尽力し、14年のW杯初出場を実現させた。

「かつて監督を務めた」

かつて監督を務めたシュトルム・グラーツ(オーストリア)も公式
シュトルム、戻る1

ホームページで死去を伝え「彼が全ての世代のファンに愛されてい

ることは間違いない」とつづった。

 

オシムさんは、多くの名言を残した。深い洞察力やサッカー観、人

生観がにじむ「オシム語録」は。

 

「PKはくじ引きみたいなもの」(旧ユ-ゴ代表監督時代の199

0年W杯イタリア大会準々決勝、アルゼンチン戦でPKを見ずにロ

ッカーへ。試合はユ-ゴが敗れた)

 

「戦争から学べたとすれば、それは必要なものになってしまう」

(90年代、祖国の内戦を乗り越えて欧州でクラブ監督を歴任)

「君たちはプロ。」

「君たちはプロ。休むのは引退してからで十分」(2003年
休むのは、戻る2

1月、市原監督就任あいさつで)

 

「ライオンに追われたうさぎが逃げ出すとき、肉離れをします

か?準備が足りないのです」(03年夏、選手のけがについて)

 

「90分間走れない選手がいた。日本人は相手よりどれだけ走

れるかで勝負しなければ」(06年8月、初指揮のトリニダー

ド・トバゴ戦後に)「天才ぶりを発揮する機会は何回かに一度。

いつも天才であろうとすると、結果は無残に終わる」(07年

3月、ペルー戦で中村俊輔のプレーについて)

 

「お前たちはアマチュアか。プロの私は死ぬ気でこの試合に臨

んだのに、そういう気持ちがあったのか」(07年7月、アジ

ア・カップ初戦でカタールと引き分けて)

 

「試合は?」(07年12月、急性脳梗塞で入院中に意識を回

復して最初に発した言葉とされる)

「南アフリカ」

「南アフリカ(のW杯)で世界のサッカー界の記憶に残る何か
世界の、戻る3

を成し遂げてほしい。日本にはそういう潜在能力がある」(0

8年12月、アドバイザー退任に際して)オシム元日本監督死

去、80歳「考えて走るサッカー」「君たちはプロ。休むのは

引退してから」。オシム監督と言えば優しい人柄である。しか

し選手や試合には非常に厳しい人でした。90分間、走れない

選手は使ってもらえない。とにかく練習して体力を付けるしか

方法はないのです。あの有名な中村俊輔までが批判されるので

すから。とにかくすごい監督でした。

 

 

 

 

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