北陸のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4年、弟子独立、半世紀で幕

と(北陸のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4

年、弟子独立、半世紀で幕)

北陸のすしを牽引

北陸のすしを牽引してきた野々市市太平寺1丁目の「太平寿し」が



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今月末で半世紀の歴史に幕を下ろす。全国の食通にもファンが多く、

してきた野々市市

その腕前と気さくな人柄で店の評判を高めた前店主の高谷進二郎さ
太平寺1丁目の「太平寿し」が

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んが死去してから4年。弟子たちは相次いで独立し、職人の確保が

 

ままならなくなった。女将の美知子さん(73)は亡き夫が育てた

名店の看板をしまうことを決断、常連客からは惜しむ声が上がって

いる。

 

(今月末)

太平寿しは1972(昭和47)年、高谷さんの兄勲さんが開いた

店が原点だ。高谷さんは大学卒業後に大手飲料メーカーに就職予定

だったが、店の手伝いから、そのまま職人として歩み始めた。

「一手間をかけて魚のうま味を」

一手間をかけて魚のうま味を引き出す創作すしと、話好きなユーモ
引き出す創作すしと、話好きな、戻る1

アあふれる人柄で一躍人気店になった。看板メニュー「のど黒の蒸

しずし」は今も訪れた客のほとんどが注文する逸品だ。

 

しかし、高谷さんが2018年、68歳で他界すると、新型コロナ

ウイルスの感染拡大の影響もあり、店を取り巻く環境は悪化した。

当時いた6人の弟子たちのうち、4人が独立や他店に移るなど次々

と店を離れた。

 

今年9月からは美知子さんのおいで現在大将を務める向野公士さん

(45)と、高森悠平さん(30)が2人ですしを握ってきたが、高

森さんも今月で退職することに。向野さんだけでは、カウンター9

席と、座敷2部屋を切り盛りできなくなるため、新たな職人を探し

たものの、コロナ禍で飲食業が敬遠されがちだからか、代わりは見

つからなかった。

 

 

 

 

 

 

「サービスを落としてまで」

サービスを落としてまで営業すれば、夫が守ってきた看板に傷がつ
営業すれば、夫が守ってきた看板に、戻る2

くと、美知子さんは悩んだ末に閉店することにした。そう決めると

自然に涙があふれてきたという。

 

「自分の店を持ちたいという思いは誰でも持っている。引き留める

ことはできない」と店で修業した職人たちを快く送り出してきた美

知子さん。巣立った高谷さんの弟子たちは「鮨八や」「飛」「河原

町一」「鮨処あいじ」など金沢市内の各店で板場に立つ。

 

向野さんは高谷さんと過ごした18年を振り返り「大将はすしを握

る技術もすごかったが、お客みんなに話し掛けて、目と耳がいくつ

あるんだと思うくらい器用だった」と懐かしそうに目を細めた。

「営業29日が最後で、食べ納めに」

営業29日が最後で、食べ納めに訪れる人で予約が埋まっている。
訪れる人で予約が埋まっている、戻る3

回転すしチェーン「もりもり寿し」を経営する上野謹一さん(5

6)も常連客の1人。上野さんは「最初は勉強のために来たが、

ほっとできる店の雰囲気が好きだった。進二郎さんは多くの弟子

を育てたから、その思いはつながっていくはず」と話した。北陸

のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4年、

弟子独立、半世紀で幕。名物大将の寿しを握る腕前は素晴らし

かったが、話好きで優しい人柄でどんな客とでも話をしていた。

その気さくな性格が客を引き付けていた。そこが最大の魅力で

あった。

 

 

 

 

 

 

 

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大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」

 

(大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、

課題は「交通問題」)

大野から金沢港を

大野から金沢港を望む護岸は、釣り人の人気スポットだ。夜にはラ



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イトアップされた金沢港クルーズターミナルが遠くに見える。

望む護岸は、釣り人の

「金沢港は、住民の長年の夢だったんや」。町会連合会の粟森長八
人気スポットだ。夜には

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さん(78)=大野町4丁目=を訪ねると、問わず語りに港整備の

歴史を言い始めた。

 

明治時代の大野の地図を見せてもらった。県金沢港大野からくり記

念館がある大野町4丁目周辺と、石油基地などがある対岸の粟崎の

丘は陸続きだった。港を造るため、農地を掘り込み、まちの形を大

きく変えたことがよく分かった。

 

(「復活劇」夢見て)

なぜ大野の人々は、これほど大がかりな港整備工事を受け入れたの

か。それは、鉄道の発達や自動車の登場で打撃を受けた舟運のまち

・港町大野にもう一度人を呼び込むための「復活劇」を夢見ていた

からだった。

 

大正時代、住民は大型船の着港を見据えて「金沢港整備」の声を上

げていた。1935(昭和10)年、旧大野町が金沢市との合併を

選んだのも「金沢港実現のため、住民の気持ちが一つになったから」

と粟森さんはみる。

「大がかりな掘り込みが必要」

大がかりな掘り込みが必要な金沢港整備の一大プロジェクトは、戦
金沢港整備の一大プロジェクト、戻る1

争の勃発などで幾度となく浮かんでは消えた。だが、三八豪雪で陸

上交通が破壊的な打撃を受けると、金沢港整備計画が一気に現実味

を帯びた。地元では開港に向けた建設用地の確保などを進め、70

年11月、悲願の金沢港開港となったのである。

 

金沢港は完成した。それでも大野に昔ほどの活気が戻ったとは言い

難い。昭和の終わり頃に若者世代の流出が進み、人口減が課題とな

った。そこで大野の住民が中心となって1988年に「まちづくり

委員会」を組織し、新たな大野の整備へ構想を練ってきた。

 

構想の中には港近くにある「お台場公園」整備やからくり記念館設

立の実現、子育て世代の増加を目指した県営住宅の誘致など、すで

に形になったものがある。

 

 

 

 

 

「大野のまちの象徴的な存在」

大野のまちの象徴的な存在といえるのが、98年に商工会の有志が
といえるのが、98年に商工会の有志、戻る2

設立した、カフェ兼ギャラリーの「ギャラリー&茶論 もろみ蔵」

だ。使われなくなったしょうゆ蔵をまちの活性化に生かそうと、9

8年にオープンした。

 

住民と観光客の憩いの場となっている蔵は、所有する「紺市醬油」

の紺田健司さん(72)が管理する。紺田さんは蔵のオープンを皮

切りに、他の建物も工房や店舗として貸し出し、一帯には大野の外

からやってきた人による出店が4件あった。自身も観光ガイドとし

て活動する紺田さんは「大野をリピーターが来るまちにしたい」と

笑みを見せる。

 

課題は「交通問題」

早くから「まちづくり」が意識されてきた大野。住民に今の課題を

尋ねると、「交通問題」を挙げる人が多かった。

 

大型クルーズ船の客が大野へ気軽に訪れることができたら。年間7

万5千人が来場する「糀パーク」は、もっとにぎわっているだろう。

市内全体の観光にも効果が波及するかもしれない。口々に大野の発

展を熱く語る人々を前にすると、自然と夢が膨らむ。

「金沢の城下町とは違った発展」

金沢の城下町とは違った発展の歴史をたどった「むらさきのまち」。
歴史をたどった「むらさきのまち」、戻る3

しょうゆ造りや祭礼を守るいちずさと、外からもたらされた文化や

人を柔軟に受け入れる懐の深さ。まちの形が金沢港整備で大きく変

わったが、大野の精神は今も息づいている。金沢の「海の玄関口」

として、たくましく発展するのだろう。大野はむらさき6、金沢港

から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」。醬

油は昔から大野が有名である。家では今でも大野醬油を使っていま

す。他の醬油は使いません。おいしい醬油です。

 

 

 

 

 

 

 

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署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5人帰国20年、「この時計は母」

((署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5人帰国20年、「この

時計は母」)

1978年に北朝鮮

1978年に北朝鮮へ拉致された蓮池薫さん(65)と妻祐木子さ



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ん(66)=新潟県柏崎市、曽我ひとみさん(63)=同県佐渡市、

拉致された蓮池薫さん

地村保志さん(67)と妻富貴恵さん(67)=小浜市=が200
(65)と妻祐木子

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2年10月に帰国して、15日で20年となった。5人は仕事や生

 

活の傍ら、拉致問題の解決を願い、講演や署名活動で訴え続けてい

る。

 

北朝鮮は今年に入り弾道ミサイル発射を繰り返し、日朝関係は膠着

状態となっている。政府が認定した残る被害者12人の帰国への道

は依然遠い。待ちわびる家族の高齢化だけが進み、近年は横田めぐ

みさん=失踪当時(13)=の父滋さんらが相次いで亡くなった。

 

02年9月に当時の小泉純一郎首相が訪朝し、金正日総書記が拉致

を認めて謝罪。蓮池さんら5人は翌月、帰国を果たし、04年に北

朝鮮に残した子どもら7人が来日した。

 

(拉致被害者5人・帰国20年)

蓮池さんは、柏崎市の新潟産業大准教授として朝鮮語などを教える。

翻訳や著書の執筆に取り組み、12年には北朝鮮での生活をつづっ

た手記「拉致と決断」(新潮社)を出版した。

「佐渡市の養護老人ホームで」

佐渡市の養護老人ホームで介護の仕事をしている曽我さんは、街頭
介護の仕事をしている、戻る1

署名や講演会で、母ミヨシさん=同(46)=らの思い出や北朝鮮

での生活を語るなど精力的に活動している。夫のジェンキンスさん

は「佐渡歴史伝説館」の土産物店で働いていたが、17年12月に

77歳で亡くなった。

 

地村さんは勤めていた小浜市役所を16年3月に定年退職した。そ

の後は同市内で署名活動や拉致問題啓発の講演会に参加している。

富貴恵さんも福井県の嘱託職員を退職し、3人の子どもは県内企業

に就職するなどしている。

 

(「この時計は母」)

母から贈られた大振りの腕時計。准看護師として働き始めたころに、

患者の脈を測るのに便利だと選んだ。その後、24年に及ぶ北朝鮮

での生活と、帰国後に母を待つ20年という長い時間をともに過ご

してきた。

「この時計は母であり、何かにくじけそうになると𠮟ったり励まし

てくれる宝物」。北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんにとって、一

緒に連れ去られた母ミヨシさんを含む被害者がもどらない限り、拉

致問題は終わらない。

 

 

 

 

 

19歳だった1978年8月12日、新潟県佐渡市(当時真野町)

で母と道を歩いていたところ、男3人にいきなり袋をかぶせられ、

担いで運ばれた。乗せられたのは船。ミーティング港に着くと日

本語で「北朝鮮だ」と言われた。動転したが、一緒にさらわれた

はずの母がいないのが、何より心配だった。

 

母は、楽ではない暮らしの中で朝は田畑を耕し、昼は工場に勤め、

夜は内職を続け、その生活に愚痴の一つもこぼさなかった。小学

校の遠足では、ウインナーと卵焼きがたくさん入った弁当を作っ

てくれた。ただ、母のおかずは少しの漬けものだけ。

「辛いから、ご飯がいっぱい食べられるんだよ」と笑っていた。

「友達の浴衣がうらやましい」

友達の浴衣がうらやましいとねだると、夜を徹して縫ってくれ
ねだると夜を徹して、戻る2

た。寒い雪の日の帰り道、「仕事が早く終わった」と駆け寄っ

てきて上着に包んでくれた。涙ににじむ思い出の中でも、いつ

も笑顔だった母。拉致された日から、会えていない。

 

北朝鮮では新しい家族ができた。元米兵で亡命していたチャー

ルズ・ジェンキンスさんと結婚、2人の娘を授かった。

 

2002年に帰国、北朝鮮に残っていた家族も04年に来日し、

佐渡市で一緒に暮らし始めた。父茂さんは05年になくなった

が、時間を共有することが実現した。家族も地元になじむ努力

を惜しまず、友人らにも支えられた。

 

ただ、「幸せな分、ここに母がいなきゃな」との思いは消えな

かった。そして夫は17年に亡くなった。娘2人も家庭を持ち、

今は1人暮らしだ。

 

北に残る拉致被害者に危害が及ぶのを恐れ、活動を抑えてきた

時期もあったが、次第に積極的に支援を呼びかけるようになっ

た。「わずかな時間でも、母ちゃんを取り戻して、ともに過ご

したい」との思いからだ。

「腕時計が傷つき電池が」

腕時計が傷つき、電池が切れるたびに母に何かあったかと不安
切れるたびに母に何か、戻る3

になる。それでも、いつか帰る日を祈りながら、時を刻む針を

見つめ続けている。署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5

人帰国20年、「この時計は母」。曽我ひとみさんの母親は苦

労人で良く働く人でした。母親のご飯のおかずは漬けものだけ

です。それでも辛いからご飯が進むのよと言って笑っていたそ

うです。どんなに辛くても笑顔のたえない人でした。母親の所

を読むと自然に涙が出てきて止まりませんでした。娘の弁当の

おかずはたくさん作ったそうです。自分は我慢しても娘にはひ

もじい思いをさせたくなかったのでしょうね。本当に心から感

動しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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