首相、9月開催で調整、兵器用核禁止の条約締結目指し、国連総会で友好国会合

岸田文雄首相は、9月下旬に米ニューヨークで開催される国連総会

岸田文雄首相は、9月下旬に

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に合わせ、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT)の交渉開始の

米ニューヨークで

必要性を訴える「フレンズ(友好国)会合」を開催する方向で調整
開催される国連総会

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に入った。各国に首脳、閣僚級の参加を呼びかける。核兵器用の高

 

純度プルトニウムを生成できる高速増殖炉を建設中の中国の動向を

警戒。核開発競争を誘発しかねないとの懸念を示し、核軍縮の重要

性を訴える狙いだ。政府関係者が27日、明らかにした。

「先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)」

先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)で核保有国の米英仏を含
で核保有国の米英仏を、戻る1

め「核兵器のない世界」実現への関与を確認したことを受け、首相

の核軍縮外交の具体的な一歩と位置付けたい考えだ。原爆の惨禍を

訴えたサミットの成果を継続し、逆風下の核軍縮機運を高められる

かどうかが問われる。

 

 

FMCTは兵器用プルトニウムなどの生産を禁止する条約。G7首

脳はサミットの核軍縮文書「広島ビジョン」で条約交渉の即時開始

と、核軍備競争の再発を阻止するためFMCTへの政治的関心を再

び集めることを全ての国に強く求めた。

「首相は、G7メンバー以外の核保有国」

首相は、G7メンバー以外の核保有国インドのモディ首相とも、F
インドのモディ首相とも、戻る2

MCT交渉即時開始の重要性を既に確認している。

 

関係者によると、フレンズ会合はFMCTに賛同する国が集まり、

交渉開始の重要性を確認する。交渉妥結までの間、核保有国が兵器

用核分裂性物質生産の一時停止(モラトリアム)を自発的に宣言す

るように国際社会に呼びかける方向だ。

「中国を巡っては、不透明な核戦力増強」

中国を巡っては、不透明な核戦力増強に懸念が高まっている。福建
に懸念が高まっている、戻る3

省に高速増殖炉2基を建設中で、年間100発前後の核弾頭が製造

できる量のプルトニウムが生成可能とされる。核拡散防止条約(N

PT)が認める核保有五大国のうち中国だけがモラトリアムを宣言

していない。首相、9月開催で調整、への核禁止の条約締結目指し

中国が今、まさに2基の高速増殖炉を建設中である。これは非常に

世界にとっては怖いことであります。数年で全ての分野で中国が世

界一になりそうな気がします。既に軍事力は世界一になりました。

ロシア、中国、北朝鮮などの共産国が世界の脅威です。共産国は

必ず軍事力を強化してきます。これは歴史が証明しています。

 

 

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湖になった道路に車、中島2河川氾濫、「玄関水でいっぱいに」、「指示」前に避難所開放

七尾市の里山ののどかな風景が一夜にして茶色く濁った水で覆われ

七尾市の里山ののどかな

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た。たたきつけるような雨の中、湖のようになった冠水した道路を

風景が一夜にして

走る車。膝下まで押し寄せた水でいっぱいになった民家の玄関。1
茶色く濁った水で覆われ

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日、熊木川と日用川が氾濫した中島地区に向かうと、そこには何度

も水害と闘ってきた頼もしい住民の姿があった。

 

午前7時半、市の防災メールの着信がけたたましく鳴り響き、思わ

ずとび起きた。「避難指示及び避難所の開設について」。昨晩まで

それほど雨が降っていなかったのに短時間でこうも変わるのか。あ

わてて車に乗り込み、現場に向かう。

道中、フロントガラスを激しい雨がたたきつけ、前がよく見えない。

中島に近づくにつれ、道路や田畑が水につかり湖のようになってい

る中を走る車、河川敷だった場所に川の水があふれている様子が目

に飛び込んできた。

 

(てきぱきと畳外す)

「あと少しで家の中まで水が入るところやった。1時間ほどで玄関

が水でいっぱいになったわ」。中島町豊田で一人暮らしをする山岸

やす江さん(91)方には、庭一面に泥水が流れ込んだ。水は午前

7時ごろからたまり始め、1時間で50センチほどの高さになった。

「ただ、山岸さんの表情はそれほど」

ただ、山岸さんの表情はそれほど暗くない。近所の6人がすぐに駆
暗くない。近所の6人がすぐに、戻る1

け付け、てきぱきと畳を外していた。

「毎度のことやからね。みんなすぐに来てくれて本当にありがたい」

と山岸さん。「これ飲んで」と一人一人に清涼飲料水を渡し労をね

ぎらった。

 

応援に来た住民は蒸し暑い中、嫌な顔一つ見せず、黙々と作業に励

む。町会長の西井清さん(68)は「こんな時はお互いさまや」と

笑顔を見せた。

 

 

(カキかごを移動)

中島町浜田では、カキ業者が熊木川沿いに置かれていた養殖用のか

ごや網を安全な場所にせっせと移動させていた。

「避難用の一つとなった中島地区」

避難用の一つとなった中島地区コミュニティーセンター西岸分館で
コミュニティーセンター西岸分館で、戻る2

は、1家族6人が身を寄せていた。

 

中島町小牧の保育士辻田明子さん(39)は自宅のすぐ裏を流れる

小牧川の水があふれそうなのを見て避難を決めた。5年前は玄関ま

で水がきたといい、「怖い思い出がよみがえった。すぐに移動でき

てよかった」と安堵の表情を見せた。

 

この避難所が開設されたのは「避難指示」が出される約1時間前。

町内会長の赤坂達也さん(64)が午前7時ごろ、川があふれそう

なことに気付き、分館職員の妻美香さん(60)に連絡した。

 

2人は市に確認した上で、分館を一足先に避難所として開放し、川

沿いの家に連絡して避難を呼び掛けた。赤坂さんは「素早く対応で

きてよかった」と胸をなで下ろした。

「一瞬で普段の風景を変えた大雨の」

一瞬で普段の風景を変えた大雨の怖さを感じたとともに、度重なる
怖さを感じたとともに、戻る3

水害に襲われてきた中島の住民の冷静な対応にも驚いた取材だった。

湖になった道路に車、中島2河川氾濫、「玄関水でいっぱいに」

「指示」前に避難所開放。熊木川は山から水が押し寄せる地形でそ

んなに大雨でなくても川が氾濫するらしい。中島の住民は過去の経

験からこのことをよく知っていると思われます。今回もいち早く避

難所を開放して対応したので難を逃れています。

 

 

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良きまち余喜、羽咋市誕生の「立役者」、元鹿島郡、合併巡り激論、郵便番号変更

羽咋市が誕生したのは1958(昭和33)年7月1日。あと5日

羽咋市が誕生したのは

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で「65歳」となる節目の年だ。その2年前、小さな村村だった余

1958(昭和33)年

喜地区は羽咋町、邑知町、鹿島路村の2町2村と合併した。
7月1日。あと5日

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「羽咋町と一緒になるか、ならないかで村を二分する激論があった

 

そうです。余喜村と鹿島路村が合併しなかったら羽咋は市になって

いなかった。立役者ともいえます」

 

市文化財保護審議会の藤田豊郁会長(67)=四柳町=は、余喜地

区が羽咋の市制施行に重要な役割を果たしたと力説する。

「もともと余喜村と鹿島路村は」

(郵便番号変更は最近)

もともと余喜村と鹿島路村は、当時の能登部町や金丸村(いずれも
当時の能登部町や金丸村、戻る1

現中能登町)と同じ鹿島郡だった。郡内での市町村合併のみ認めて

いた県に対し、余喜村と鹿島路村は群域を越えて羽咋郡の羽咋町、

邑知町との合併を決議。2町2村の合併への熱意が県を納得させ、

市制施行の条件である人口3万人を満たしたという。

 

大町で菓子店を営む矢野田比呂子さん(76)は「小学生の時は鹿

島郡の行事に出ていた。羽咋と中能登の中心部からほぼ等距離だか

ら、今も中能登とのつながりは強いですよ」と話す。

 

 

そういえば、余喜地区の金丸出町と下曽祢町の隣には、中能登町の

金丸と曽祢という似た地名がある。どちらも「どぶろく特区」だっ

たり、高級麻織物「能登上布」の生産地だったりと共通点を持ち、

生活環境やなりわいが密接につながっていたのだろう。

「同じ郡だった名残は最近まであった」

同じ郡だった名残は最近まであった。長らく余喜地区では中能登と
長らく余喜地区では中能登と、戻る2

同じ郵便番号「929」を使い、ほんの2年半前に羽咋市の「92

5」になったと八野田さんが教えてくれた。

 

(奈良時代から「よき」)

地区を巡り、さまざまな余喜のわがまち自慢に出合ったが、気にな

ることがもう一つ。「余りある喜び」というありがたい地名のルー

ツについてである。

 

市歴史民俗資料館の学芸員中野知幸さん(45)によると、そもそ

も余喜という地名は1889(明治22)の市制・町村制施行時に

登場したのだという。奈良時代の木簡や書物には「与木郷」「翼倚」

の文字が残る。大町の御門主比古神社に合祀され、今は跡地しか残

っていない餘喜比古神社があり、昔から「よき」と呼ばれていたこ

とだけは確かだ。

 

それでは、なぜ余と喜の漢字を使ったのか。住民によると、5河川

が流れる余喜地区はかつて氾濫が絶えず、戦後の邑知潟干拓までは

農地も少ない。旧余喜小の統合協議会委員長を務めた中村康徳さん

(73)=下曾祢町=に尋ねると、「貧しい土地に住んでいた先人

が、良きまちになってほしいとの願いを込めてつけたんでしょう」

と返ってきた。

「過疎が進んでも、わがまちの歴史を」

過疎が進んでも、わがまちの歴史を紡ぎ、魅力を高めようと奮闘す
紡ぎ、魅力を高めようと奮闘、戻る3

る余喜地区の人たちに出会った。ふるさとを思う気持ちは今も昔も

変わらず、これからも良き未来に向かってたくましく歩み続けるの

だろう。良きまち余喜、羽咋市誕生の「立役者」、元鹿島郡、合併

巡り激論、郵便番号変更。羽咋市は合併しても小さな市です。仕事

をしていた頃は羽咋へもよく行きました。能登で有名なのは丸井織

物です。これはかなり大きな会社です。今でも常に最先端を走るい

い会社です。常に新しいものを開発しています。だから強いのです。

金沢のカジナイロングループも強い会社です。

 

 

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総理が語る、菅義偉氏、自公意思疎通を密に、解散見送り「結果よかった」

衆院の早期解散論に対し、私は最初から「やるべきではない」とい

衆院の早期解散論

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う趣旨のことを言い続けてきました。岸田文雄首相は今国会での解

に対し、私は最初から

散を見送りましたが、結果としてよかったと思います。ある世論調
やるべきではない

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査では速やかな解散を望んでいる人が11%しかいませんでした。

「腰を据えて政策をきちんと仕上げてほしい」というのが、多くの

国民の声なのだと思っていました。

 

(一致点見いだす努力を)

自民党と公明党の連立政権は政治の安定につながると同時に、政策

の推進力にもなっています。しかし東京でいま、選挙協力の解消と

いう非常に残念な状況になっています。長い間の信頼関係が崩れる

ことのないよう、意思疎通を密にしていくことが大事です。

 

もともと違う政党ですから、相手の立場になって考えることが大切

でしょう。意見の合わないことがあっても、一致点を見いだす努力

をすべきだと思います。私が安倍政権で官房長官を務めていた時も、

自公は密に連絡を取り合いながら課題を前に進めてきました。

 

例えば消費税率を10%に引き上げた際に導入した軽減税率は公明

党の意向を反映した形で実現したんですよね。慎重な意見もありま

したが、公明党の意見を取り入れた今の対象商品の線引きがよかっ

たと思います。

「一方で自民党の強い意向で成立」

一方で自民党の強い意向で成立させたのが平和安全法制です。公明
させたのが平和安全法制です、戻る1

党の理念からして、「戦争法案」などのレッテル貼りには敏感にな

るところはあったと思いますが、話し合いを密にしていたことで理

解してくれました。現在の東アジアの厳しい安全保障環境を考える

と大切な法律を成立させることができたと感じています。

 

自民党は参院では単独で過半数を確保していません。ですから国会

で法律をつくり、国民の期待に応えていくには、公明党との連携が

重要なのです。協力関係をつくり上げていくには時間がかかります

が、壊れるのはあっという間です。東京以外の地域に波及すること

のないよう、執行部の皆さんに話し合ってほしいと思います。

 

 

(ふるさと秋田に胸像)

先月末、ふるさとの秋田県湯沢市に私の胸像が建立されました。地

元の有志の方々が寄付を募り、制作してくれたものです。

 

私は18歳まで秋田で育ち、上京後、曲折を経て横浜の小此木彦三

郎衆院議員の下で秘書になったのが26歳でした。そこからアクセ

ルを踏みっぱなしです。選挙区は横浜の私を、秋田の皆さんが誇り

に思ってくれているのが非常にありがたいです。

「私のように田舎から出て来た人は」

私のように田舎から出て来た人は、両親が世話になっている郷里に
両親が世話になっている、戻る2

何らかの関わりを持ちたいと思っているのではないか。そうした思

いから創設したのが、ふるさと納税でした。

 

(解散見送り「結果よかった」)

2006年、安倍(晋三元首相)さんが当選4回の私を総務相に抜

てきしてくれたので、思い切って制度創設を打ち出しました。官僚

は大反対です。「税の根幹を揺るがす」「ふるさとを定義できない」

。できない理由をたくさん並べましたが、国民は指示してくれると

信じて絶対に引きませんでした。

 

ふるさと納税の寄付額は創設した08年度には約81億円でしたが

年々増え、昨年度は9600億~9700億円だったようです。使

い道は多岐にわたります。北海道白糠町では塾の先生による放課後

学習支援支援に充てられ、沖縄では焼失した首里城の復興に役立て

られています。地方へ視察に行くたび自治体の様々な工夫に驚かさ

れています。

 

(日韓発展の応援団に)

日韓議連の会長としてソウルを訪問した5月31日、よりによって

北朝鮮が「軍事偵察衛星」と称する弾道ミサイルを発射しました。

失敗に終わりましたが、大統領府で会談した尹錫悦大統領とは北朝

鮮への対応で日韓、日米韓が緊密に連携することを確認しました。

 

こうした戦略的な連携について一致できたのは、日韓関係が軌道に

乗り、改善していることを裏付けるものです。尹大統領には「議連

会長として日韓関係発展の応援団としてしっかり対応したい」と伝

え、3月の訪日の際に続き会談した尹大統領からは関係改善に向け

た強い意志を改めて感じました。

「帰国後、岸田首相や森喜朗元首相に」

帰国後、岸田首相や森喜朗元首相に尹大統領とのやりとりを報告し、
尹大統領とのやりとりを報告し、戻る3

「今の前向きな流れを加速させ、日韓関係のさらなる発展を後押し

したい」と伝えました。総理経験者として、議員外交では日本国民

の思いを率直に伝えていくことが大切な仕事だと思っています。総

理が語る、菅義偉氏、自公意思疎通を密に、解散見送り「結果よか

った」。日韓関係には確かに難しい問題が多くあるが今は大局的に

見て結束する時だと思います。それは周りの共産国が非常に危険な

存在になりつつありますから。中国、ロシア、北朝鮮などです。彼

らは核兵器まで持っています。広島や長崎のような悲劇を2度と繰

り返してはなりません。ミサイルでさえ多くの人が亡くなります。

核兵器は放射能が長く残ります。核兵器が使用されれば地球はな

くなる可能性があります。これは全人類の問題であります。

 

 

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1日に素潜り漁解禁、「娘にはやらせられん」、輪島の40代海女、アワビ減に危機感

「娘にはやらせられん」。7月1日のアワビ、サザエの素潜り漁解

娘にはやらせられん

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禁を前に、輪島市に住む40代の海女4人が資源が先細りして漁獲

7月1日のアワビ、

量が減少する深刻な状況を訴えた。漁場の舳倉島や七ツ島周辺での
サザエの素潜り漁

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アワビの水揚げ量は、ピーク時の約40年前と比べると1割以下に。

 

海と共に生き、国の重要無形民俗文化財の担い手でもある彼女らは

「あと10年、続けられるか分からんわ」と危機感を抱きながらも、

伝統を守る覚悟で今年も潜る。4人は同市海士町に所属する、輪島

の海女漁保存振興会長の門木奈津希さん(42)、副会長の橋本里

美さん(42)、理事の笹原麻紀さん(45)、濵谷美恵さん(4

2)。海女の女性に直接話を聞ける機会はめったにない。経歴を尋

ねると、門木さん、笹原さん、濵谷さんは中学卒業後にこの世界に

入った25年を超えるベテランで、海士町の男性に嫁いで海女にな

った橋本さんも十数年のキャリアだった。

「4人は本当にアワビがおらんなった」

4人は「本当にアワビがおらんなった」と口をそろえる。7月から
と口をそろえる。7月から、戻る1

約3カ月が漁期のアワビ、サザエ漁は、高級食材だけにやはり海女

にとって1番の収入源で「もうかるから、昔は海に入るのが楽しみ

だった」と振り返る。しかし、5、6年ほど前から海の異変を肌で

感じるようになったそうだ。

 

 

資源の枯渇は海水温の上昇などが影響しているとみられ、特に輪島

港から北へ約20キロの小島・岩礁群の七ツ島や、嫁礁周辺で深刻

な状況だという。

母や義母、祖母ら家族に海女がいて、海に出るのは「自然の流れだ

った」という4人。ただ、年々収入は落ち、生業としては厳しさが

増している。それぞれ子育て中の母親で、特に娘がいるという門木

さん、濵谷さんは「子どもにはやらせられん」と吐露する。

「駆除などに取り組んでいるものの」

(地元だけでは限界)

海士町では、アワビの稚貝の放流や、餌となる海藻を食べるウニの

駆除などに取り組んでいるものの、資源回復の兆しは見えていない。
資源回復の兆しは見えて、戻る2

国の文化財の伝承者でもある4人は、資源を残しながら、海女を続

けられることを切に願い「地元だけでどうにかしようと思っても限

界なんやと思う」と行政のさらなる支援が必要だと訴えた。

 

かつては楽しみだった漁解禁日。今は水揚げがあるか心配で、笹原

さんは「おとろしくなった」と話す。それでも、門木さんは「私ら

には海女しかないから」と海と共に生きる決意を示してくれた。

 

(伝統守る覚悟、今年も海へ)

(海水温上昇で藻場減・昨年水揚げ1・4トンに)

輪島市によると、輪島沖のアワビの水揚げ量は、1984(昭和5

9)年の39トンをピークに年々減少し、昨年は1・4トンにまで

落ち込んだ。石川県漁協輪島支所によると、海水温の上昇に伴って

藻場が減少し、アワビのエサがなくなっていることなどが要因に考

えられるという。

「近年は、海藻が生えず岩が真っ白に」

近年は、海藻が生えず岩が真っ白になる「磯焼け」現象も見られ、
なる磯焼け現象も見られ、戻る3

同じく海女がいる三重県志摩市でも漁獲量の減少が続いている。昨

年12月には国際自然保護連合(IUCN)は能登沖で捕れる3種

を含むアワビ20種を絶滅危惧種に指定した。

昨年、素潜り漁を行った海士町の海女は123人で、2008年

(205人)から大幅に減った。このうち、年齢別では40代は1

6人、30代8人、20代3人と後継者の確保も課題となっている。

1日に素潜り漁解禁、「娘にはやらせられん」、輪島の40代海女、

アワビ減に危機感。確かに海女さんの潜る時間はすごいと思います。

平均で5分位は潜るでしょうね。それも何十本も潜るのですから驚

きですね。その上獲物を見つけて取ってこなければなりません。も

う神技に近いと思います。何十本も経験をするとできるようになる

のでしょうか。それにしても大変な仕事だと思われます。

 

 

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鶴ヶ丘の恩返し、身近な情報25年発信、「ありがとう」が励みに、厚労相表彰受ける

「行政に任せっきりじゃなく、町民も自分のまちを良くしようと、

行政に任せっきりじゃなく、

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気づいたことを行動に移すのが大事やと思ってやってきた」

 

町民も自分の

鶴ヶ丘4丁目の片桐紀隆さん(83)=金沢市生まれ=がこう言
まちを良くしようと、

外部リンク

って、町内の地名と数字が書かれた1枚の紙を差し出した。

 

 

よく見ると、バスの時刻表のようだ。町全域を巡回するコミュニ

ティバス「なだバスナディ」を町民が利用しやすいよう今年春の

ダイヤ改正に合わせて作成し、データを全公民館に送ったという。

バスの時刻表なら各停留所に掲示され、町のホームページでも見

られるのに、なぜ独自に作ったのだろうか。

 

なだバスは、南北に細長い町全域を時計回りや8の字に循環する

ものなど四つのルートに分かれており、すべてが町役場や金沢医科

大病院、内灘駅など利用頻度の高い施設を巡る。

「片桐さんによると、よく練られて」

(高齢者も見やすく)

片桐さんによると、よく練られて利便性が高いが、高齢者の一部か
利便性が高いが、高齢者の、戻る1

ら乗り換え時の時刻表の見方が分かりづらく、文字も細かいとの声

を聞き、作成を思い立ったそうだ。ルートごとに各バス停の出発時

間が表示された既存の時刻表とは別に、得意なパソコンを使って出

発、目的地別に表記し直した早見表となっている。

 

 

「高齢社会でバスは不可欠。完全ではないだろうが、少しでも助け

になればと思っとる」と片桐さん。早見表を活用しているという鶴

ヶ丘4丁目の中田キミさん(80)に聞くと、「バスを乗り間違え

ることもなくなり、行き帰りが楽になった」と笑顔を見せた。

 

片桐さんは自身「のりたかのボランティア」と名乗って、早見表の

ほかにも、さまざまな地域活動に取り組んできた。「時間があった

ら暇つぶしのつもりだったが、気づいたら25年以上になった」そ

うだ。

「高校卒業後、金融機関を経て」

高校卒業後、金融機関を経て金沢医科大に勤務したが、体調を崩し
金沢医科大に勤務したが、戻る2

て56歳の時に早期退職。しばらく家で療養していたが、知人に紹

介され、経理の仕事で身につけたパソコンの知識を住民に教えたの

がボランティアの最初だ。公民館のパソコン教室のほか、小中学校

のパソコン授業のサポートを頼まれることもあった。

 

2005年から13年間、町内のデイサービスセンターなどで、利

用者に腹式呼吸を伝授するカラオケ健康教室を開いたことも印象深

い。最初は1回きりと軽い気持ちで引き受けたが、利用者の「楽し

かった。また来て」の声がうれしく、やめられなくなったという。

 

(厚労相表彰受ける)

1998年から毎月数回、地区住民向けに生活情報をまとめた手

作り情報紙の配布も続けている。北國新聞などで情報を得た特殊

詐欺の手口を載せて注意を呼び掛けたり、新型コロナウイルスな

ど病気の予防法を伝えたりしている。

 

そんな活動が評価され、2020年にはボランティア功労者厚生

労働大臣表彰を受けた。片桐さんは「『ありがとう』の声が何よ

りの励み。知力と体力の限り続けたい」と意気盛んだ。

「昭和40年代以降、町内外各地から」

昭和40年代以降、町内外各地から集まった住民が力を合わせて
集まった住民が力を合わせて、戻る3

発展させてきた鶴ヶ丘。取材先の人たちが口々に語るのは「地域

への恩返し」の気持ちだった。

まだ住んで日の浅い富山出身の身だが、微力ながら紙面を通じて

地区の力になりたいと、思いを強くした。鶴ヶ丘の恩返し、身近

な情報25年発信、「ありがとう」が励みに、厚労相表彰受ける。

片桐さんのように得意のパソコンを使って地道に25年も地域に

ボランティアで貢献できるのは、素晴らしいことです。なかなか

続けるのは大変だと思います。それで厚労相表彰まで受けたのだ

と思います。25年も頑張るのは並み大抵の努力ではありません。

忍耐強い人なんでしょうね。

 

 

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