21歳対決に熱視線、棋王戦赤羽ホールで24日開かれた棋王戦大盤解説会、全国からファン500人。

金沢市の北國新聞赤羽ホールで24日開かれた棋王戦大盤解説会に

金沢市の北國新聞赤羽ホールで

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は、注目の同世代対決を心待ちにしていたファン500人が全国か

24日開かれた

ら集結した。手に汗握る熱戦を見守るファンからは、熟考を重ねた
棋王戦大盤解説会に

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2人の手に感嘆の声が上がった。対局を終えた藤井聡太棋王(21)

 

と伊藤匠七段(21)が姿を見せると、ファンは温かな拍手で迎え、

両者の健闘をたたえた。

「大盤解説会場に現れた藤井棋王と」

大盤解説会場に現れた藤井棋王と伊藤七段はファンに感謝の気持ち
伊藤七段はファンに感謝の、戻る1

 

を伝えた。第3局を見据え、藤井棋王は「来週に向けてしっかり準

備したい」、伊藤七段は「次は切り替えて実践に臨む」と意気込み

を語った。

「埼玉県和光市の会社員上野尚美さん」

埼玉県和光市の会社員上野尚美さん(52)は、将棋のイベントに
(52)は、将棋のイベントに、戻る2

参加しながら旅行を楽しむ「旅将」仲間と一緒に観戦した。藤井棋

王のファンという上野さんは「昨年は仕事で行けなかったので、今

年こそは来たかった。読みの力のぶつかり合いにわくわくが止まら

なかった」と笑みを浮かべた。

 

金沢市大桑町から訪れた将棋愛好家の会社員中村晴樹さん(45)

は、伊藤七段に以前から注目していたと語り中盤以降、難解な展開

が続く中で踏み込む一手を指しており、見応えがあった」と話した。

 

津幡町中条小6年の西島沙奈さん(12)は初めて大盤解説を体験

し、「大きい画面で観れて楽しかった。藤井八冠も伊藤七段も格好

良かった」と目を輝かせた。

「船江恒平六段が局面を解説し」

船江恒平六段が局面を解説し、藤井棋王の姉弟子として知られる室
藤井棋王の姉弟子として知られる、戻る3

田伊緒女流二段(砺波市生まれ)が聞き手を務め、軽快なトークで

会場を盛り上げた。立会人の久保利明九段もゲストで登場した。

 

 

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(能登の食材、活力に)

正午の昼食休憩は、能登の食材を使った「勝負めし」が登場し、

藤井棋王と伊藤七段の活力の源となった。

 

提供されたのは「加賀懐石弁当」。能登牛の角切りステーキを

はじめ、ナマコや里芋、春菊、カブなど能登の山海の幸をふん

だんに取り入れたメニューで、金沢ニューグランドホテルが調

理を担当した。

 

午前10時と午後3時にはおやつが運ばれた。午前10時は藤

井棋王がイチゴモンブラン、伊藤七段がレアチーズケーキを注

文し、午後3時は両者ともレーズンサンドを頼んだ。

 

 

 

 

 

 

大谷グラブでメジャー気分、珠洲でキャッチボール大会、「みんなと一緒楽しい」。

珠洲市で24日、米大リーグ・ドジャースの大谷翔平選手から贈ら

珠洲市で24日、

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れたグラブを使ったキャッチボール大会が開かれた。能登半島地震

米大リーグ・ドジャースの

で市内の小学校の多くは体育館が避難所、グラウンドは避難住民の
大谷翔平選手から

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駐車場として使われている。思うように体を動かす機会が少なくな

 

った中、目を輝かせて白球を追う子どもたちはメジャー気分に。被

災地に響く歓声と笑顔に、こちらも勇気づけられた。

「珠洲市教委によると、各小学校の」

珠洲市教委によると、各小学校の体育の授業は、教室で体操や縄跳
体育の授業は、教室で体操や、戻る1

びをしたり、体育館の空きスペースでマット運動をしたりするなど、

地震前と比べて制限があり、十分な運動の機械を確保することは難

しいという。

 

そんな中、20日に大谷選手のグラブが市内の各小学校に届いた。

各校でお披露目はされたものの、実際に使う機会はなく、市教委

が子どもたちに運動の機会を提供しようと、珠洲学童野球クラブ

初練習に合わせて大会を企画し、参加を呼び掛けた。

「市営野球場で開かれた大会には」

市営野球場で開かれた大会には、学童野球クラブの13人と、一
学童野球クラブの13人と、戻る2

般参加の児童9人が参加。ランニングやダッシュで体を温めた後、

大谷選手のグラブでキャッチボールしたり、捕球する練習に取り

組んだりした。最初はぎこちない様子だった子どもたちは体を動

かすうちに表情が和らぎ、どんどん笑顔になっていくのが見て取

れた。この機会が設けられたのも大谷選手からグラブが届いたか

らこそ。遠く離れたロサンゼルスからスーパースターのパワーが

届いている気がした。

 

飯田小3年の新屋葉奈さん(9)が「外で遊ぶことも少なくなっ

た。体を動かすと気持ちいい」と話せば、この日、白山市の避難

先から珠洲に戻ってきた同小4年の瀬戸谷結芽さん(9)は「み

んなと一緒に遊ぶのはやっぱり楽しい」と満面の笑みを見せた。

「通常であれば、小学校の」

(駆けっこできる日を)

通常であれば、小学校のグラウンドは休み時間や体育の授業になる
グラウンドは、戻る3

と、子どもたちの元気な声が響き渡る。珠洲の子どもたちにもそん

な日常があったはずだ。「何も気にすることなく、みんなとグラウ

ンドで駆けっこできる日が来るといいな」。飯田小4年の濵心花さ

ん(10)の一言がかなう日を心から願っている。大谷グラブでメ

ジャー気分、珠洲でキャッチボール大会、「みんなと一緒楽しい」

小学校の頃は元気に体を動かしてみんなと一緒に遊ぶのが一番面白

くて楽しいはずです。

 

 

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輪島・町野・1946年創業、スーパー休まず営業中、「困っている」と聞いたら。

能登半島地震で大きな被害が出た輪島市町野町で、地震発生後から

能登半島地震で大きな

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1日も休まず営業を続けるスーパーがある。多くの家屋が倒壊する

被害が出た輪島市町野町で

などした地域は他にスーパーがなく、市中心部まで買い物に行けな
地震発生後から

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い住民にとっては生命線のような存在だ。店の2代目の本谷一郎さ

 

ん(75)は「地域にささえられ、ここまでやってこられた。今度

は自分たちが恩返しする番だ」と意気込む。

「おー、生きとったか」

「おー、生きとったか」「これ持っていって。遠慮せんと」。店先
「これ持っていって。遠慮せんと」、戻る1

に設けたスペースで、石油ストーブで温めた缶コーヒーを配り、住

民と談笑するのが本谷さんの日課だ。顔なじみの客が立ち寄ると、

一服しながら地震時の状況やどんな気持ちだったかを語り合う。

 

避難所生活が続く住民にとって、地域唯一のスーパーは憩いの場

でもある。本谷さんは「避難所ではゆっくりできない。ここでた

わいもない話をして、少しでも息抜きになれば」とほほ笑む。

「もとやさん」と呼ばれてきた。

1946年創業の「もとや庄治商店」は、住民から親しみを込め

て「もとやさん」と呼ばれてきた。地震から2月上旬までは停電
地震から2月上旬までは、戻る2

していたため、客には薄暗い店内を懐中電灯で照らしながら買い

物をしてもらった。今は生鮮食品はないが、さまざまな種類のお

菓子や酒、調味料などのほか、ストーブといった家電も取り扱う。

 

過疎化が進み、地域にいくつもあった商店は次々とシャッターを

下ろした。地震が起きた元日は休業日だったが、客が電池や水を

求めて訪れ、急きょ店を開けた。「『困っている』と聞いたら休

めないでしょ」

 

店に隣接する自宅は損壊ですめなくなり、防犯も兼ねて店の一角

で寝泊まりを続ける。避難所に行かない理由は、客が来た時にす

ぐ気付いて対応し、気軽におしゃべりできるようにするためだ。

「2次避難などで離れた住民が」

2次避難などで離れた住民がどれだけ戻るかは見通せない。一方
どれだけ戻るかは見通せない、戻る3

で慣れ親しんだこの地にのこりたいという声も多く聞く。「お客

さんは家族みたいなもの。復旧が進んだら、喜んでもらえるよう

な商品の販売をいち早く再開したい」と本谷さん。この店先から、

地域のこれからを見つめていきたいと思っている。

 

 

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(名物串揚げ「かかし」販売再開・輪島の精肉店)

輪島市の朝市通りに近い精肉店「藤田総本店」は22日までに営

業を再開した。名物の串揚げ「かかし」や唐揚げなどを販売し、

常連客が列をつくった。

 

店舗は無事で、井戸水が水質検査で使えることが分かった。藤田

眞也店長(32)は「みんなが大変な中にあるので、少しでも喜

んでもらおう」と営業再開に踏み切った。

 

22日はウズラの卵とウインナーなどの「かかし」のほか、カボ

チャコロッケ、エビダンゴなど5種を販売した。輪島出身の会社

員矢部愛さん(30)=愛知県岡崎市=は実家の罹災証明書申請

などで輪島に戻ったついでに立ち寄った。「昔からよく利用して

いた。数年ぶりに食べるので楽しみ」と笑顔を見せた。

 

当面は営業期間を限定し、今週は23日までで午前11時~午後

1時。来週も数日間営業する。水道が復旧すれば自家製コロッケ

も再開する。こういう串揚げ専門店などは人気があってうまい。

みんなが地震で大変な時に頑張って応援するのでしょうね。感謝

です。

 

 

 

 

 

 

津幡に創業支援拠点、町商工会開設へ隣接地取得、活用検討会を設置。

津幡町商工会は14日までに、創業支援施設の開設に向け、同町清

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水の商工会館に隣接する河北郡市土建協同組合の土地と建物を取得

 

した。コワーキングスペースや貸しオフィス、研修室などとしての

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活用を想定し、今年度は検討会を設置して利用方法を協議する。商

 

工会は操業の拠点と位置付けて地域経済の活性化につなげる。

 

津幡町商工会が取得した河北郡市土建協同組合の土地は約700平

方メートル。建物の延べ床面積は約460平方メートルで、取得額

は約1600万円となる。同組合の事務所は商工会館に移った。

 

操業支援施設の開館時期は未定。今年度に設置する検討会は創業の

ノウハウを持つ有識者や商工会青年部の会員、町の担当者らで構成

し、建物をそのまま使うか、建て替えるかを含めて施設の具体的な

内容について話し合う。15日に町文化会館シグナスで開かれる総

会で報告する。

 

津幡町商工会の会員は686事業者で、近年は操業に関する相談が

年間10件以上寄せられているという。企業予定者や創業間もない

事業者が利用しやすい環境を整え、地場産業を盛り上げる。

 

商工会は若い世代の意見を取り入れ、行政の支援を受けながら整備

する計画で、操業支援施設の先行事例も参考に検討を進める。津幡

に操業支援拠点、町商工会開設へ隣接地取得、活用検討会を設置。

津幡町は旧の町の数倍の大きさまで伸びてきた。人口もかなり増え

たようだ。デパートはあるし、家電の量販店も大きな店がある。素

晴らしく伸びてきたものである。本当に感心します。

 

 

 

 

 

 

 

 

市民病院近隣公園へ、移転検討、基本計画に着手、まちなかで文化体験。

市は老朽化が進む市立病院(平和町3丁目)を、近隣にある平和町

市は老朽化が進む

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公園に移転させる方向で調整に入った。公園は国有地のため、管轄

市立病院(平和町3丁目)を、

する北陸財務局と取得に向けた協議を進め、新年度に基本計画の策
近隣にある平和町

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定に着手する。当初予算案に事業費2830万円を計上した。

 

 

候補地である平和町公園は、現病院から県道・寺町通りを挟んで斜

め向かいにある。敷地面積は9240平方メートルで、現在の市立

病院の1万1500平方メートルよりやや狭い。

「活用などをまとめる。計画の策定を」

基本計画では、新病院の機能や病床数、整備スケジュール、跡地の

活用などをまとめる。計画の策定を終え次第、基本設計、実施設計
終え次第、基本設計、実施設計、戻る1

に移る。

 

市立病院は1989(平成元)年に開業した。6階建ての本館のほ

か、別館と東館があり、21の診療科と306病床を備える。

「議論を重ねた。高さ制限のある現在地」

病院の再整備を巡っては、有識者による検討会が2018、19年

度に議論を重ねた。高さ制限のある現在地では病院機能を維持した
では病院機能を維持した、戻る2

上での建て替えが困難とし「候補地の選定後、約10年以内の完成

を目指すのが適当」などと移転を検討するよう提言していた。

 

村山卓市長はアクセス面や防災面などを総合的に勘案して候補地を

選定したとし「機能面については今の病院と同程度になると思う」

と述べた。市立病院は特定伝染病の赤痢やコレラのほか、結核など

も隔離する専門病院でもある。

 

 

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(まちなかで文化体験・ホールなど利用、仕組み作り)

市は新年度、市中心部にあるホールや公共空間を利用して、市民や

来訪者が年間を通じて文化芸術を体験できる仕組み作りに着手する。

新年度当初予算案に検討調査費300万円を計上した。

「金沢のまちなかには」

金沢のまちなかには北國新聞赤羽ホール、県立音楽堂、市文化ホー
北國新聞赤羽ホール、県立音楽堂、戻る3

ル、金沢歌劇座など複数の施設に加え、片町きららや香林坊アトリ

オ前広場などの公共スペースもある。市はこうした空間を活用した

い考えで、担当者は「まちなかに行けば、いつでも文化や芸能に触

れることができる仕掛けができないか検討したい」と話した。

 

 

 

 

 

 

 

 

早紀江さんから友枝さんへ悼む手紙、「たくさんのご苦労」「お世話になり感謝」。

61年前に日本海で行方不明となり、北朝鮮で暮らす寺越武志さん

61年前に日本海で

 

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(74)=志賀町出身=の母友枝さんが92歳で亡くなり、北朝鮮

行方不明となり、

に拉致された横田めぐみさん=失踪当時(13)=の母早紀江さん
北朝鮮で暮らす寺越武志さん
66回目の訪朝を機に友枝さんと
 

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(88)が金沢市の友枝さん宅に手紙を寄せた。友枝さんの長女

 

(71)が北國新聞社に明らかにした。「たくさんのご苦労をしの

び、心からお悔やみを申し上げます」。拉致問題を巡って立場は異

なるが、早紀江さんは北朝鮮に翻弄された同じ母として友枝さんを

悼んだ。

 

川崎市に住む早紀江さんの手紙は1日、香典とともに友枝さんと家

族宛てに届いた。便箋2枚に直筆で、「武志様のために全身全霊を

こめてのご活躍と熱意に、いつも応援をし、祈って参りました」

「大変お世話になりましたことを感謝しております」と書かれてい

た。

 

(みんな苦しんでる)

手紙には拉致被害者家族の思いを示すような文面があり、「たくさ

んの被害者はいまだ確認できず、本当にこんな事が起きていること

が信じられない思いで、みんな苦しんでおります」と記された。

「友枝さんと早紀江さんは、

友枝さんと早紀江さんは、ともに13歳のわが子と離れ離れになっ
ともに13歳のわが子と離れ離れに、戻る1

た。友枝さんは拉致被害者家族と行動をともにした時期もあったが

「北朝鮮の船に助けられた」と話す武志さんを尊重し、拉致の言葉

を封印した。一方の早紀江さんは、めぐみさんら拉致被害者の帰国

を最前線で訴え続けている。

 

(心で分かり合う)

友枝さんの長女によると、2人は表立って交流することはなかった

が、折に触れ、手紙や電話で思いを伝え合ってきた。

長女は「2人は心で分かり合っていたと思う。丁寧な手紙をいただ

き、母を思ってくれてありがたい」と話した。

 

早紀江さんは2019年2月、月刊北國アクタスで友枝さんの特集

を読み、「何という長い苦労の年月でありましょうか」と感想をつ

づった手紙を友枝さんに寄せた。昨年4月には友枝さんの入院を知

って筆をとり、「お大事にしてくださいね」と気遣っていた。早紀

江さんから友枝さんへ悼む手紙、「たくさんのご苦労」「お世話に

なり感謝」。(寺越さん母子の61年・友枝さんの歩み)

 

 

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「お母さん、拉致と言えば家族の」

「お母さん、拉致と言えば家族の縁が切れて会えなくなりますよ」
縁が切れて会えなくなりますよ、戻る2

寺越武志さん(74)は一時帰国した2002年10月、母の友枝

さんにこう話したという。

 

友枝さんは再会当時から、武志さんに北朝鮮に来た経緯を何度も聞

いた。武志さんは決まって「北朝鮮の船に助けられた」と言い、詳

しく聞こうとすると「眠っていて分からない」とはぐらかされた。

 

武志はそもそも、北朝鮮に来た経緯を話したがらんかった。武志が

拉致じゃないという以上、私が拉致問題に関わることはできん。聞

くことはやめた」

 

拉致を封印し、武志さんの身の安全と立場、生活を第一に優先した

友枝さん。この決断がなければ、66回もの訪朝を重ね、親子の時

間を過ごすことはできなかったかもしれない。

「武志さんは当時、平壌市職業総同盟」

(仕送り、命がけ)

武志さんは当時、平壌市職業総同盟副委員長という異例の出世を果
副委員長という異例の出世を、戻る3

たし、田舎の亀城から、朝鮮労働党の幹部も入居する平壌の26階

建てマンションの13階に引っ越していた。7LDKの広い間取りで

室内は冷暖房がよく効いたという。

 

友枝さんによると、肉や魚など食事の配給が豊富な時期があり、北

朝鮮で武志さんと暮らした夫・太左ヱ門さん=享年(86)=の糖

尿病治療も手厚かった。だが、やがて生活は苦しくなり、友枝さん

の仕送りなしでは成り立たなかった。

 

友枝さんは金沢で清掃の仕事に励み、訪朝のたびに衣類や家電製品

日用品を持って行き、お金もできる限り渡した。武志さんとの時間

はかけがえのないものだったが、「仕送りは命がけ」と漏らすほど

の負担も抱えていた。

 

(つなぐ糸は細く)

2018年4月、当時87歳の友枝さんは66回目の訪朝に際し、

「これで最後」と心に決めて海を渡った。「年やし、金沢で一緒に

暮らす長女の家族にも心配をかけたくない。もう、武志を助けるお

金もない」しかし、「面倒を見るから一緒に住みましょう」「元気

でまた会いましょうね」と話す武志さんに、最後とは言い出せなか

った。

 

「これで最後、諦めようと思うと、幼い武志のかわいさや再会の時

の喜びが頭に浮かんで、決心が揺らいでしまう。でもどうにもなら

ん、もう最後なんやと何度も自分に言い聞かせた」

「66回目の訪朝を機に、友枝さんと」

66回目の訪朝を機に、友枝さんと武志さんをつなぐ糸は細くなっ
武志さんをつなぐ糸は細く、戻る4

ていく。この北朝鮮による拉致問題は当時は大きな社会問題になっ

た。途中、小泉氏が首相の時に数人を北朝鮮から連れて帰ってきた。

これも大きなニュースになった。小泉氏は素晴らしい仕事をしたと

思います。しかし、それ以来いまだに全容は解決していません。