鉄道ファン歴44年の記者語る、各列車伝説の彼方へ、黄金時代の足跡に感慨。

(白鳥・昼行として最長誇る)

北陸線の特急の歴史は昭和36年10月に登場した「白鳥」に始ま

北陸線の特急の歴史は

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る。大阪と青森を結び、運行距離は千キロ超。日中走る「昼行特

昭和36年10月に

急」としては最長を誇り、乗り通すと15時間以上かかった。
登場した白鳥に

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当初、大阪から青森に行く「日本海白鳥」と、直江津で切り離して

 

上野に向かう「信越白鳥」が連結して走り、いずれにも食堂車があ

った。

 

(雷鳥・日本の代表格に成長)

昭和39年12月に運転を始めた「雷鳥」は、スピードアップして

「スーパー雷鳥」、新型車両となって「サンダーバード」と進化し

ながら、定期列車だけで一日25往復の「日本を代表する特急」に

成長した。今は大阪と金沢・和倉温泉を結ぶ。新幹線金沢開業前は

富山や魚津まで走り、スーパー雷鳥時代は神戸発着の便もあった。

「昭和60年代には」

昭和60年代には畳敷きの「和風車だんらん」、七尾線直通の観光
畳敷きの和風車だんらん、戻る1

特急「ゆうトピア和倉」を連結して走ることもあった。ほかにも平

成2年に大阪で開催された「花と緑の博覧会」見物向けの「エキス

ポ雷鳥」、単身赴任者向けの「ホームズ雷鳥」「ビジネスサンダー

バード」、富山地方鉄道に乗り入れた「スーパー雷鳥宇奈月」など

多彩で、「特急の王者」として君臨した。

 

雷鳥と同じ昭和39年に名古屋ー富山間に登場した「しらさぎ」は

運転区間がほぼ変わらず、全国でも「最古参の特急」だ。金沢ー新

潟間を結んだ「北越」も昭和44年の登場当初は大阪ー新潟間の列

車で、北陸線を彩った。

 

(加越・東海道新幹線と連絡)

昭和50年には米原発着の「加越」が運転を始めた。「雷鳥」が米

原経由から湖西線経由に変更されたため、東海道新幹線との連絡が

手薄にならないよう設定された。昭和63年には「加越」の速達版

「きらめき」が誕生。同年、現在の北陸新幹線と同名の在来線特急

「かがやき」も登場し、金沢と長岡を結んで上越新幹線に接続した。

「ブルートレイン(寝台特急)」

(寝台列車・夜空に放つ輝き)

ブルートレイン(寝台特急)も北陸線に輝いた。昭和43年登場の
も北陸線に輝いた、戻る2

大阪ー青森間「日本海」、昭和47年登場の大阪ー新潟間「つる

ぎ」は、高速道路や航空路が十分ではなかった時代、日本海側の貴

重な足として親しまれた。昭和63年に青函トンネルが開通すると

「日本海」は函館まで直通した。

 

大阪から北陸線を走り、札幌まで足を伸ばす豪華寝台列車として平

成元年、満を持して登場したのが「トワイライトエクスプレス」

だ。車窓を独占できる個室、一流レストラン並みの食堂車など「究

極の汽車旅」を楽しめる鉄道ファンのあこがれだった。

「16日からサンダーバードは」

16日からサンダーバードは敦賀ー大阪間、しらさぎは敦賀ー名古
敦賀ー大阪間、戻る3

屋・米原間となり、愛称は残るものの、運行距離は大幅に短縮され

「新幹線リレー列車」へと性格を変える。「鉄道黄金時代」を今に

伝える北陸の名特急たちは、まもなく伝説の彼方へと走り去る。鉄

道ファン歴44年の記者語る、各列車伝説の彼方へ、黄金時代の足

跡に感慨。北陸新幹線が敦賀まで延伸してから、北陸線の特急はす

べて敦賀での乗り換えになった。古い特急は消え去ると思います。

新型の特急はどんな車両になるのだろうか。非常に興味がありま

す。

 

 

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15日石川県内ラストラン、さよなら「特急銀座」北陸線、それぞれに思い出。

北陸新幹線の敦賀延伸まで一週間を切った。延伸と同時に特急「サ

北陸新幹線の敦賀延伸まで

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ンダーバード」と「しらさぎ」は敦賀止まりとなり、北陸線を走っ

特急が石川県内から消える

た特急が石川県内から消える。北陸線は国鉄時代から「特急銀座」
北陸線は国鉄時代から特急銀座

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と呼ばれるほど、特急列車の運行本数・種類ともに豊富で、旅行や

 

ビジネス、帰省など多彩な場面で活躍した。人それぞれに思い出が

あり、15日のラストランを前に「寂しい」と声が上がる。

 

小松駅のほど近く、土居原町の公園に、かつて北陸と東京・大阪を

結ぶ特急に使われた車両が展示されている。赤とクリーム色の「国

鉄色」に塗られ、スタイルは、昔懐かしい「ボンネット型」だ。管

理するのは、その名も「ボンネット型特急電車保存会」の岩谷淳平

事務局長(48)=小松市下牧町=である。

 

岩谷さんにとって原風景の一つは、小学校に入って間もないころ、

JR粟津駅近くの線路際にある母方祖父の家で見た「雷鳥」「しらさ

ぎ」「白鳥」など北陸線の特急だ。

「まだ漢字が分からず、祖父や

(駅員に感心され)

まだ漢字が分からず、祖父や兄に聞いて「雷鳥は大阪行き、しらさ
兄に聞いて雷鳥は大阪行き、戻る1

ぎは名古屋、白鳥は青森・」と教えてもらった。その知識を駅員に

披露すると「よく知ってるね」と感心され「すごく鉄道好きな子が

いる」とかわいがられた。

岩谷さんは、懐かしの特急が石川県内から消えることに「自分たち

の時代じゃなくなったのかな・」とポツリ。だが往年の特急に郷愁

を覚える人は多く、「想い出を追体験できる施設」としてボンネッ

ト型特急を大事に管理していくつもりだ。

 

北陸線の特急は「家族の絆」を結ぶ列車でもある。内灘町大根布4

丁目の潟渕幸子さん(75)は、昨年亡くなった夫が名古屋に単身

赴任していたころ「しらさぎ」に乗って月1回会いに行った。最も

想い出深い列車だ。「金沢駅から乗り込む時はいつもワクワクして

いた。寂しくなります」と惜しむ。

 

津幡町清水の宮一正樹さん(80)は60年前、金沢ー富山間で雷

鳥の試乗会に参加した。呉羽山のトンネルを抜けた瞬間に見えた北

アルプスが目に焼きつき「あの大パノラマは忘れられない」と振り

返る。

「北國銀行出身で、現在は新家工業」

(大阪延伸、絶対見たい)

北國銀行出身で、現在は新家工業常務の浜田哲洋さん(64)=七
常務の浜田哲洋さん(64)、戻る2

尾市出身、大阪市在住=は慶大時代に「国鉄全線2万キロ」を完全

乗車した。能登に親がいるので、今もサンダーバードを年20回以

上利用する。

 

「仕方ない話だが、今の駅はどこもほとんど同じで・」。かつては

金沢駅に行くと個性豊かな特急たちに出合えたが、その風景もなく

なる。キオスクはコンビニに変わった。「便利になった証しでもあ

るが、昔の名残がなくなるのは惜しいです」

子ども時代に出てきた北陸新幹線の

子ども時代に出てきた北陸新幹線の構想が実現し、敦賀まで延伸す
構想が実現し、敦賀まで延伸、戻る3

る。「うれしいことはうれしい。ただ、この年齢になると、北陸新

幹線が大阪まで延びるのを見られるかな・と考えたりもする。でも

絶対に見たい」。時代によって姿は変われど、鉄道は昔も今も、こ

れからも、人々の夢をかき立てる。15日石川県内ラストラン、さ

よなら「特急銀座」北陸線、それぞれに思い出。確かに昔は雷鳥、

しらさぎ、白鳥などの北陸線の特急がたくさんあった。それがいま

消えようとしている。寂しい話である。

 

 

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交わって千坂、路上で1200人が交流、海側環状の開通契機に。

古くから金沢の「北の玄関口」と呼ばれた千坂地区。時代とともに

古くから金沢の「北の玄関口」

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道路が、鉄路が縦横に延びては交差し、変化し続ける地域環境にあ

と呼ばれた千坂地区

って、今も昔も住民が大切にする「交わり」の一端をのぞき見た。
時代とともに

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(交通網と共に発展)

約5200世帯、1万1600人が暮らす千坂校下エリアは、市内

「振り返れば、交通網の発達とともに」

の校下でも有数の大所帯だ。

振り返れば、交通網の発達とともに変貌してきた地域である。現在
変貌してきた地域である、戻る1

の国道359号はかつての北國街道で、加賀藩主も往来した道沿い

に村々が栄えた。稲田と蓮田が広がる田園地帯は、昭和40年代後

半に国道8号金沢バイパスや北陸自動車道が通ると宅地開発が進み、

沿道に商業施設も集積していった。

「そんな千坂地区に新たな交わりが」

そんな千坂地区に新たな「交わり」ができたのが2022年11月
できたのが2022年11月、戻る2

のこと。金沢外環状道路海側幹線(海側環状)大河端町ー福久町間

の開通である。国道8号を介して外環の海側と山側がグルリとつな

がり、さらにアクセスが向上した福久周辺では地価が1割ほど上昇

した所もあり、近隣団地への転入も加速しているらしい。

「金沢バイパスの開通以来」

「道路で遊ぼう」

「金沢バイパスの開通以来、地元では半世紀ぶりの大公共事業です
地元では半世紀ぶりの大公共事業、戻る3

からね。これは住民が交流を深めるチャンスだぞ、と」

 

そう語る千坂校下町会連合会の浦良一会長(75)=福久町=は、

海側環状の開通を控えた22年9月、福久町の交差点付近を歩行者

天国にした異例のイベントを仕掛けた。「道路の真ん中でめいっぱ

い遊ぼう」と各種団体に呼び掛けたところ、賛同の輪が広がり、新

旧住民1200人以上が集まる予想外の大にぎわいとなったのだ。

 

地元の獅子舞や消防団のはしご登りが勇壮に披露され、特産の加賀

レンコンは1時間足らずで250本が完売。路上には子供らが地域

のシンボルであるハスをでかでかと描いた。

 

「道路が及ぼす影響は、渋滞緩和などの単純なものだけじゃない。

今後の町づくりをみんなで考えるきっかけとして大きなインパクト

を与えてくれる」と浦会長。現役時代は県庁マンとして土木畑を歩

み、さまざまな大型公共事業の陣頭指揮を執っただけに説得力のあ

る言葉だ。海側環状が接続したこのエリア、20年ほど前に地元が

開発計画をぶち上げ、市にも陳情したが、立ち消えになった経緯が

あるという。開発行為が規制される市街化調整区域の縛りはあるが

浦会長は「地域の活性化につながる施設をあらためて誘致できない

か」と青写真を描き始めている。新時代の千坂地区が「北の玄関

口」にふさわしい発展を遂げられるか、住民の結束が浮沈の鍵を握

っている。交わって千坂、路上で1200人が交流、海側環状の開

通契機に。開通前に歩行者天国を考えたというのはすごいと思う。

獅子舞やはしご登りもやったのもすごいことです。

 

 

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石川北、アマメハギ「初めて」中止、能登町4集落「やむを得ず」。

能登町秋吉など4集落で2月3日に行われる国連教育科学文化機関

能都町秋吉など4集落で

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(ユネスコ)無形文化遺産の伝統行事「アマメハギ」が今年は中止

2月3日に行われる

されることが24日、集落代表者らへの取材で分かった。地震で避

国連教育科学文化機関

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難生活を送る住民もいるため決断したという。コロナ下でも簡略化

 

しながら続けてきた行事だが、地元住民は「やむを得ない」と残念

そうに話した。

「アマメハギは家内安全と豊作を願う」

アマメハギは家内安全と豊作を願う子どもたちの厄よけ行事。鬼役
子どもたちの厄よけ行事、戻る1

の小中学生が「アマメー」と叫びながら家々を回り、火鉢に長く当

たるとできる火だこ「アマメ」をはぐと脅かし、住民の怠け心を戒

める。能登町では秋吉、河ケ谷、清真、宮犬の4区で毎年、節分の

夕方から夜にかけて行われ、2018年に無形文化遺産に登録され

た。

「秋吉公民館長で、秋吉地区アマメハギ」

秋吉公民館長で、秋吉地区アマメハギ保存会長の橋本忍さん(7
保存会長の橋本忍さん、戻る2

3)によると、13日に開催を協議する予定だったが、地震の影響

で中止となり、各区の判断となった。清真区の坂上久男区長(6

9)は家屋も道路も崩れており、子どもの安全を考えると到底でき

る状況じゃない」と語った。

「行事の歴史を伝える同町秋吉の」

行事の歴史を伝える同町秋吉の「能登の来訪神行事アマメハギ伝承

能登の来訪神行事アマメハギ、戻る3

館」も屋内にガラスが散乱し、鬼の面や建具も被害を受けた。河ケ

谷区に住む橋本会長は「アマメハギが中止になるのは私が知る限り

初めて。子どもたちには伝統を続けられなくて申し訳ない」と話し

た。石川北、アマメハギ「初めて」中止、能登町4集落「やむを得

ず」。アマメハギが初めて中止になるのは、地震の影響である。家

屋も道路も崩れたら安全を考えれば中止も仕方ないと思います。

 

 

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外国語専門学校、「怖かったろう」悲しみ新た、NZ地震13年、富山で追悼。

富山、石川などの日本人留学生28人を含む185人が死亡した2

富山、石川などの日本人

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011年のニュージーランド地震から13年を迎えた22日、学生

留学生28人を含む

12人が犠牲となった富山市の富山外国語専門学校で追悼の集いが
185人が死亡した

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営まれ、遺族ら95人が犠牲者に祈りをささげた。能登半島地震を

 

経験した遺族は、ビル倒壊に巻き込まれたわが子に思いを寄せ、

「怖かったろう」と悲しみを新たにした。

 

遺族や在校生、元同級生らが参列し、地震発生時刻の午前8時51

分(日本時間)に合わせて黙とうした。南島啓校長が追悼の辞を延

べ、藤井裕久富山市長の追悼のメッセージが読み上げられた。在校

生代表の鉾井陽天さん(1年)は「先輩方の思いを忘れず日々の勉

学に励んでいきます」とあいさつした。

「献花に続き、山谷美奈さん」

献花に続き、山谷美奈さん=当時(19)=の父信昭さん(66)
=当時(19)=の、戻る1

=高岡市=が遺族代表のあいさつで「能登半島地震で、娘を亡くし

た苦しみや困難を思い起こし、身にしみる思いだった」と振り返っ

た。

 

式典後、遺族3人が富山市民プラザで報道陣の取材に応じた。横田

沙希さん=同(19)=の父政司さん(68)=富山市=は能登半

島地震発生時、マンションが横揺れしているのを目にしたとし「私

でさえ怖かったのに、娘はパニックの中で、一瞬にしてビルがつぶ

れたと想像すると何も考えられなくなった」と話した。

 

菊田紗央莉さん=同(19)=を失った父邦俊さん(73)=金沢

市=は能登半島地震について「大切な家族を目の前で失った人がた

くさんいる。私たちのように遠く離れた場所で被災したのとは別の

つらさがあると思う」と思いやった。金丸佳世さん同(19)=の

父直弘さん(65)=高岡市=は「13年たっても、悲しみは何も

変わらない」と静かに語った。

「の北川泰大さん=当時(39)」

この地震で石川県関係者では、菊田さんのほか、元北國新聞社記者

の北川泰大さん=当時(39)、白山市出身=、語学留学中だった
「白山市出身=、語学留学中だった」、戻る2

看護師百万元輝さん=同(27)、津幡町出身=が犠牲となった。

 

「つらいけど来なければ」(現地追悼式で遺族)

ニュージーランド地震被災地の南島クライストチャーチで追悼式が

開かれた。研修中に亡くなった堀田めぐみさん=当時(19)=の

両親ら日本の遺族関係者数人も出席。めぐみさんの父和夫さん(6

9)は「やはりつらい。でも来なければならない。親だからね」と

語った。

 

クライストチャーチで生まれ育ったニューグランドのラクソン首相

も出席し、日本人遺族ら一人一人に会い、寄り添う気持ちを伝えた。

和夫さんと妻聖子さん(64)は富山市の自宅で先月、能登半島地

震に遭遇した。「揺れで何もできなかった。なすがままだった。娘

もさぞ怖かったろうな」

「追悼式は国立追悼施設などで行われ」

追悼式は国立追悼施設などで行われ、約400人が参加。黙とうが
約400人が参加。黙とうが、戻る3

行われ、亡くなった人全員の名前が鐘を鳴らして読み上げられた。

外国語専門学校、「怖かったろう」悲しみ新た、NZ地震13年、

富山で追悼。ニューグランド地震から、はや13年、多くの人がビ

ル倒壊によって犠牲となった。

 

 

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商売続ける希望を、のと共栄信用金庫・鈴木正俊理事長、損失出しても支える。

理事長室の机や床には、災害復旧関連の資料が所狭しと山積みにな

理事長室の机や床には

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っていた。「元日の地震から片付けてる暇がなくて」との言葉通り、

災害復旧関連の資料が

揺れではずれたとみられる間仕切りのパネルもそのままだ。
所狭しと山積みに

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奥能登で被災した輪島、穴水両支店は震災からほぼ1週間後の9日

 

に再開した。職員が本店から現金を持って応援に行く形としたが、

出金はわずかで、盗難防止のためにタンス預金を持ってくる人たち

が多かったようだ。

 

(美談ではない)

職員の安全を考えれば支店を開けるのは時期尚早だったというのが

本音という。「それでも、ニーズがあれば開けて良かったと思うが、

決して美談にしてはいけない。職員も被災者であって、本来は仕事

どころでなかった」と話し、職員への感謝を口にした。

「地震から2カ月近くたち、取引先から」

地震から2カ月近くたち、取引先から切実な相談が増えてきた。コ
切実な相談が増えてきた、戻る1

ロナ下で受けたゼロゼロ融資の返済が始まった上に、自宅も事業所

も崩れ、借金を返す手段がなくなった先も少なくない。

 

「今は補助金でも何でも使えるものは使って、商売を続けられると

いう希望を持ってもらうことが一番大事。商売がなくなれば、雇用

も消え、人もいなくなる。何とかなるとのメッセージを早く伝えな

いと、手遅れになってしまう」。震災後、職員には補助金申請の手

続きを徹底的に勉強するよう指示を出した。最近は、り災証明の申

し込み方法まで説明する職員もおり、頼もしく感じているそうだ。

 

「109年の歴史なのか、困ったらのとしん、というのが定着して

いる。行政並みといかないが、頼りにされている分、質問されたら

返せるようにしたい」。自身もこの日の昼食時に、通りがかりの知

り合い3人に国の補助金について説明したという。

今回の地震で人口減少への危機感がさらに強まった。「金庫の人員

は今のところ足りているけれど、取引先の人繰りは厳しい。極端な

ことを言うと、地図に能登が残っても、人がいないちいきでは、な

りわいも成り立たない」。商売を続けてもらうため、「今年度、来

年度は損失を出しても顧客の負担を軽くしないといけない。それだ

けの覚悟でやる」と言い切る。

「とりわけ気掛かりなのが、長期休業を」

(和倉、復興シンボルに)

とりわけ気掛かりなのが、長期休業を強いられる和倉温泉だ。建屋
強いられる和倉温泉だ、戻る2

に亀裂が入ったり、護岸がズタズタになったりした旅館がある。宿

泊者数がコロナ下から回復し、「さあこれから」という矢先の震災

だった。

 

「能登の復興を描く中で、シンボルの一つにしないといけない。た

だ、いくら立派な建物ができても、おもてなしを支える人がいなけ

れば機能しない。やはり国、県に人材流出の防止策を早急に検討し

てもらいたい」

「最後にカメラを向けると、慌てて」

最後にカメラを向けると、慌ててジャケットを取り出した。セータ
ジャケットを取り出した、戻る3

ーに綿パン姿。スーツを着用すべき場面を除いて、最近はこの格好

でいることが多い。「避難所から金庫に通う職員がいる間は、この

格好で通したい。支援物資を運んだり、おれも何でもやるぞと、姿

勢を見せたい」。まちなかでは、営業を再開する店も増えてきた。

「あんた、元気やったけ」と声を掛け合う住民の姿を目にするたび

に、元気をもらう気がしている。商売続ける希望を、のと共栄信用

金庫・鈴木正俊理事長、損失出しても支える。今回の地震で大きな

被害を受けたのが和倉温泉だ。今は長期休業をしている。建物が大

きな被害を受けたのが厳しい状況により一層の拍車をかけている。

 

 

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