子母澤類のみやび紀行、御幸塚城跡(小松市)、霊峰を望む殿軍の城。

(金沢へ退却)
大聖寺城を攻め落とした

大聖寺城を攻め落とした利長は、越前まで進軍したところで、金沢

内部リンク


へ引き返すことになった。

 

伏見城が落ち、大阪方の兵が船で金沢へ入って攻撃する、との計画

外部リンク
伏見城が落ち、大阪方の兵が、戻る2

を知ったからだ。

 

 

退却の途中で、小松城の丹羽長重の軍勢が攻めてくるかもしれな

い。それを防ぐために、御幸塚城に兵を入れて、退却が終わるま

で、敵に備えさせることにした。
船で金沢へ入って、戻る4
 

御幸塚城(今江城)は、小松城から南に6キロ、木場潟の西にあ

る。御幸塚と呼ばれるのは、花山法皇(第65代花山天皇)が加

賀三湖を望む三湖台に上がり、眺望されたという伝承によるもの

である。

 

ちなみに花山天皇は、昨年の大河ドラマ「光る君へ」に登場した。

愛する妻の死を悲しむ花山天皇を、藤原道兼が一条天皇を即位させ

るために、だまして出家させたのである。

 

出家後、花山法皇となり、今江に行幸されて、ここで3年を過ごさ

れたという。

 
「この御幸塚に城を作ったのは」
この御幸塚に城を作ったのは

この御幸塚に城を作ったのは、1400年代、高尾城の富樫氏であ
1400年代、高尾城の富樫氏で、戻る1
った。以後、一向一揆衆や、佐久間盛政など、政情にともなって城

主が代わっていった。

 

御幸塚城の跡は、今江小学校の隣にある。住宅地から小学校への小

高い丘に上がっていくと、視界が開けて、小学校とグランドが広が

っていた。

 

グランドを間にして、校舎と向かい合う高台が城山公園である。

 

公園の階段を上がると、遊具が置かれていた。冬のやわらかな日

射しの中で、おじいさんが孫娘を遊ばせていた。

 

(歴史しのぶ石碑)

丘の最も高い場所に「今江城趾」と書かれた石碑があった。案内

板はないが、石碑の側面に、浅井畷の合戦の歴史が刻まれていた。

 
「公園は広い。城の痕跡は見当たらない」
公園は広い。城の痕跡は見当たらない

公園は広い。城の痕跡は見当たらないが、「銀嶺のかなた」の時か
銀嶺のかなたの時、戻る2
ら、私はいくつもの城跡を見て歩いた。そのおかげで、平らな台地

が段状になっているのを見れば、ここに曲輪があっただろうと想像

できる目が、いつしか備わったようなのである。

 

丘の真下に住宅の屋根がある。家々の屋根は遠く連なっている。

 

目線の先にあるのは白山である。冬の白山は、神々しい気高さに輝

いている。

 

かつてはこの台地から、木場潟、旧今江潟、そして柴山潟が見え

た。街道も見渡せただろう。

 

(襲いかかる丹羽勢)

1600年8月6日、利長は4千人の手勢を御幸塚城にいれて、態

勢がととのうのを待った。翌朝、木場潟の南に宿営していた利長、

利政本体は、三堂山(三道山)の砦を目指したのだ。

 
「御幸塚城から、本隊の通過を見届けた」
御幸塚城から、本隊の通過を見届けた

御幸塚城から、本隊の通過を見届けた軍勢は、殿軍となって城を出
軍勢は、殿軍となって城を、戻る3
た。三堂山の本隊に向かおうと北陸道に入るところで、丹羽勢が襲

いかかるのである。浅井畷の戦いである。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です