(パリ・ダカールラリーで何度も優勝の三菱の社員、篠塚健次郎の
パジェロの挑戦)
パリ・ダカールラリーで何度も優勝の三菱の社員、篠塚健次郎のパ
内部リンク
ジェロの挑戦は世界一過酷なレースと言われました。こんな過酷な
レースになぜ挑戦するのでしょうか。それはパジェロの安全性と耐
何度も優勝の
久性とスピードをテストする意味もあったはずです。何度も優勝す
三菱の社員
るたびに市販車のパジェロは街中のどこでも、見かけるようになり
ました。それだけパジェロは売れたのでした。パリ・ダカールラリ
ーでの優勝は三菱に素晴らしい恩恵をもたらしました。
(荒地を走る過酷なサバイバル)
初めてパリ・ダカールラリーが開催されたのは、1978年の暮れ
である。パリの広場から、合わせて200台近くのオートバイと自
動車がスタートを切った。ゴールは海を渡ったアフリカにあった。
セネガルの首都ダカールを目指し、約1万2000Kmを走る。
外部リンク
日本では今も「パリダカ」という名で呼ばれることが多いが、
現在はダカールラリー、もしくは単にダカールである。パリか
らスタートするのは2001年が最後だった。アフリカでは、
政情不安が続きテロ事件が相次いだからである。
(社員ドライバーの挑戦)
「新しいコース」
新しいコースとして選ばれたのは、比較的安全な南アメリカだった
選ばれた、戻る1
。2019年の第41回大会は、ペルー一国での開催となっている
。我々はどうしてもパリダカと呼んでしまうのだ。それは、「三菱
パジェロ」、そして篠塚健次郎の奮闘を忘れることができないから
だろう。
篠塚が出場したのは、市販車無改造のマラソンクラスである。街で
普通に売られているパジェロに乗ってゴールを目指した。自由に改
造できるプロトタイプとの性能差は大きく、総合優勝は不可能であ
る。8年のブランクも大きい。それでも粘りの走りでクラス6位、
総合46位という好成績を残す。パリダカ挑戦の機運は盛り上が
り、翌年はプロトタイプで出場することが決まった。
(日本で高まる優勝への期待)
1985年にパジェロは優勝を経験している。フランスの三菱自
動車販売店であるソノートがフランス人ドライバーの手で快挙を
成し遂げていたのだ。1987年は「チ-ムシチズン夏木」が編
成され、監督が夏木、ドライバーが篠塚と彼の後輩である増岡浩
のふたりということになった。ソノートが前年に使ったマシンを
使っての参戦である。
「華々しかった」
成果は華々しかった。篠塚は総合3位という望外の成績を収めた
総合3位、戻る2
のである。日本では快挙が大々的に報道され、パリダカは一気に
最も有名なモータースポーツとなった。翌1988年、期待が高
まる中で出場した篠塚は、前年を上回る2位という成績を得た。
これを受け、パリダカ参戦は広告宣伝活動という枠組みを離れて
正式な活動として承認される。三菱は会社を挙げて取り組む体制
を整えたのだ。次に誰もが願ったのは、もちろん日本人ドライバ
ーによるパジェロの優勝である。篠塚の勢いを見れば、それはす
ぐにでも実現すると思われた。しかし、砂漠の覇者になるのは簡
単なことではなかった。
「優勝を果たす」
1992年、パジェロはついに優勝を果たす。1993年も制し
パジェロ、戻る3
て連覇するが、ドライバーはいずれもフランス人である。篠塚は
それぞれ3位、5位と健闘したものの、悲願は達成できなかった
。1994年からは、シトロエン3連勝して強さを見せつける。
このような過酷なラリーは本当に命がけで、参戦しないと勝てな
いとつくづく実感しました。どんな勝負も甘いものはありません
。最後までゴールするまで何があるかは、分かりません。
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