新駅を待つ出城、猪木さん支えた暁烏の系譜、「迷わず行けよ」の元ネタ

(新駅を待つ出城、猪木さん支えた暁烏の系譜、「迷わず行けよ」

の元ネタ)

白山市北安田町の

白山市北安田町の空撮地図を眺めていたら、住宅街の中に木々に囲



内部リンク

まれた八角形の屋根を見つけた。真宗大谷派明達寺とある。調べて

空撮地図を眺めていたら、

みると、近代日本を代表する仏教者の一人、暁烏敏が生まれた場所
住宅街の中に木々に

外部リンク

で、かつて多くの著名な芸術家や文学者が敏に会うために足を運ん

 

だという。

 

(先代住職の詩)

寺を訪ねると、副住職の暁烏浩さん(34)が山門脇にある庫裏

「香草会館」に案内してくれた。玄関を入るや、飾られた詩を見て、

思わず「えっ」と声が出た。

 

「この道を行けばどうなるのかと/危ぶむなかれ/危ぶめば道はな

し/踏み出せば/その一足が道となる/その一足が道である/わから

なくても/歩いて行け/行けば/分かるよ」

「好きな人ならすぐに気付く」

好きな人ならすぐに気付くだろうが、昨年10月に79歳で死去
だろうが、昨年10月に79歳で、戻る1

したプロレスラーアントニオ猪木さんの座右の銘「道」によく似

ている。今月7日に東京でお別れの会が盛大に営まれたばかり。

猪木さんの言葉は最後が「迷わず行けよ/行けば分かるさ」にアレ

ンジされているようだが、それ以外はほぼ同じだ。

 

聞くとこの詩は、もともと先代住職の清沢(暁烏)哲夫さんが書

いた。1951(昭和26)年に敏の主宰誌で発表し、著書「無

常断章」(66年刊行)にも掲載された。

 

猪木さんが気に入って使っていたらしい。ただ「元ネタ」が出城

にあることはあまり知られていないだろう。プロレスの大スター

にも影響を与えていたとは。いきなり大物登場である。

 

 

(虚子も志功も)

香草会館には、これまでに寺を訪れた著名人の作品や敏の遺品が

飾られていた。見て回ると錚々たるメンバーである。

「荒城の月で知られる詩人の」

「荒城の月」で知られる詩人の土井晩翠に、民藝運動を始めた美
土井晩翠に、民藝運動を始めた、戻る2

術評論家の柳宗悦。俳人の高浜虚子は2人の子どもと一緒に来て

俳句をしたためた短冊を残したそう。世界的板画家棟方志功の肉

筆画もあった。

 

敏の魅力に引かれ、山門をくぐったのは有名人だけではないらし

い。三味線漫談の女性芸人をはじめ、時計を見なくても定時の鐘

を突く時間が分かったり、野草からおいしいお茶を作ったりと、

一芸を持った人が入れ代わり立ち代わり顔を出したそうだ。出城

地区の歴史文化に詳しい吉村務さん(78)は「面白い時代やっ

たなあ」と懐かしむ。

 

境内の広場には空撮で見た八角形の建物があった。敏が晩年建立

した「臘扇堂」。法隆寺の夢殿を模して建設されたといわれてお

り、中には敏と師である清沢満之の木像が安置されている。臘扇

は満之の号で、敏の木像はまつられた師の像を拝む姿をしている。

この広場には敏が道場「大日本文教院」を建てる計画だったが、

戦争などで断念したとの話が残る。

 

千客万来の寺が示すように、多くの人に仏法などの文化に触れて

もらいたいと願った敏。現在もそれは受け継がれ、寺では不定期

だが、子どもからお年寄りまで住民を集めた勉強会「香草会」が

開催されている。

「香草会の写真を見せてもらうと」

香草会の写真を見せてもらうと、参加者はみんな笑顔だった。
参加者はみんな笑顔だった、戻る3

「敏の教えをいつまでもつないでいきたい」と浩さん。「踏み出

せば/その一足が道となる」。たくさんの人に元気を与え、闘魂

を注入し続けた偉大なレスラーの背中を押した暁烏の系譜。明達

寺にはこれからも住民たちのよりどころであってほしいと思った。

新駅を待つ出城、猪木さん支えた暁烏の系譜、「迷わず行けよ」

の元ネタ。暁烏敏と言えば有名な文学者である。寺の住職でもあ

った。中学時代に暁烏氏のことを知りました。アントニオ猪木が

道という詩を心の支えにしていたとは知りませんでした。人間は

弱いもので何か心の支えがないと生きていけないようですね。

 

 

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