能登のへそ鹿西、「能登部銀座」復活へ、重伝建選定へ学生と連携

中能登町鹿西地区の徳丸区にある集会場に、古い新聞のコピーが張

中能登町鹿西地区の

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られている。日付は1934(昭和9)年10月1日、見出しは

徳丸区にある集会場に

「祝 能登部町制」とある。鹿西町の前身となる「能登部町」の誕

古い新聞のコピーが

外部リンク

生を特集した北陸毎日新聞(後に北國新聞と統合)の紙面だ。

 

紙面に目を凝らすと、当時の活気がみてとれる。能登部町を「繊維

王国」と称し、伝統的な高級麻織物「能登上布」で栄えた歴史が記

されている。新聞下段の名刺広告には、銀行や診療所、食堂、牧場

など多彩な業者がずらり。その繁栄ぶりから地域では「能登部銀座」

の愛称で親しまれていたそうだ。

 

「自転車屋もあったし、お菓子屋もあった。子どもの頃は能登部に

行けば何でも買えた。鹿西の人はみんな行っとった」

「よくぞ聞いてくれましたとばかりに」

徳丸在住で「能登部銀座」時代よく知る宮下為幸町長(72)は、

よくぞ聞いてくれましたとばかりに、かつてのにぎわいを興奮気味
かつてのにぎわいを興奮気味、戻る1

に説明した。

 

(人通り少なく)

さて、89年後の現在はどうか。旧能登部町内を見て回ると、北陸

の伝統的建築様式であるアズマダチの家屋が目に付く。規模も大き

く、繊維業で膨大な財を築いた先人の暮らしぶりがみえる。しかし、

人通りは少なく閑静で、空き家も目立つ。栄華を極めた往時をしの

ぶことは難しい。

 

町は、この一帯を重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)として国

の選定を目指している。国から町並みの歴史的価値のお墨付きを得

て、かつてのにぎわいを取り戻そうということで、2018年に調

査委員会を立ち上げた。

「ただ、コロナ禍の影響もあり、」

ただ、コロナ禍の影響もあり、選定に向けた動きは鈍い。当初は5
選定に向けた動きは鈍い。当初は、戻る2

年後の今年、国に申請する計画だったが、まだ至っていない。「重

伝建?そんなの知らんわ」と首をかしげる住民もおり、地元のさら

なる機運醸成が必要のようだ。

 

(アイデア続々)

今月上旬、能登部下のカルチャーセンター飛翔で、学生が住民と議

論を交わした。「空き家をデイサービスに利用できないか」「家屋

の維持に関わるアルバイトをつくればいい」。机の上の画用紙には

柔軟な発想でアイデアが次々に書き込まれた。

 

学生は金大地域創造学類観光学・文化継承コースの川澄厚志准教授

のゼミ生で、細貝尚輝さん(3年)は「思いがけない発見や見落と

されていた特長が洗い出されたのではないか」と手応えを感じてい

た。町の担当者も「若者が活発に活動することで、地域の重伝建選

定の機運を高めたい」と期待を込める。

「重伝建が決まれば、歴史的慶事として」

重伝建が決まれば、歴史的慶事として紙面に記録される。未来の住
紙面に記録される。本来の、戻る3

民も集会場に誇り高く貼り出してくれるだろうか。今度は鮮明なカ

ラー写真で「能登部銀座」の復活を盛大に祝いたい。能登のへそ鹿

西、「能登部銀座」復活へ、重伝建選定へ学生と連携。口で言うの

は簡単だが実際に重伝建に選定してもらうのは、そう簡単なことで

はないと思われます。それでも今回は金大の学生と住民が直接議論

できたことはとても意義のあるだと思います。少し長いスパンで頑

張って行けばいつかは実現する可能性があると思います。

 

 

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