金石は磨いてなんぼ、忘れられた「めでタイ」地名、「冬瓜町」由来に誤解

旧町名復活運動が盛んな金石地区に、忘れられた地名がある。その

旧町名復活運動が

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名は「冬瓜町」。トウガンマチ、ではなく「カモリマチ」と読む。

盛んな金石地区に、

とてもユニークな地域でありながら、今やその歴史を正しく知る人
忘れられた地名がある。

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は皆無だとか。どうやら誤った町名の由来がまかり通ってきたきた

 

せいらしいのだが。

 

(神を守る町?)

「ほら、ここにも神を守る町やから『神守』と呼ばれたって刻まれ

とるやろ」

金石西1丁目の犀川河口近く、神社の境内にある旧町名の石碑を指

し、「金石の歴史を知る会」の林吉三会長(76)が苦笑いする。

「金石町誌にも書かれている定説に」

金石町誌にも書かれている定説に、林さんはずっと疑問を抱いてい
林さんはずっと疑問を抱いて、戻る1

たそうだ。冬瓜はカモウリとも呼ぶが、それを神守と結び付けるの

は確かに強引な気がする。文献や先行研究を網羅し、林さんが再発

見した町名の由来は次の通りだ。

 

かつて、石見国(現在の島根県)に卓越した漁業技術を持つ漁民が

いた。彼らは冬瓜をくりぬいたような丸木舟に乗って航海し、宮腰

(金石)に移住。それが冬瓜町のルーツ、というのが林さんの見解

である。

 

「彼らは藩主に献上するタイを獲る専門家やったんや。それで随分

と特権が与えられとったらしい」

「元々の冬瓜町があったのは、現在は」

元々の冬瓜町があったのは、現在は金石港がある犀川河畔一帯で、
金石港がある犀川河畔一帯で、戻る2

江戸中期の古地図では100戸近くが軒を連ねる。この集落だけ

で独立した地域運営をしていたことも分かっている。

 

これは3代藩主・前田利常の意向だったようだ。連載の前々回で

紹介した金石の顔役・中山主計の家に伝わる中山家文書(県指定

文化財)にも、冬瓜町への移住者には家を与え、住民税も免除す

るなどの優遇措置が記されている。

 

地元郷土史家の手記を調べたところ、冬瓜町の漁師は出漁時に紋

入りの旗を立て、それが見える範囲内では他の漁師は操業が禁じ

られた、ともあった。

 

タイは武家の祝い事に欠かせない。藩主ともなれば相当な大物を

欲しがったのだろう。「タイ獲り」というニッチな専門職だけで

町ができるのだから、百万石のお大尽ぶりたるや。

 

地元には「タイカタネ道」という名も残る。「水揚げしたタイを

肩に担いで歩いたって意味やね」と林さん。首級をあげた武者の

ように意気揚々と金沢城へ向かう漁師の姿が目に浮かぶ。

 

(民話にもタイ)

前述の旧町名石碑がある神社は「あめのいわくすふねのやしろ」

という珍しい名で、祭神はタイを抱えた七福神のエビス様。やは

りタイと縁深い地域なのだ。

地元にはタイがらみの民話も伝わる。海が荒れ、注文のタイが手

に入らず魚屋が頭を抱えていると、老いた飼い猫がどこからかタ

イをくわえてきて無事に納品できた。いわゆる、ペットの孝行話

である。

 

タイ尽くしの歴史に触れてひらめいた。これは町おこしに使える。

「祝い事には冬瓜のタイを」の売り文句でブランド化するのだ。

「しかしながら、金石港ではタイの」

しかしながら、金石港ではタイの水揚げがないようで。よし、なら
水揚げがないようで。よし、戻る3

ばタイ焼きではどうだ。マスコットキャラはタイをくわえたドラ猫

で。商品化を希望する方がいましたら、ぜひご一報を。金石は磨い

てなんぼ、忘れられた「めでタイ」地名、「冬瓜町」由来に誤解。

金石は今でも普通に栄えていると思います。金石街道もあるし警察

署もあります。大きな大徳小学校や銀行もあります。金石港は今は

どうなっているのかよくわかりません。でも古くから歴史のある町

です。金石港も昔は栄えていました。多くの漁師がいて町も栄えて

いたようです。

 

 

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