早紀江さんから友枝さんへ悼む手紙、「たくさんのご苦労」「お世話になり感謝」。

61年前に日本海で行方不明となり、北朝鮮で暮らす寺越武志さん

61年前に日本海で

 

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(74)=志賀町出身=の母友枝さんが92歳で亡くなり、北朝鮮

行方不明となり、

に拉致された横田めぐみさん=失踪当時(13)=の母早紀江さん
北朝鮮で暮らす寺越武志さん
66回目の訪朝を機に友枝さんと
 

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(88)が金沢市の友枝さん宅に手紙を寄せた。友枝さんの長女

 

(71)が北國新聞社に明らかにした。「たくさんのご苦労をしの

び、心からお悔やみを申し上げます」。拉致問題を巡って立場は異

なるが、早紀江さんは北朝鮮に翻弄された同じ母として友枝さんを

悼んだ。

 

川崎市に住む早紀江さんの手紙は1日、香典とともに友枝さんと家

族宛てに届いた。便箋2枚に直筆で、「武志様のために全身全霊を

こめてのご活躍と熱意に、いつも応援をし、祈って参りました」

「大変お世話になりましたことを感謝しております」と書かれてい

た。

 

(みんな苦しんでる)

手紙には拉致被害者家族の思いを示すような文面があり、「たくさ

んの被害者はいまだ確認できず、本当にこんな事が起きていること

が信じられない思いで、みんな苦しんでおります」と記された。

「友枝さんと早紀江さんは、

友枝さんと早紀江さんは、ともに13歳のわが子と離れ離れになっ
ともに13歳のわが子と離れ離れに、戻る1

た。友枝さんは拉致被害者家族と行動をともにした時期もあったが

「北朝鮮の船に助けられた」と話す武志さんを尊重し、拉致の言葉

を封印した。一方の早紀江さんは、めぐみさんら拉致被害者の帰国

を最前線で訴え続けている。

 

(心で分かり合う)

友枝さんの長女によると、2人は表立って交流することはなかった

が、折に触れ、手紙や電話で思いを伝え合ってきた。

長女は「2人は心で分かり合っていたと思う。丁寧な手紙をいただ

き、母を思ってくれてありがたい」と話した。

 

早紀江さんは2019年2月、月刊北國アクタスで友枝さんの特集

を読み、「何という長い苦労の年月でありましょうか」と感想をつ

づった手紙を友枝さんに寄せた。昨年4月には友枝さんの入院を知

って筆をとり、「お大事にしてくださいね」と気遣っていた。早紀

江さんから友枝さんへ悼む手紙、「たくさんのご苦労」「お世話に

なり感謝」。(寺越さん母子の61年・友枝さんの歩み)

 

 

コメント(以下に書いて下さい)

 

「お母さん、拉致と言えば家族の」

「お母さん、拉致と言えば家族の縁が切れて会えなくなりますよ」
縁が切れて会えなくなりますよ、戻る2

寺越武志さん(74)は一時帰国した2002年10月、母の友枝

さんにこう話したという。

 

友枝さんは再会当時から、武志さんに北朝鮮に来た経緯を何度も聞

いた。武志さんは決まって「北朝鮮の船に助けられた」と言い、詳

しく聞こうとすると「眠っていて分からない」とはぐらかされた。

 

武志はそもそも、北朝鮮に来た経緯を話したがらんかった。武志が

拉致じゃないという以上、私が拉致問題に関わることはできん。聞

くことはやめた」

 

拉致を封印し、武志さんの身の安全と立場、生活を第一に優先した

友枝さん。この決断がなければ、66回もの訪朝を重ね、親子の時

間を過ごすことはできなかったかもしれない。

「武志さんは当時、平壌市職業総同盟」

(仕送り、命がけ)

武志さんは当時、平壌市職業総同盟副委員長という異例の出世を果
副委員長という異例の出世を、戻る3

たし、田舎の亀城から、朝鮮労働党の幹部も入居する平壌の26階

建てマンションの13階に引っ越していた。7LDKの広い間取りで

室内は冷暖房がよく効いたという。

 

友枝さんによると、肉や魚など食事の配給が豊富な時期があり、北

朝鮮で武志さんと暮らした夫・太左ヱ門さん=享年(86)=の糖

尿病治療も手厚かった。だが、やがて生活は苦しくなり、友枝さん

の仕送りなしでは成り立たなかった。

 

友枝さんは金沢で清掃の仕事に励み、訪朝のたびに衣類や家電製品

日用品を持って行き、お金もできる限り渡した。武志さんとの時間

はかけがえのないものだったが、「仕送りは命がけ」と漏らすほど

の負担も抱えていた。

 

(つなぐ糸は細く)

2018年4月、当時87歳の友枝さんは66回目の訪朝に際し、

「これで最後」と心に決めて海を渡った。「年やし、金沢で一緒に

暮らす長女の家族にも心配をかけたくない。もう、武志を助けるお

金もない」しかし、「面倒を見るから一緒に住みましょう」「元気

でまた会いましょうね」と話す武志さんに、最後とは言い出せなか

った。

 

「これで最後、諦めようと思うと、幼い武志のかわいさや再会の時

の喜びが頭に浮かんで、決心が揺らいでしまう。でもどうにもなら

ん、もう最後なんやと何度も自分に言い聞かせた」

「66回目の訪朝を機に、友枝さんと」

66回目の訪朝を機に、友枝さんと武志さんをつなぐ糸は細くなっ
武志さんをつなぐ糸は細く、戻る4

ていく。この北朝鮮による拉致問題は当時は大きな社会問題になっ

た。途中、小泉氏が首相の時に数人を北朝鮮から連れて帰ってきた。

これも大きなニュースになった。小泉氏は素晴らしい仕事をしたと

思います。しかし、それ以来いまだに全容は解決していません。

 

 

 

 

 

 

 

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