飛行機でアムステルダム空港に着き電車でスイス駅から目指した2回目のイタリアでの仕事

(飛行機でアムステルダム空港に着き電車でスイス駅から

目指した2回目のイタリアでの仕事)

アムステルダム

2回目のイタリアでの仕事は、まずアムステルダムまで飛んでそこ


から、スイス空港へ向かった。そこから、地下鉄で鉄道のスイス駅

イタリアでの

へ向かった。そこから鉄道でイタリア駅を目指した。絹の王はメリ

 

ーさんで、奥さんは洋子さんです。我々は多くの荷物を持っていた

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。洋子さんのおみやげのビンに入った粉の、ヨーグルトは、段ボー

 

ルに入っていた。段ボールは危ないと言うことは、分かっていたが

バッグがなくて、段ボールに入れた。列車がスイスとイタリアの国

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境に着いた時、税関員が乗って来て、我々はパスポートコントロー

 

ルと言われて、列車を下ろされた。駅の部屋でシャツとパンツにさ

せられて、身体検査を受けた。洋子さんのビンに入ったヨーグルト

と機械部品は、税関に取り上げられた。メリーさんに電話したら、

とにかくホテルまで、来なさいと言われた。後は明日、何とかする

からと言われた。それでホテルへ向かった。

 

 

 

 

 

ホテルに着いてシャワーを浴びて下着を着替えた。そこへメリーが

見えて3人で明日の、予定を話し合った。メリーさんは明日、税関

へ行って機械部品と、洋子さんのヨーグルトを取りに行くと、話て

た。我々は工場へ行って色々なチェックを、してそれから機械の改

造の準備をする事から、始める事にした。翌日、工場へ行って予定

の仕事を、済ませて機械の改造にかかった。全てが重い物ばかりで

、予定通りには進まなかった。1台ずつ、ゆっくりと進める事にし

た。この方が効率が良くて、逆に速く進んだ。30台も買ってもら

った、ユーザーだから丁寧な、仕事をしなければならない。

 

ある日

「入口の門」

工場へ行ったら、入口の門が閉まっていた。ある人に聞いたら、今

ある人に、戻る1

日は従業員が、ストライキをしていて、みんな帰ってしまったよ。

と教えてくれた。さすがヨーロッパだなあ。と思った。日本では、

チョット考えにくい事である。我々2人だけ工場に入れてもらって

、仕事をした。静か過ぎて異様な感じがしたが、仕事を続けた。昼

食はホテルへ帰って、済ましてその後また工場に、向かった。自分

達だけで仕事をするのは、本当に異様であった。

 

「何とかその日」

何とかその日の仕

事を終えて、ホテルへ帰った。しばらくして、夕食になったので毎

ホテルへ、戻る2

日、食べている生ハムと、ビールを頼んだ。女将さんは私が生ハム

が好きなのを、知っていて先に用意をしてあった。生ハムは、イタ

リア語で、プルシュートクルーゾーと言って、私が一番先に覚えた

イタリア語である。本場の生ハムは本当に、美味しいです。翌日か

ら工場は、正常に戻ってみんなが出勤して来ました。仕事も順調に

進んで、今回も2週間ほどで終了です。テスト運転も無事に終了し

て工場を後にしました。帰りも電車でスイス駅へ、行ってその後、

スイスの空港から、返ります。空港までの途中に、日本食堂があ

ってそこで食事を、しましたが、醤油の味が忘れられません。本

当に美味かったです。12時間以上かかって、関空に着きました

。そこから金沢までは電車です。着いたらホットしました。

 

 

 

 

 

 

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ソビエト上空の北極圏を飛んで白夜を体験して着いたイタリアで初めて仕事をした時とは

(ソビエト上空の北極圏を飛んで白夜を体験して着いた

イタリアで初めて仕事をした時とは)

イタリアで


イタリアで初めての仕事をした時は、イタリアまで行くのにロシア

イタリアまで

上空を飛ばないでもっと上を飛んで、ヨーロッパを目指した。この

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時、初めて白夜と言う物を経験した。時間に関係なくずっと明るい

 

昼間なのです。眠たくなってもなかなか、眠れません。飛行機の窓

のブラインドが、全部閉められる事がないので、どこかから必ず光

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が入って来るのです。初めての経験でしたので、本当に驚きました

 

。いつも昼間と言う事は頭では、考えられませんでした。でも現実

には、あるのです。本当にびっくりしました。

 

 

 

 

 

 

長い時間、飛んでアムステルダム空港に着きました。65番ゲート

位まであって、イタリア行きは、端から端まで歩きました。航空機

でしばらく飛んでイタリアの空港に着きました。自動小銃を持った

警備員がいてかなり、厳しいチェックを受けました。日本で初めて

のソニーのCDプレーヤーを持って、いましたが何とか通関ができ

ました。ユーザーは世界一の絹の王で、自宅には、2,000万円

位のオーデイオがありました。それに我々が持ち込んだ、ソニーの

CDプレーヤーを、つないで再生して見ました。とてもクリアーな

音できれいな感じでした。ユーザーも感動してとても喜んでくれま

した。残念だったのは、CDがクラシックが5枚ほどで、ソースが

足りませんでした。それでもユーザーの方は、クラシックファンで

満足されていました。我々も苦労して持ち込んで、良かったなあと

思いました。

 

 

 

 

 

 

「オペラ座で」

奥様は東京芸大卒で、イタリアのオペラ座で歌っている所を、ユー

東京芸大、戻る1

ザーが見ていて、国際結婚をしたそうです。お姉さんもフランスへ

嫁いで2人そろって国際結婚です。休みの日にドオモへ連れて行っ

てもらって天井画を見て来ました。ミケランジェロや有名な画家の

絵ばかりで、素晴らしいものでした。その後グッチやブランド品ば

かりの店をまわりました。財布と靴を買わされました。ユーザーが

言うには、少しはイタリアにお金を、落としていってください。靴

は日本人は、足が幅広なので少し窮屈でしたが、買いました。次に

宝石の店へ行きました。凄く高い大きなダイヤやパールを、見せて

もらいました。パールをつないでいる芯糸は、ユーザーが作った絹

糸を使っていました。絹糸は強撚をかけると強度が凄くて、ネック

レスが切れ難くなるそうです。まだ他にも多くの店を回って、沢山

買い物をしました。彼は喜んでくれました。

 

 

 

 

 

 

 

「パスタの」

夜は食事に連れて行ってもらいました。パスタの専門店で食べまし

食事に、戻る2

た。パスタの湯で具合が最高で、とても美味しくて素晴らしかった

です。仕事は機械の改造で順調に、進んでいました。ただ重くて持

ち上げるのが大変でした。2週間ほどかかって、10台の機械を改

造しました。試運転は実際に絹糸を、1,200m/minの高速で巻き

取るテストです。実にきれいに巻き上がって、これが自分で設計し

て組み立てまで、行った機械だと思うと、とても感動しました。こ

の機械で巻けばいい糸が、出来るはずだと確信しました。彼には、

1,000万円もする機械を、1年に10台ずつ30台で、3億円も

買ってもらいました。心から感謝しています。彼の凄い所は、例え

ば来日したら、日本の絹の相場がドンと上がります。そして日本を

離れて、香港へ向かったとすると、日本の絹の相場が下がって香港

の、相場が上がります。彼が動くと世界の絹の相場が、上下すると

言う凄い影響力のある、偉大な人でした。そんな人に巡り合えて、

一緒に仕事が出来た事は、今でも私の誇りですし、感謝しかありま

せん。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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警察官と軍人がバスに乗りパスポートチェックした2回目の韓国で38度線の近くの春川で仕事

(警察官と軍人がバスに乗りパスポートチェックした

2回目の韓国で38度線の近くの春川で仕事)

38度線の

2回目に韓国へ38度線の近くの、春川で冬に仕事で行った時に、


一番、怖かったのは38度線近くの、米軍の空港の横を、バスに乗

春川で冬に

って通る時の事だった。軍人と警察官が2人で、背中合わせになっ

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て、パスポートコントロールと言って、パスポートのチエックをす

 

る時でした。銃剣を喉元に突きつけられて、パスポートを見せるの

です。本当に怖かったです。誤って銃剣が喉元に刺さる事が、起き

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たらどうなるのかと、不安でどうしようもなかった。何とか無事に

 

終了して、バスは春川へ向かった。春川の工場に着いた時は、寒く

てどうしようもなかった。

 

日曜日にもかかわらず、5人の課長と部

長が出迎えてくれた。工場での仕事は寒くてどうしようも、なかっ

た。ストーブを焚いてもらって、10分間、仕事をして、10分間

ストーブで手と体を温めて、仕事を終了した。7時間位かかった。

5人とも、ソウル大学卒のとても優秀で、優しくて親切な人達でし

た。それからクラブへ連れて行ってくれました。そこで楽しく過ご

して、ホテルまで送ってくれました。工場は、本当に寒かったです。

暖かい所に来たら、安心して眠れました。

 

 

 

 

 

「ソウルまで」</P

次の日は電車でソウルまで、戻りました。彼らの5人も春川の駅ま

5人も春川、戻る1

で見送りについて来てくれました。私が電車の切符を買おうとした

時に、事件が起きました。駅員にソウルまで1枚下さいと言ったら

、駅員はソウルまではありません。切符がないと言うことを、課長

に伝えたら彼は、駅員と何か話していました。彼は私の所へ来て、

恥ずかしい事ですが、お金を2倍、払ってくれるとあるそうです。

駅員が切符を全部、自分のポケットの中に入れて、いるとのことで

した。課長を含め5人は、本当に残念そうでした。山田さん韓国の

現状は今はこうですが、将来はきっと良くなると思います。と課長

が言った。分かりました。2倍、払いますから切符を買って下さい

。と私が言ったら、気まずそうに彼は私に、切符をくれた。ごめん

なさいと言って、5人は頭を下げて見送ってくれた。私は逆に爽や

かな気持ちで、電車に乗り込んだ。5人はさすがにソウル大学卒だ

なあ。と5人に敬意を評して別れた。

 

 

 

 

 

 

「大学生だと」

電車に乗ってしばらくすると、大学生だと思われる若い男の人が、

若い男の、戻る2

私の所へきて、日本の方ですか。と

聞いてきて、そうです。と答えると、横に座ってもいいですか。と

言った。私はいいですよ。と答えた。彼は私の日本語をチェックし

て下さい。と頼んで来た。分かりました。と答えた。彼は日本語を

勉強中の大学生です。どちらもソウルまで行くことが、分かって彼

は喜んでいた。時間が充分にあるから、嬉しかったのです。彼の日

本語は実に流暢で、私の方がびっくりしました。私が電気技術者で

あることや、実案と特許を30位、持っていることや、その内容を

話したら、実に興味深そうに聞いてくれました。韓国の大学入試は

凄く難しい事は、新聞やニュースで知っていましたが、大学生にな

ってもこんなにも、勉強するんだなあと、改めて感心しました。ア

メリカの大学生も、凄く勉強していることも、話したら彼は既に知

っていました。日本の高校生は大学入試に、向けて猛勉強しますが、

大学生になった途端に、遊びに夢中になって、レベルがドンドン下

がって行きます。何と嘆かわしい事でしょう。だから日本からノー

ベル賞を取る人が、アメリカに比べたら、格段にすくないのです。

東大でも世界的に、見れば40位ほどです。如何に日本の大学生の

レベルが、低いかがわかります。いろんな話を韓国の大学生としな

がら、とても有意義な時間を、過ごしました。彼も又、同様でした

。あっという間の時間で、電車はソウルに着きました。彼は本当に

ありがとうございました。と言って電車を降りて行きました。彼に

とっても貴重な時間だったと思います。最後に貴方の日本語は完璧

に近いよ。と言ったら嬉しそうに笑いながら行きました。韓国の大

学生、恐るべし。

 

 

 

 

 

 

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飛行機で金浦空港に着き警備員が銃剣を持ち恐怖で仕事で以前に韓国へ行った時とは

(飛行機で金浦空港に着き警備員が銃剣を持ち恐怖で

仕事で以前に韓国へ行った時とは)

韓国へ行った事

 

30位の時に3人で仕事で、韓国へ行った事がある。その時の事を

 

 

書いて見ようと、思っています。飛行機で行ったら本当に、しばら

韓国へ行った

くで金浦空港に、着きました。空港は厳戒態勢に近い警備でした。

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カメラは撮影禁止で、警備員はみんな銃を持っていました。さすが

 

に外国は違うと感じました。38度線の先は北朝鮮ですから、当時

でも戦闘態勢です。空港に降りたら、にんにくの臭いがしてとても

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臭かったです。相手の会社の人が車で、迎えに来てくれたので、そ

 

の車で会社まで行きました。我々の担当者は本社では、社長室の室

長で親切な人でした。テグの工場まで高速道路で送って、もらいま

した。

 

作業服に着替えて工場の中を、見学させてもらいました。とても大

きな工場でかなり時間が、かかりました。1日目は見学だけで終了

です。次の日は、道具箱を鍵のかかるロッカーに入れて、機械の部

品を置いてある所を見て、使う部品から順番に工場へ、運びました。

その後、順番に従って組み立てを始めました。道具箱を鍵のかかる

ロッカーに預けるのは、当時の韓国では、泥坊さんが多くて、この

ような管理をしてもらうしか、他に方法は、ありませんでした。本

当に悪い人が多くて、困っていました。チョットの間に今まで、使

っていた道具でさえ、なくなるのですから。

 

 

 

 

 

 

「手動操作の」

当時は、ほとんど手動操作の機械ばかりでした。だから本当に、人

手動操作、戻る1

が多くいました。現在のような自動機械は、ほとんどありませんで

した。我々の会社の機械は、糸より機械の前工程の準備機で、糸を

巻く機械です。巻く機械と言うと簡単なようですが、カムを使って

両端が、耳高にならないように、実案と特許が多くかかっています。

当時にしたら、かなりの技術力がありました。会長である父が発明

した物が多くありました。私自身も感心するような技術でした。私

は、父を発明の数では、超えれませんでした。父のひらめきは素晴

らしい物が、ありました。

 

「1日に1台」

機械の組み立ては、順調に進んで1日に1台のペースで、完成して

順調に進んで、戻る2

いきました。ある日の朝、工場に行ったら係長が、慌てて近ずいて

来て、大変です。昨日、泥坊さんが入って機械の変速機と、フリク

ションプーリが、何枚か盗まれました。と言って困っていました。

変速機は、作れないから、日本から送ってもらいましょう。フリク

ションプーリは、こちらで作れると思います。と言ったら係長は、

すぐに相談に行きました。大変だったと思いました。どちらの部品

も何とか、手に入って10台以上の機械を、無事に組み立てて試運

転も、ほぼ順調に進みました。食事は毎日、肉が中心でした。肉は

コギと言います。それとニンニクです。不思議な事に自分も、食べ

るとニンニクの臭いが、ほとんど気にならなくなります。肉は、本

当においしかったです。2週間ほどの仕事でしたが、いい経験と勉

強になりました。今日では何かと近くて遠い国と、言われるように

なりましたが、本当にそうかも知れません。同盟国ですから、世界

の平和と安全のために、仲良くして発展して行けたらいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

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圧倒的に強くてフットワークも抜群のテニスの世界ランキング1位のジョコビッチの凄さ

    (圧倒的に強くてフットワークも抜群のテニスの世界ランキング1位のジョコビッチの凄さ)

 

 

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 ジョコビッチはテニスプレーヤーとしては、決して大きい方では、

ない。しかし非常にクレバーな選手である。

ストロークとボレーは

しかしサーブ

強いボールが打てて、プレースメントも正確である。しかしサーブ

はそんなに速くはないが、プレースメントは非常に厳しい所を、狙

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って来る。相手にとってはリターンが、難しくなる。その上、球種

 

もフラット、スピン、スライスの全てが打てるのが強みである。サ

ービスダッシュから、ボレーで決める事もうまい。足が速くてフッ

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トワークも抜群である。体力面もメンタル面

 

も、両方とも強くて申

し分ない。アンテシペイション(予測すること)も抜群にうまい。

 

 4大タイトルでは8回ほど、優勝しているはずである。特に芝生の

コートやハードコートのように速いコートが、得意である。だから

世界ランキング1位を、守れるのであろう。ずっと1位を守るのは

プレッシャーも、かかるだろうが、全く表情も

変える事なく淡々と

試合を進めてゆく。相手に取っては嫌な選手であろう。でもこの冷

な選手がこの間、USオープンの大会で相手が、素晴らしいショット

を決めて、冷静さを失って後ろに向かって、強くボールを打ったの

「後ろに向かって」

が、線審に当たって失格になると言う、事件が起きた。彼もやはり

線審に当たって失格、戻る2

人間なんだなあと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

「日本の錦織とUSオープン」

 5年ほど前に日本の錦織とUSオープンで、決勝戦を戦ってジョコ

日本の錦織、戻る1

ビッチが優勝しました。彼は、やはりチャンピオンらしい試合をし

ました。錦織に取っては惜しい敗戦に、なりました。錦織はこの試

合に限らず、体力面に問題があると思います。それに比べてジョコ

ビッチは、何の問題もなかったと思います。さすがに世界ランキン

グ1位だけのことはあります。常に全ての面で錦織を上回っていました。

 

  常に冷静で正確なショットを決めていました。1番、差があ

ったのはサーブだと言えます。プレースメントが素晴らしく、厳し

い所ばかり狙って、打つのでなかなか返す事が出来ません。錦織も

もう30歳になったので、優勝のチャンスは今後そんなに多くはな

いでしょう。本当にもったいない試合でした。ジョコビッチにとっ

は最高の試合で、今後もまだまだ活躍することでしょう。

 

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飛行機でムンバイに着き夕方国内線でアーメダバードへ飛んでインドで初めて仕事をした時

(飛行機でムンバイに着き夕方国内線でアーメダバードへ飛んで

インドで初めて仕事をした時)

インドで最初に仕事


インドで最初に仕事をしたのは、35歳位の時でした。今から思え

インドで最初に

ばずいぶん、若い頃でした。繊維機械の組み立てです。修理も兼ね

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て行っていたので、10日位の海外出張でした。気温は40度を超

 

えるのですが、湿度が低いのでカラッと、した暑さでそんなに大変

では、なかった記憶があります。アーメダバードと言う場所で有名

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な、無抵抗主義を唱えたガンジーの、生誕の地です。現地の人達は

 

お酒が飲めません。我々みたいな仕事で出向いた、外国人はビール

なら1日に1本で、ウイスキーなどは1ケ月に、ビンで2本でした

。それもパスポートを持って、役所で証明書をもらって来て、酒屋

へ行って自分で、買って来るのです。今ではホテルで自由に飲む事

が、できますが当時は、本当に不便で不自由でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あまり楽しみ」

あまり楽しみ、戻る2

そんな環境でしたから、あまり楽しみはありませんでした。しいて

言えば麻雀をする事位でした。麻雀は勝つ事があまりなくて、負け

てばかりでした。食事は辛いものばかりで、マスターに一番辛くな

いのを、作って欲しいと頼みました。それでも辛いです。最後には

食べる物が無くなって、日本のラーメンのような、ヌードルばかり

を食べていました。仕事の方もなかなかうまく進まなくて苦労しま

した。凄く熱いので午後の4時には、仕事を終了してホテルに戻り

ました。テレビをつけても英語ばかりで、ほとんど理解が出来ませ

んでした。日本人はなぜか土曜日も仕事でした。他の外国人は土日

は、全く仕事はしません。つくずく文化の違いを感じました。そし

て、土曜日の夜には町へ遊びに行って、日曜日の夜に帰ると言う、

スタイルです。この行動にも感心しました。これも文化の違いでし

ょうか。

 

 

 

 

 

 

「それで会社も」

さすがに、仕事は真面目にやります。それで会社も文句が言えませ

それで会社も、戻る1

ん。お酒は、かなり飲みます。ある日、ジョニーウォーカーと日本

の、サントリーのオールドと交換して欲しいと、言って来たので交

換しました。彼らは、オールドがうまいと言っていました。彼らは

英語が分かるので、テレビを見ながら飲んでいました。インドには

カースト制度のなごりが残っていて、上流階級の人達は、みんな英

語を話します。発音はインド独特であまり良くありません。それで

も充分に通用します。それと彼らは、家庭でも英語を使うそうです

。日本人だけが、下手な英語で会話していました。この時ほど劣等

感にさいなまれた事は、ありませんでした。大学まで出て英語の会

話が出来ないのは、日本人の特徴です。これからの日本はもっと、

英語の会話教育に、力を入れるべきだと痛感しました。

 

 

 

 

 

 

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