シンタテ物語、文化の薫りは「アメ文」から、戦後開設、伝説の名所

旧県立図書館、金沢歌劇座など多くの文化施設が立地する新竪町地

旧県立図書館、金沢歌劇座

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区。犬も歩けば、ではないけれど、散歩をしているといくつも大き

など多くの文化施設が

な建物を通り過ぎる。さながら「文化の集積地」だ。
立地する新竪町

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地元住民の一人は自慢げに言う。「こんなに大事な施設が集まって

 

いる所は、ほかにないよ。昔はさらに『アメ文』もあったし」。

全くおっしゃる通り・・とうなずいたが、ちょっと待った。「アメ

文」って、何ですか?

 

(1日に1000人)

「アメ文」とは「金沢アメリカ文化センター」の略称である。戦後

間もない1948(昭和23)年に西町に設けられ、50年ごろ現

在の県社会福祉会館の辺りに移転してきた。当初の名称は「スキャ

ップ図書館」で後に改称した。今は跡形もないが、新竪町地区の数

ある文化施設の先駆けと言えるだろう。

「センターではレコードや楽譜の貸し出し」

センターではレコードや楽譜の貸し出し、映画の上映会が開かれた。
映画の上映会が開かれた、戻る1

連合国軍総司令部(GHQ)による政策で全国各地に建てられた施

設の一つで、米国の大衆文化を広めることを目的とした。

 

「2階に大ホールがあって、よくレコードを聴きに行きました。

館長さんはアメリカ人でね」。隣町に住む折橋正一さん(93)

が、当時のセンターのリーフレットを見せながら話す。リーフレッ

トには鑑賞会や英語教室の予定がびっしり掲載されており、しかも

全て参加無料という大盤振る舞い。「戦後ならではの場所やったね

え」と、折橋さんは懐かしそうだ。

 

戦時中、西洋の文化に触れる機会が乏しかった反動で、海外の書籍

や音楽を求める人は金沢でも少なくなかった。センターは千人近く

が利用する日もあったというから、かなりの人気だったと見える。

「近現代史を専門とする金沢星稜大の」

近現代史を専門とする金沢星稜大の本康宏史特任教授は「金沢は知

本康宏史特任教授は、戻る2

識人や学生が多く、需要が高かったはず。空襲がなかったため米国

に対する抵抗感が比較的薄く、受け入れやすかったことも考えられ

る」と指摘する。

 

(現美でイメージ転換)

実は「アメ文」の建物は元々、旧海軍の関連施設である「北陸海軍

館」だった。軍都・金沢を感じさせる場所に、戦勝国である米国の

文化センターが上塗りするように入る。何だか、戦争の残り香が漂

う構図である。

 

しかし、本康特任教授は異なる見方だ。北陸海軍館は終戦直後、石

川の文化復興の口火を切った「第1回現代美術展の会場となった。

「現美が開かれたことで、あの場所に軍都ではなく文化の拠点とし

てのイメージができた」。現美の後に移転してきた「アメ文」は、

その文化の薫りを受け継ぎ、強める存在だったのかもしれない。

 

センターは昭和40年代に閉鎖され、往時を知る人は少ない。しか

し、多くの施設が立ち並ぶ周辺を眺めると、現美、アメ文から続く

文化の歴史が確かに感じられる。

「旧県立図書館、県社会福祉会館を含む」

旧県立図書館、県社会福祉会館を含む一帯は、県が緑地化の検討に

一帯は、県が緑地化の検討に、戻る3

乗り出した。市民に愛された「アメ文」の跡地で、今度はどんな文

化が育まれるのだろう。何にせよ、住民の自慢スポットがまた増え

るに違いない。シンタテ物語、文化の薫りは「アメ文」から、戦後

開設、伝説の名所。確かに金沢は文化と芸術の町である。それに関

係する建物が多いのも事実である。非常にレベルの高いミニオーケ

ストラ。

 

 

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万感「歴史つないだ」、ツール・ド・のと最終日、3日間411キロ走破

北國新聞創刊130年記念「ひゃくまん穀プレゼンツ第35回ツー

北國新聞創刊130年記念

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ル・ド・のと400」(同実行委)は最終日の18日、七尾市から

ひゃくまん穀

金沢市までの138・2キロで行われた。明治時代、北陸で初めて

プレゼンツ第35回

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開催された「自転車大競走」を源流とする伝統の大会で3日間計4

 

11キロを走り抜いた参加者は、ゴールで誇らしげに完走証を掲げ

「歴史をつなぐ一員になれた」と歓喜の輪を広げた。

 

最終日は、3日間走る「チャンピオンコース」などに351人がエ

ントリーした。午前7時半に七尾市を出発し、氷見市や中能登町を

経由してゴールの石川県西部緑地公園を目指した。途中、激しい雨

に見舞われることもあったが、出場者は力強くペダルをこぎ続け、

ゴールすると互いに健闘をたたえた。

「北國新聞朝刊で「人生妙なり」を」

(3度目挑戦一青さん)

「唯一無二の大会」

北國新聞朝刊で「人生妙なり」を連載するエッセイストで俳優の一
連載するエッセイストで俳優の、戻る1

青妙さんは「3日間だからこそ、選手同士や地域との一体感が生ま

れる。ツール・ド・のとは唯一無二の大会」と3度目の挑戦を振り

返った。

 

チャンピオンコースで連続出場を続ける白山市の古川博人さん(6

0)と金沢市出身の北出裕一さん(56)は自転車大競走に起源を

持つ大会を走破したことに「伝統をつなぐ一人になれたのならうれ

しい」と感無量の表情でうなずいた。今年のチャンピオンコース参

加者で最年少となった堀井昂さん(12)=大津市=は日本海の景

色が忘れられないとし「大人になっても走りたい」と笑顔を見せた。

 

最終日は、自転車界の著名人も能登の魅力に触れた。ツール・ド・

フランスなど欧州で30年以上活動してきたサイクリングフォトグ

ラファー・砂田弓弦さん(62)=富山市=は「美しい海岸と昔な

がらの家々が残る能登は絵になるポイントばかりだ」と絶賛した。

「(40)=東京=は沿道の声援が」

全日本シクロクロス選手権マスターズで優勝経験を持つ落合友樹さ

ん(40)=東京=は沿道の声援が印象に残っているとし「これほ
印象に残っているとし、戻る2

どまでに住民の理解を得られる大会は他にない。歴史が長いからこ

そだ」と力を込めた。

 

台湾勢「来年も走る」

海外勢も能登路を満喫した。台湾から初めて参加した周茂麟さん

(49)は「美しい日本海沿いを走ったことは一生の思い出。友

達にも声をかけて来年も参加したい」と話した。「八田技師夫妻

を慕い台湾と友好の会」の徳光重人世話人代表も遠来勢をサポー

トし、完走した。

 

引退の川端さん「最高の3日間」

第1回大会からチャンピオンコースに出場し続け、今大会での引退

決めている川端明さん(75)=内灘町=は、子や孫とともにゴー

ルし、有終の美を飾った。「ツール・ド・のとは生きがい。家族や

仲間に見守られ、最高の3日間になった」と満足そうに話した。

 

川端さんは最終日、1日コースで参加した長男の大介さん(44)

孫の隼介さん(14)、あいりさん(10)とともにゴールを目指

した。県西部緑地公園では引退を知った他の選手に拍手で迎えられ、

「名残惜しい気持ちが込み上げてきたが、引退しても息子たちがい

る。今後はボランティアとして大会を支えたい」と話した。

「あいりさんはおじいちゃんの自転車を」

あいりさんは「おじいちゃんの自転車をこぐ姿がかっこよかった。
こぐ姿がかっこよかった、戻る3

大きくなったら3日間のコースに挑戦したい」と笑顔を見せ、大介

さんは「父のサイクリングへの思いを引き継いでいきたい」と語っ

た。万感「歴史つないだ」、ツール・ド・のと最終日、3日間41

1キロ走破。自転車は楽しくもあり、辛いスポーツでもある。3日

間で411キロを走破するのは、かなりきついことです。観客の応

援で元気をもらって頑張るのでしょうね。それと夜の食と美酒で癒

されて走ることができるのでしょうね。

 

 

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古くても新神田、3代継ぐ「第六ギョーザ」、屋台の魂、守り続け

新神田に住んでいて、気になる店がある。クスリのアオキ御影店近

新神田に住んでいて

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く、大通りから路地に入ってすぐの「第六ギョーザの店」(神田1

気になる店がある

丁目)だ。夜になると、店先の四角く赤い看板に光がともる。

クスリのアオキ御影店

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同じように名前に数字の入ったギョーザの店で、金沢市民の頭に浮

 

かぶのは「第七ギョーザの店」(もりの里1丁目)だろう。駐車場

で大型の観光バスを見かけることもあり、広々とした店内に県内外

の客が入り交じっている。

 

これに対し、「第六」は13席ほどのL字カウンターと小上がり、

団体客用の2階席がある、こぢんまりとした店だ。7日夜、後輩2

人と店を訪ねると、若い男性数人が食事をしていた。平日だったが、

カウンターは自分たちが座って間もなく埋まった。

{お客さんと近い距離で商売をしたい」

(客と近い距離で)

「お客さんと近い距離で商売をしたいというのは、創業当時からの
というのは、創業当時からの、戻る1

思いですね」。3代目の上野雅由さん(54)はこう話す。店は上

野さんと、2代目の父、妹の3人で切り盛りする。

 

上野さんによると、店は1955(昭和30)年ごろに創業した。

「第七」のルーツにもなった金沢のギョーザ店で働いていた祖母

が独立し、簡素な屋台を構えたのが始まりという。

 

創業から変わらないのが「ニンニクなし、ニラ多め」のギョーザ

だ。味付けは秘密。カリッと焼き上がったギョーザは肉汁があふれ、

味はしっかりしているのに、あっさりしている。上野さん考案の

「シソギョーザ」は、シソの風味が食欲をそそり、箸もビールもど

んどん進んだ。

{第六」の特徴は、ギョーザ以外の」

「第六」の特徴は、ギョーザ以外のメニューの豊富さだ。おでんに
メニューの豊富さだ。おでんに、戻る2

クリームコロッケ、刻みネギをはさんだ「厚揚げのサンド焼き」、

刺し身など。上野さんは「昔から居酒屋に近いメニューが多く、屋

台の雰囲気を受け継いでいると思う」と振り返る。

 

(地域に支えられ)

大学卒業後に就職した医薬品卸業の会社を退職し、26歳ごろに店

に入った上野さん。両親の働きぶりや来店客とのふれあいに魅力を

感じ、家業を継ぐことを決意したという。

 

アットホームな雰囲気に常連も多く、店内には、常連客から贈られ

た店の絵が飾られている。学校の集まりでも利用され、中村町小の

児童からは校下の職業人の取材を受けた。上野さんは「地域の人に

支えられている」と感謝を口にした。

{新しい住民も多い新神田・神田」

新しい住民も多い新神田・神田エリアだが、田や畑しかり、店しか
エリアだが、田や畑しかり、戻る3

り、昔から引き継がれる地域の魂もある。古きを大切にし、新しき

を受け入れる。そんな懐深い一面がこの地域にはある。古くても新

神田、3代継ぐ「第六ギョーザ」、屋台の魂、守り続け。「第七ギ

ョーザは食べたことはないが」、「第六ギョーザは食べたことがあ

る。非常においしいギョーザだった」。地域に支えられて常連客が

多いのも店にとってはありがたいことです。

 

 

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日曜特番、レジェンド「もっと人呼べる」、景色、運営、声援を評価

今大会には、「自転車界の長嶋や王」とも称される著名サイクリス

今大会には、自転車界の

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トたちが集った。風光明媚な能登の風景や沿道の声援、豊かな食な

長嶋や王とも称される

どを楽しみ、「国内外からもっと人を呼び込める大会だ」と口をそ
著名サイクリスト

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ろえた。

「大石一夫さん(62)=長野県安曇野市=は

大石一夫さん(62)=長野県安曇野市=は世界選手権やアジア大
世界選手権やアジア、戻る1

会で日本に選ばれ、1990年には国際サイクルロードレースで総

合優勝に耀き、「レジェンド」と呼ばれる存在。1日で終わること

が多い他のイベントと比べて、ツール・ド・のとの3日間は充実感

があるとし、「小学生から高齢者まで幅広い層が参加でき、3日間

も風景と食を堪能できる」と語った。

「三浦恭資さん(62)大阪府河内長野市は」

三浦恭資さん(62)大阪府河内長野市は、ソウル五輪でロードレ
ソウル五輪でロード、戻る2

ース代表、アトランタ五輪マウンテンバイククロスカントリー代表

と種目を選ばぬ活躍から「キング」の愛称で知られる。「道沿いで

手を振ってくれる姿に感動した」と温かな住民の歓迎が印象に残っ

たという。タイムを競うのではなく、参加者同士が互いに風よけと

なるなど助け合って完走を目指すことも「最高の贅沢」とした。

「1997年ジャパンカップで優勝し」

1997年ジャパンカップで優勝し、シドニー五輪でロードレース
シドニー五輪でロードレース、戻る3

日本代表に選ばれた阿部良之さん(54)=大阪府和泉市=は、日

本海や昔ながらの街並みを楽しめるコース設定やチェックポイント

の充実した振る舞いなどを特徴に挙げ、「スピードを競わないこと

で間口が広い。自転車競技を始めたばかりの愛好者にうってつけの

大会だ」と力を込めた。日曜特番、レジェンド「もっと人呼べる」

景色、運営、声援を評価。タイムを競うのではなく完走を目標に

している大会である。「小学生から高齢者まで幅広い層が参加で

き、3日間も風景と食を堪能できる」。他のイベントは普通1日

で終わることが多い。ツール・ドのとの3日間は充実感がある。

 

 

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熱い沿道「能登は格別」、三大老舗レースの一つ、参加者に熱い声援を送る地域住民

きらびやかな銀輪の列に、沿道から大きな声援が送られた。16日

きらびやかな銀輪の列に

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に開幕したツール・ド・のと400。全国各地に自転車大会はあれ

沿道から大きな

ど、愛好者の多くは「能登は格別。やみつきになる」と口をそろえ
声援が送られた。16日

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る。人気の理由は何か。サイクリストに同行し、能登の海岸線を進

 

むと、明治期の「北國新聞社自転車大競走」に通じる沿道の熱気が

あった。

 

午前7時前、スタート地点の金沢市の県西部緑地公園には全国約5

70人が集まり、今か今かと号砲を待っていた。常連も多く、選手

同士の絆は深い。出発前からお祭りムードが漂う。

「頑張って いってらっしゃい」

沿道も楽しげだった。

「頑張って」「いってらっしゃい」。能登らしい黒い瓦屋根が続く
能登らしい黒い瓦屋根が続く、戻る1

住宅前で、孫をだきかかえた高齢者がにこやかに声を掛けていた。

黄金色の稲穂が揺れる田んぼでは老夫婦が手を止めて、笑顔を向け

た。道ばたでビールケースに座って観戦する人も。この日を楽しみ

にしていたようだ。

 

ひときわ大きな歓声が飛んでいたのは、輪島市門前町の曹洞宗大本

山總持寺祖院に近い總持寺通り商店街。初日のコースで最も難所と

言われる海抜200メートルを超える円山峠にさしかかる直前だ。

 

旗を手にした地元住民が集まって、「ほら、もうちょっとで輪島や

ぞ」と全てのランナーに笑顔で声を掛ける。陶器店を営む澤田由紀

子さん(74)は、「ちっちゃい子どもが一生懸命こいどる姿をみ

とるだけで、涙出てくる。人がくるだけでうれしくなる」と道路に

飛び出んばかりの勢いで両手に持った旗を振っていた。

昨年に続いて参加した大阪府和泉市の辻川登志子さん(61)は

「沿道の笑顔と声で力が湧いた。今年の目標は全ての声援に笑顔で

応えることです」とほほ笑んだ。

「ツール・ド・のと」はタイムを競う」

「ツール・ド・のと」はタイムを競う賞金レースとは違う。起伏に
賞金レースとは違う。起伏に、戻る2

富んだ能登の景観美、地元の温かなサポートが名物だ。国内の自転

車レースは、北海道、沖縄、そして能登が三大老舗レースと言われ

るそうだ。「のと」が35回の歴史を重ねたのは、選手の奮闘に地

域が応え、もてなしの輪を広げてきたからだろう。

 

1906(明治39)年、北國新聞社が主催した「自転車大競走」

は、長距離ロードレースとして北陸で初めて行われ、大盛り上がり

となった。当時の北國新聞には、選手が黒山の人だかりをかきわけ

て尾山神社前を出発したとの記事が載る。レースは参加する人、見

守る人の心に火を付ける。それは令和の今も変わらない。

「1日目を無事に走りきった選手たちは夜」

1日目を無事に走りきった選手たちは夜、能登のおいしい料理と美
能登のおいしい料理と、戻る3

酒で疲れを癒やした。鋭気を養い、最終日まで能登一周を走りきる。

117年前に負けないドラマがまだまだ繰り広げられそうだ。熱い

沿道「能登は格別」、三大老舗レースの一つ、参加者に熱い声援を

送る地域住民。この自転車大競走はタイムを競う賞金レースとは違

う。選手の頑張りと観客の応援と、もてなしが目的のようです。選

手と見守る人が互いに励まし合いレースが成立するようですね。素

晴らしいことだと思います。

 

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ひみつの花園、民謡生んだふるさと愛、4年ぶりに踊りの輪、台湾でも披露

「ハイなハイな花園めぐりでございみす」。この名調子で始まる創

ハイなハイな花園

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作民謡「花園めぐり」。新型コロナが5類に移行された5月、花園

めぐりでございみす。

小の運動会では、地元住民も交え、4年ぶりに踊りの輪が広がった。
この名調子で始まる

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歌詞は9題目まであり、北國街道と河原市用水を導線に、この連載

 

でも取り上げた「花どころ」月影の山に始まり、波自加彌神社、獅

子舞も登場する。利屋町の町名由来や、団地の造成まで、花園地区

の隅々までが網羅されている。

 

 

花園小では4年生が「花園めぐり」を地元を知る学習に役立ててい

る。河原市用水にまつわる白い狐の伝説を調べた小林深想さんは

「地元のことだけど、歌詞を通じて初めて知って、実際に見に行っ

てみた。地域のいろんなことを知れてうれしい」と話す。

「地元住民に愛される民謡誕生のひみつ」

(木造の校舎から)

地元住民に愛される民謡誕生の「ひみつ」が知りたいと花園公民館
が知りたいと花園公民館、戻る1

を訪ねると、「実は、作ったのは私です」と西川廣館長(71)=

二日市町=が遠慮がちに手を上げる。灯台下暗しとは、このことだ。

 

「地元の盆踊り曲がほしい」という声が持ち上がったのは1998

年ごろ。会合で「素人にできるわけがない」と猛反対した西川さん

に、なぜか作詞、作曲のお鉢が回ってきた。

 

当時、公民館創立50周年記念誌「花園に生きる」の校正を担当し

たばかりの西川さんは、地元の事情に詳しくなっていた。「創作の

ネタには困らないかも」と引き受けたものの、1題目が一向に浮か

ばない。「これが素人の悲しさです。ほらみたことかと」

「無為に時が流れる中、パラパラと」

無為に時が流れる中、パラパラとめくっていた本の、ある短歌をき
めくっていた本の、ある短歌を、戻る2

っかけに突然、歌詞が降りてきた。「深山木のその梢とも見えざり

し桜は花にあらはれにけり」(源頼政)。「小学生の頃、木造校舎

の窓から見えた山に、春になると花が咲く。そんな光景がぱーっと

浮かんだ」。1時間ほどで歌詞は完成した。

 

短歌が好きで、現在は県歌人協会副会長を務める西川さんらしい

「陣痛」の秘話である。ピアノの黒鍵で作った曲をアカペラでテ

ープに入れ、音楽の先生に採譜してもらった。

 

(台湾でも披露)

囃子や三味線、振り付けも地元住民が担った。「素人集団」によ

る民謡が2002年、地元の夏祭りで産声を上げた。その後、花

園生まれの八田與一技師の縁で、台湾の墓前祭の冒頭でも披露し

た。留学生が金沢に集う「JAPAN TENT」でも踊られ、友好の

輪も広がっている。

 

地元では、民謡誕生の陰の立役者である記念誌「花園に生きる」

について、二十数年ぶりに続編を作る動きもあるという。

「西川さんは民謡がお披露目された」

西川さんは民謡がお披露目された日の感慨を一首にしている。
日の感慨を一首にしている、戻る3

「つたなきもふるさと愛でつつ創りたる盆踊り唄の今宵初舞台」。

ふるさと愛にあふれた話を聞いたところで、連載の「花園めぐり」

も終盤に。西川さんの姉にして、花園が生んだスターにご登場いた

だこう。ひみつの花園、民謡が生んだふるさと愛、4年ぶりに踊り

の輪、台湾でも披露。西川さんを中心に素人集団でこの盆踊り用の

民謡を作ったというのは素晴らしいことです。もう一つは花園生ま

れの八田技師が昔、台湾にダムを作ってこのおかげで農業が発展し

ました。台湾の発展は八田技師と共にあったと言っても過言ではあ

りません。台湾の人々は今でも八田技師を尊敬しているそうです。

東京帝国大学出身の立派な人でした。毎年慰問団が台湾を訪問して

います。

 

 

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