日本海側からのSOS、なりわい再建、「仕事がない」海女の嘆き。

「輪島朝市」が金沢市金石地区で出張開催の形で再開した23日、

輪島朝市が金沢市金石地区で

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朝市通りの焼け跡から鳳至川を渡ってほど近くに住む60代の海女

「出張開催の形で」

を訪ねた。
「再開した23日」

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「朝市、きょうからやね。ちょっとずつ前へ進むのは、良いことや

 

なあと思う」

 

2007年の地震の後に立て直した女性の自宅は、今回は無事だっ

た。だが網や漁具をしまう隣の仕事場は大きな被害を受け、取り壊

す予定という。

 

漁再開の見通しを尋ねると、女性の表情が曇った。「肝心かなめの

船が動かんことには、どうしょうもない」。地殻変動で輪島港の海

底が隆起した。港内に停泊した漁船約200隻は、底がつかえた船

もあり、動かせないままだ。

「現在、ダイバーが漁船の船底を調査し」
現在、ダイバーが漁船の船底を調査し

現在、ダイバーが漁船の船底を調査し、損傷具合を確かめている。
損傷具合を確かめている、戻る1

その後、つかえた船を移動させれば、港内を浚渫して水深を確保す

る作業が進んでいく。

 

漁再開への道は少しずつ、動きだしている。だが女性はため息をつ

き、自嘲気味に笑った。

 

「仕事がない。プー太郎や。体がなまって、太ってきた」

 

漁師の夫は震災後、災害ごみの回収や仕分けのアルバイトをしてい

る。だが女性向けのアルバイトは、被災した輪島にはほとんどない

という。

「島も手つかずやしね。島とは」
島も手つかずやしね。島とは

「島」も手つかず

「島も手つかずやしね」。島とは、漁場である輪島沖の舳倉島、七
漁場である輪島沖の舳倉島、戻る2

ツ島のことだ。舳倉の港は津波で被害を受けたようだが、現地の詳

しい状況は分からない。

 

7~9月の素潜りの漁期以外も女性は夫とともに漁をしてきた。海

でなりわいを立て、子どもを育て、家を建てた。

 

「それしかないし、とにかく、早く海へ入れるように・それ以外何

も望まん」

 

再開に向けたさまざまな動きに触れると、「7月に潜れるかも」と

の思いが芽生えてくる。一方で家から一歩外へ出ると、元日と変わ

らない倒壊家屋が目に入り、「やっぱり無理かも」と気が滅入る。

そんな日々だ。

「1日でも早く漁再開のめどが示されること」
1日でも早く漁再開のめどが示されること

一日でも早く漁再開のめどが示されること。それが海をなりわいと
それが海をなりわいと、戻る3

する人々の希望を生む。日本海側からのSOS、なりわい再建、「仕

事がない」海女の嘆き。

 

 

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和気あいあいのワケ、農家民宿、主は元救命士、自然に魅せられ出店。

能美市和気地区の谷あいに位置する鍋谷町。のどかな田園地帯で、

能美市和気地区の

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空き家となった築111年の古民家が農家民宿に生まれ変わると

 
「谷あいに位置する鍋谷町。」

聞き、訪ねた。宿の主は同市消防本部の元救急救命士という異色
「のどかな田園地帯で」

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のキャリアを持つ田中雅也さん(40)=和光台=と妻の美穂さ

 

ん(48)だ。

 

5月30日、田中さん夫妻が交流サイト(SNS)を通じて集まっ

た友人とともに汗を流していた。木造2階建ての室内で土壁を壊

し、新たに壁を塗ったり床板を貼ったりとDIY(日曜大工)で改

装中。田中さんは「古民家の雰囲気を生かし、愛着の持てる場所

にしたい」と話す。

 
「田中さんはもともと和気地区の」
田中さんはもともと和気地区の

(21年間勤め退職)

田中さんはもともと和気地区の仏大寺町出身。「自分の店を持ちた
仏大寺町出身。自分の店を、戻る1

いという夢をかなえるためのチャレンジがしたかった」と昨年2

月、21年間勤めた消防職員を退職した。

 

昨年4月に美穂さんの実家がある金沢市山科地区で、国内産の豆乳

を使ったソフトクリーム店「クラフトソイソフトクリーム5」を開

設。さらに、ふるさとを盛り上げようと農家民宿ができる物件を探

し、鍋谷町の神社前にあった古民家を購入した。

 

オープンすれば、和気地区では初の農家民宿となる。1日1組限定

で受け入れる宿泊スペースと喫茶を設け、2026年秋の開業を目

指しているそうだ。2階は田中さんの住まいとして使って、金沢の

店を切り盛りしながら、農業や九谷焼などの体験が楽しめるように

する計画だという。「コンセプトは『質素なぜいたく』。感動して

もらえるメニューを提供したい」と期待は膨らむ。

 
「和気地区の最も山あいに位置する」
和気地区の最も山あいに位置する

(ウーロン茶専門店も)

和気地区の最も山あいに位置する坪野町でも近年、移住者が増えて
「坪野町でも近年、移住者が増えて、戻る2

いる。台湾ウーロン茶専門店「茶楽」を営む群馬県出身の小菅康雄

さん(66)もその1人。都内の会社を退職後の18年4月、小松

市出身の羽岡美由紀さん(56)と古民家を手に入れて開業した。

 

風味が異なる12種類のウーロン茶が売りで、小菅さんはおいしく

飲んでもらえるよう独学で研究した。築110年の落ち着いた雰囲

気の店内では利用客が手作りスイーツなどに舌鼓を打ち、何気ない

会話を楽しむ。住居を兼ねた店は地元の交流サロンとして親しま

れ、野菜の育て方を教え合うこともあるなど、まさに井戸端会議の

ようだ。地区外からの来店者が豊かな自然に魅せられ、実際に空き

家に移り住んだケースもある。坪野町では5月現在、全21世帯の

うち5世帯が外からやってきた人たちだ。

 
「鍋谷しかり、坪野しかり、和気に」
鍋谷しかり、坪野しかり、和気に

鍋谷しかり、坪野しかり、和気に転居してきた人たちの表情は生き
転居してきた人たちの表情は、戻る3

生きとしているように見える。「小川が流れ、夜は満点の星。この

場所の魅力をいろんな人に伝えたい」と小菅さん。民宿、ウーロン

茶をきっかけに、足を運ぶ人が増えれば、この地を気に入ってくれ

る人も多くなるだろう。移住者たちの取り組みが、そうした好循環

をもたらしてくれそうな気がした。和気あいあいのワケ、農家民

宿、主は元救命士、自然に魅せられ出店。最近は田舎に移住する人

が増えているような気がする。それも築100年を超える古民家を

購入している。

 

 

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北国大花火川北大会、大水害90年復興へ願い重ね、光の大輪2万発競演。

第39回川北まつりのフィナーレを飾る北国大花火大会は3日、川
第39回まつりの>

第39回まつりの

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北町の手取川簡易グランドで行われ、北陸最大級の約2万発が真夏

フィナーレを飾る

の夜空を華麗に染めた。今年は手取川大水害の発生から90年の節
北国大花火川北大会は3日

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目となり、町民は光の大輪にふるさとの復興に尽くした先人への感

 

謝と、能登半島地震の被災地復興へ願いを重ねた。

 

大会は午後8時15分、太鼓の乱打に合わせて4195発のスター

マインで幕を開けた。全国の花火師の創作性あふれる北国芸術花火

などの多彩な花火が披露され、約12万人の観衆が手取川上空を焦

がす音と光のショーに酔いしれた。

「会場には町内に身を寄せる」
会場には町内に身を寄せる

会場には町内に身を寄せる被災者約20人が招かれ、被災地にエー
被災者約20人が招かれ、被災地に、戻る1

ルを送る「祈りの鎮魂花」では10号玉の「椰子菊先変化」やツイ

ンスターマインが柔らかな光の輪を描き続けた。珠洲市蛸島町から

家族で避難している多原美佐子さん(58)はこの日が誕生日の前

日に当たり「こんな感動する花火は見たことない。元気をもらえ

た」と感激した様子だった。

 

フィナーレでは個人協賛を募った2660発の「川北爛漫」、66

63発の「かがやき溢れる未来へ」が披露され、カラフルな光のシ

ャワーが夜空をキャンバスに色彩美を広げた。

 

「川北が誇れるイベント。開催を待ちわびていた」と話すのは川北

町草深の佐野隆雄さん(74)。協賛者席「大かがり火席」を確保

した白山市福留南の岡山真也さん(44)と長女こはくさん(10)

は「今まで見た中で一番きれい」「夏休みの宿題の日記に書きたい」

と声を弾ませた。

「レクサス金沢御影(金沢市)が」
レクサス金沢御影(金沢市)が

レクサス金沢御影(金沢市)が能登の食材を使った料理を楽しむオ
能登の食材を使った料理を楽しむ、戻る2

ーナー向けの催しを企画。150人が同市木倉町の料理店「CRA

FEAT(クラフィート)」が提供した七尾産サザエを使ったライス

コロッケやいしる唐揚げに舌鼓を打ち、華やかな2万発のショーを

楽しんだ。

 

花火に先立ち、川北まつりのメイン行事「音と光の祭典」が行われ

太鼓演奏やかがり火踊りが繰り広げられた。町民が地区ごとに送り

火を掲げて入場し、高さ約約40メートルの大かがり火に点火され

90年前の大水害の犠牲者の霊を慰めた。

「花火大会の模様は金沢ケーブルと」
花火大会の模様は金沢ケーブルと

花火大会の模様は金沢ケーブルとエフエム石川が生中継した。北国
エフエム石川が生中継した、戻る3

大花火川北大会、大水害90年復興へ願いを重ね、光の大輪2万発

競演。2万発の花火は北陸最大級。

 

 

 

 

 

 

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和気あいあいのワケ、こだわりの「大ばかユズ」、無農薬、香りが命。

能美市和気町の雑木林に囲まれた細い坂道を上ると、ユズ畑が目に

能美市和気町の雑木林に

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飛び込んできた。この地区で栽培が盛んな市特産「国造ゆず」であ

段々畑に整備

る。段々畑に整備されたユズ団地では、生産者が農薬に頼らない栽
されたユズ団地では

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培を徹底しており、近年、ブランド価値が高まっている。

 

ユズ団地の入り口は鎖で閉ざされ、管理の厳重さが伝わる。まるで

門外不出のお宝を守っているかのようだ。地元住民ですら場所を知

らない人が多いという。

 

5月31日、現地を尋ねると、国造柚子生産組合の組合長の塚田良

三さん(87)と長男の義春さん(65)がユズの苗木の生育状況

を確かめ、手入れに励んでいた。

 

(庭先に植える)

「ユズは香りと果汁が命。無農薬・有機栽培は絶対に譲れん」。塚

田さん親子は口をそろえる。除草剤を一切使わず、肥料には米ぬか

や牛や鶏などのふんを使用。栽培管理の工程には生産者のこだわり

が詰まっている。

「和気地区にはもともと、家々の庭先に」
和気地区にはもともと、家々の庭先に

和気地区にはもともと、家々の庭先にユズを植える習慣があった。
ユズを植える習慣があった、戻る1

1985(昭和60)年、地域おこしの一環で2・5ヘクタールの

農地を切り開いて団地を造成した。この時、苗木1千本が植えられ

たのがきっかけで、特産化を目指して本格的な栽培が始まった。現

在は十数人の生産者が「木頭」「多田綿」の2品種を育てている。

 

高さ約3~4メートルに育つユズの木を近くで見ると、枝全体から

長さ数センチの太いとげが無数に突き出していた。とげを避けなが

らの小まめな剪定や、周辺の草刈りには手間がかかり、収量も年に

よってばらつきがある。実りの難しさを指して「ユズの大ばか18

年」と言われるのはこのためだ。

 

そんなユズを、40年近くにわたり、農薬に頼らず栽培してきた生

産者の熱意は並大抵でない。「味良し、香り良しの安全安心なユズ

を届けたい」と塚田さん。世話は大変だが、苦労した分、収穫の喜

びはひとしおに違いない。

 

(多彩な新商品)

昨年10月には生産組合の加工場が和気町に完成した。有名菓子店

や旅館など70超の取引先に加工用のユズの果汁や皮を供給する。

ゆずみつやマーマレード、ハンドクリームなどの新商品開発を通じ

て用途は広がっており、ファンも着実に増えてきた。

「国造ゆずは能美が誇る地域資源の」
国造ゆずは能美が誇る地域資源の

国造ゆずは能美が誇る地域資源の一つだが、近年は生産者の高齢化
一つだが、近年は生産者の高齢化、戻る2

に伴って管理できない木も出てきたそうだ。そうした中、生産者は

地元の和気小児童らと協力して団地での苗木植樹に取り組む。地域

挙げての地道な放棄地再生の取り組みは頼もしい限りだ。

 

毎年11月に開かれるゆずまつりでは、生産者が和気あいあいとし

た雰囲気の中、来場者との掛け合いを楽しみながらユズを販売す

る。

 

団地の0・4ヘクタールで栽培に励む「柚芽実会」世話人の小坂

功機さん(79)は「リピーターが増え、直売してもすぐに売り

切れることもある。さまざまな機会に国造ゆずの魅力を発信した

い」と力を込めた。

「収穫期を迎える9月下旬~」
収穫期を迎える9月下旬~

収穫期を迎える9月下旬~12月上旬になると、ユズ団地はたわ
12月上旬になると、ユズ団地は、戻る3
わに実ったユズ畑は和気に暮らす人たちをつなぎ、絆を育む交流

の場としても大きな成果を実らせてくれることだろう。

 

 

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中能登は消滅しない、撤退防いだ「石動山パワー」、商業施設に分霊社。

中能登町の人口減抑制の一因とされる商業施設「アル・プラザ鹿

中能登町の人口減抑制

中能登町の人口減抑制の

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島」には、敷地の一角にぽつんと小さな神社が建てられている。

一因とされる

店舗裏側にある駐車場のさらに奥にあるため、気付かない買い物
商業施設アル・プラザ

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客も多い。

 

 

(創業者の名が刻まれ)

「伊須流妓神社」と名付けられたこの神社は、中能登町の国史跡

「石動山」にある「伊須流妓比古神社」の分霊社である。

各地のアル・プラザで勤務経験がある店長の田中重人さん(50)

は「神社があるなんて、全国でも珍しいですよ」と誇らしげだ。

 

鳥居に近づいて柱をよく見ると、名前が刻まれている。「夏原平次

郎」。アル・プラザ鹿島を運営する平和堂の創業者であり、神社の

建立にはこんなエピソードがある。

「開業の3年前、平和堂が出店を決めあぐねて」
開業の3年前、平和堂が出店を決めあぐねて

開業の3年前、平和堂が出店を決めあぐねていた頃の話。地元のか
いた頃の話。地元の、戻る1

しま商業開発協同組合との会合の場では、平和堂側から「断念」を

におわす言葉も漏れ、地元の悲願だった計画は暗礁に乗り上げそう

になっていた。

 

どうにか望みをつなごうと危機感を持った組合側の1人が、ある日

の話し合いで唐突に石動山の話題を切り出したという。「鹿島には

石動山という古代から山岳信仰の拠点とされた霊山があります」。

石動山が住民に親しまれ、歴史や文化を育んできたと熱弁したの

だ。

 

すると、信仰心があつかった夏原氏は強い関心を示し、出店を決

め、分霊社の建立まで一気に進んだ。「石動山パワー」が平和堂

の撤退を翻意させ、縁を結ぶ形となった。

「そんな経緯があったからか」
そんな経緯があったからか

そんな経緯があったからか、神社は現在も商売繫盛の守り神とし
神社は現在も商売繫盛の守り神と、戻る2

て従業員が定期的に清掃するなど大切に扱われている。建立後に

地元の熊野神社が合祀され、祭りの際には獅子舞いが披露された

り、交通安全の出発式が行われたりしたこともあり、地域に根ざ

した神社となった。田中さんも営業前に神社に立ち寄り、従業員

の安全を願うのが日課になっているそうだ。

 

(大きなけが人なし)

元日の地震では、アル・プラザ鹿島の施設内も天井が落ち、壁に

はひびが入るなど被害が出た。商品は散乱、2階の衣料品コーナ

ーなどは今も営業できず、立ち入り禁止となっている。

 

ただ、元日の営業前に神社でおはらいするのが毎年の恒例で、そ

のかいあってか、店内には多くの人がいたものの、幸いにして大

きなけがを負った人はいなかった。田中さんは「神社が守ってく

れたのかもしれない。できるだけ早く店を完全復旧させたい」と

意気込む。

「店長への取材を終えて駐車場に」
店長への取材を終えて駐車場に

店長への取材を終えて駐車場に向かうと、買い物帰りの男性が神
向かうと、買い物帰りの男性が、戻る3

社で参拝していた。尋ねると「神社を見つけたら、何となく手を

会わせたくなる」とのこと。この男性に限らず、発展を遂げたア

ルプラ一帯のように、商売繫盛を願って訪れる人は少なくないら

しい。

 

中能登町は近隣市町に比べて地震の被害が小さく、宮下為幸町長

も「災害に強い町だと証明された」と胸を張る。アルプラの分霊

社からはちょうど、石動山を仰ぎ見ることができる。この社が出

店撤退も地震被害も防いだのかもしれないと感謝しながら手を合

わせると、確かに大きな力に守られているような気分になった。

 

 

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「銀嶺のかなた」紀行、津幡城跡(津幡町)、男の本音がぶつかり合う。

前田利家は佐々成政と共に信長の母衣衆として、武功を競った。利
「前田利家は佐々成政と共に」

前田利家は佐々成政と共に

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家45歳の時、成政は信長から越中を任された。当時、越前府中に

信長の母衣衆として、

いる利家より、10倍以上の所領である。ライバルの出世に、利家

武功を競った。

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は歯ぎしりしたに違いない。

 

 

成政に対して、利家には苦々しい思いがある。23歳の時、信長の

同胞衆の拾阿弥に刀の笄を盗まれて斬った。拾阿弥をかばったのが

成政だったのだ。

 

若い頃の利家は美少年。信長寵愛の小姓で、「かぶき者」だった。

実直な人柄の成政は、派手にふるまう利家を、どう思っていたのだ

ろうか。

「お前も頭を下げろ」

 

賤ヶ岳の戦で秀吉方についたことで、利家は金沢城に入城した。

「銀嶺のかなた」では、その日のうちに利家は、津幡城にいる成政

のもとへ会いに行く。

「秀吉さまが到着される前に金沢城へ来てくれ。戦に負けた。お前

も頭を下げろ」

 

津幡城の茶室で、利家は成政に忠告した。しかし成政は「越中一国

は信長さまから拝領したもの」と突っぱねた。

「そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと」
そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと

そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと約束して、ふたりは酒を酌み

約束して、ふたりは酒を、戻る1

交わす。

「わしは親父さまを救うことができなかった。無銭に負け、おめお

めと敵の軍門に下った。

 

弱音を吐く利家に、成政は勝負しようと立ち上がった。「悔しい

か。性根を叩き直してやる」

 

相撲である。五番目に組み合ったとき「又左、何ゆえ我らが藤吉

郎に従わねばならぬ」

 

成政の声が泣いていた。

 

数々の戦いで生き残った精鋭ふたりが相撲を取る場面は、男のプ

ライドと本音がぶつかり合う、心憎い場面である。

 

信長、勝家の非業の死に、命のはかなさと、世の無常を感じなが

ら、狡猾な秀吉に降伏するしなかった利家の無念は察するにあま

りある。だからこそ、男泣きする成政の心を理解できるのだ。利

家こそ泣きたかっただろう。

「今回の紀行で、津幡城ってあったの?」
今回の紀行で、津幡城ってあったの?

(わずか2年で廃城)

今回の紀行で、津幡城ってあったの?と無知な私は初めて知っ
と無知な私は初めて、戻る2

た。金沢城から北東におよそ4里。目前に立ちはだかる坂を上

った高台である。

 

津幡小学校の旧校舎があった地で、城の遺跡はないという。敷

地の隅の小高い場所に上がると、津幡城址の碑が、枯れ草を背

にひっそりと立っていた。

 

標高15メートルの崖上から、津幡の街が見渡せた。なるほど、能

登、越中、加賀への街道が交差する場所で、好立地である。

源平合戦では平家軍が、七尾城攻略のため上杉謙信が、ここに陣を

敷いたのもうなずける。

 

成政は、賤ヶ岳の戦に加勢しようと兵を進めたが、北庄城が早々に

落ちたと知った。そこで津幡城で様子をうかがっていたのだ。

「利家が加賀、能登、越中を支配する」
利家が加賀、能登、越中を支配する

利家が加賀、能登、越中を支配するようになると、軍事的拠点は必
ようになると、軍事的拠点は、戻る3

要ない。名だたる武将が拠点にした津幡の城は、わずか2年で廃

城。戦国の世は去り、津幡は宿場町となった。「銀嶺のかなた」紀

行、津幡城跡(津幡町)、男の本音がぶつかり合う。現在の津幡は

大きな住宅街が立ち並びデパートや商店街も多く出来た。商業が発

展した。それも大きな建物が多く完全に商業地に生まれ変わった。

昔の面影はほとんどない。

 

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