届いた「日常」、雪が降りしきる中、北國新聞を届ける油谷さん。

北國新聞販売は24日、穴水町の諸橋地区で、北國新聞朝刊の個別

北國新聞販売は24日

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配達を再開した。能登半島地震で深刻な被害を受けた奥能登での再

穴水町の諸橋地区で、

開は初めて。紙面では復旧の状況や生活に必要な情報をきめ細かく

北國新聞朝刊の

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伝えており、配達スタッフ、新聞を受け取った読者は、日常の暮ら

 

しが少しずつ戻ってきていることを喜んだ。

 

(北國新聞販売・穴水・諸橋地区)

この日、個別配達されたのは、穴水町宇加川、沖波、竹太、花園、

古君、前波、明千寺の各集落。地震前には約350世帯が暮らし

ていた地域で、北國新聞販売は3日から避難所となっている諸橋

公民館に新聞を届けていた。

「自宅で暮らす住民が比較的多く」

自宅で暮らす住民が比較的多く、配達スタッフが確保できたため、
配達スタッフが確保できた、戻る1

個別配達に向けた準備を進めてきた。道路状況など安全面を考慮

し、配達時間は地震前より遅くなる可能性がある。

 

24日午前5時、北國新聞販売諸橋販売所スタッフの油谷貴尚さ

ん(48)が自宅がある古君集落で配達を始めた。雪が降り続く

中、亀裂が入り凍結した路面に注意を払いながら、車を運転した

り、歩いたりして約2時間かけて配った。

「油谷さんは地震で崩れた家も」

油谷さんは「地震で崩れた家もあったが、新聞を喜んで受け取っ
あったが、新聞を喜んで、戻る2

てくれる人がいてほっとした」と感慨深そうに話した。下出大祐

所長(45)も「新聞を購読者宅に届け、地震前の生活を取り戻

す一助になりたい」と語った。

 

住民は朝刊を手に取り、珠洲で進む仮設住宅の建設や輪島港の傾

いた漁船などの記事と写真に見入った。姫埼實さん(74)は「朝

に北國新聞が届くという、当たり前がこんなにありがたいと思わな

かった。地震で苦しい生活をしている能登の人々の思いを共有し、

一緒に頑張りたい」と紙面に目を通した。

「地震発生後、北國新聞は建物損壊や」

地震発生後、北國新聞は建物損壊や道路状況の悪化などを考慮し、
道路状況の悪化などを考慮し、戻る3

奥能登2市2町での個別での配達を見合わせてきた。諸橋地区を

皮切りに、準備が整った地区から順次再開する。届いた「日常」、

奥能登で個別配達再開、雪が降りしきる中、北國新聞を届ける油

谷さん。本当に新聞の朝刊が届くのが当たり前のことだと思って

いた。実は誰かが届けてくれたのだ。感謝しかないです。

 

 

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郵便業務も再開3週間遅れの年賀状、安否不明者から便り、命の恩人からの年賀状が届いた。

能登半島地震で業務を休止していた奥能登の郵便局で24日、窓口

能登半島地震で

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での郵便物や小包の引き渡しが再開された。被災した住民が約3週

業務を休止していた

間遅れで年賀状を受け取り、「地震で正月どころではなかったが、
奥能登の郵便局で24日

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こうして届くとやっぱりうれしい」と目を細めた。中には安否不明

 

のままの知り合いからの1枚を手にした男性も。「どうしてこんな

ことになったのか」と元日を襲った揺れに恨み節を漏らした。

 

輪島市河井町のすし店店主松野克樹さん(57)はこの日、避難生

活を送る輪島中で1枚の年賀状を見詰めていた。送り主は朝市通り

で金物や建材を扱う店を営む畠中雅樹さん(62)=河井町。母親

の三千代さん(86)とともに安否不明リストに名前が掲載してい

る。

「松野さんの妻久美さん(52)が」

松野さんの妻久美さん(52)が輸島郵便局で受け取ってきた郵便
輪島郵便局で受け取ってきた、戻る1

物の中に畠中さんからの年賀状があった。近所の店同士、青年会議

所時代からの仲。年下ながら「はたちゃん」と呼んで一緒にボーイ

スカウトの世話などに励んだ。

 

畠中さんからの年賀状には紅白の梅があしらわれ、いつものように

「皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます」とのメッセージが

添えられていた。

 

松野さんは「惨状を見たら、悲しさが込み上げてくるから、なるべ

く朝市通りには近づかないようにしていた。年賀状を手にすると、

どうしても元気だった姿を思い出してしまう」と涙ぐんだ。

「24日に郵便物の受け取りが」

(珠洲には十数人が列)

24日に郵便物の受け取りが再開されたのは、珠洲のほか、輪島
再開されたのは、珠洲のほか、戻る2

市の輪島、門前、穴水町の穴水、能登町の能都(宇出津港いさや

か広場)、松波、柳田の各郵便局。運転免許証や保険証などが必

要で、穴水は前日までにコールセンターに連絡するよう求めてい

る。自宅などへの配達は引き続き休止する。

 

珠洲郵便局では、午前9時の営業開始前から十数人が列をつくっ

た。

 

珠洲市上戸町北方の女性(71)は「命の恩人」と呼ぶ人からの

年賀状を受け取った。15年ほど前に乳がんを治療した際の担当

医で、震災後に連絡は取っておらず「先生には『これからも頑張

りますよ』と思いを伝えたい」と話した。

 

能登町の能都郵便局は隣接する崖の土砂が崩落した影響で局舎が

使えず、トラックを改造した「車両型郵便局」を宇出津港いやさ

か広場を臨時窓口とした。

「同町本木の中原映子さん(64)は」

同町本木の中原映子さん(64)は「本来届くべき郵便物も手元
本来届くべき郵便物も、戻る3

にそろって日常生活が戻ってきたような気がする」と語った。郵

便業務も再開3週間遅れの年賀状、安否不明者から便り、命の恩

人からの年賀状が届いた。安否不明者から年賀状の便りが届いた。

「惨状を見たら、悲しさが込み上げてくるという。年賀状を手に

すると、どうしても元気だった姿を思い出してしまう」と涙ぐん

だ。

 

 

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金石は磨いてなんぼ、「元日新聞」記者は壮年会、令和につなぎ61号

年に一度、元日に金石地区にだけ届く新聞がある。取材中に、金石

年に一度、元日に金石地区に

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に住んでいなければお目にかかれぬ「幻の新聞」の情報を求め、金

だけ届く新聞がある。

取材中に、金石

集まっていたのは、金石町壮年会広報部のメンバー。紙面が印刷さ

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れた8ページ分のゲラ(校正刷り)を前に「クロスワードの問題は

 

難しすぎんかな」「これくらいなら解きがいがあるよ」などと意見

を交わしていた。

 

越田大地会長(45)を交え、印刷前の最終チェックに余念がない。

ゲラには赤入れが随所にある。「絶対に間違えられんよ」。ゲラを

凝視する「記者」たちの姿に、自分たちの日々の作業が重なって共

感する。

 

壮年会は25~45歳の働き盛りの世代で構成する。「元日新聞」

の発行に向けては、広報部員が普段の仕事の合間を縫って10月

から準備を進めてきた。記事のネタを考え、取材し、スポンサー

集めもする。壮年会のOBや会員の人脈を生かし、今年は147社

の協賛が集まったという。

「この新聞、金石壮年の創刊は」

(創刊は昭和33年)

この新聞、「金石壮年」の創刊は金石町壮年会が設立された195
金石町壮年会が設立された、戻る1

8(昭和33)年にさかのぼる。休刊した年もあったが原則、年1

回ペースで発行され、80年代から1月1日が発行日となった。以

来、紙の新聞のスタイルを守り、令和まで続いてきた。

 

壮年会のファイルに残る最も古い新聞は昭和38年、「三八豪雪」

の年の3月に発行された第10号。1面では大野湊神社の社務所が

結婚式場と集会場に解放されることが報じられていた。

もちろん、三八豪雪もネタの一つで、町民総出の除雪作業は「金石

町民に伝わる『協力の精神』『町ぐるみ』という他町のうらやまし

がる良習がしからしめた」とつづられている。

 

99(平成11)年は、現在の天皇皇后両陛下が金石を訪問された

様子を「忘れません。あの日の笑顔」と題した特集で振り返り、2

021年は金沢港クルーズターミナルの写真が1面を飾っていた。

 

「一年の計は元旦にあり」と言われる日に、地元尽くしの新聞を囲

んで「金石の今」を語り合える皆さんは、幸せだなあ。

「ひと息ついたデザイナーの}

ひと息ついたデザイナーの永瀬梨江さん(38)は「新聞づくりっ
永瀬梨江さん(38)は新聞づくり、戻る2

て大変なんですね」と、しみじみとつぶやいた。それだけ皆さん、

真剣な証拠である。

 

(継承の重み感じ)

どれどれ、最新の61号の特集は、と赤入れが済んだゲラを手に

取ると「ネタバレ厳禁でお願いしますよ」とクギを刺された。楽

しみにする読者の顔を思い浮かべれば、ごもっともだ。

 

広報部長の吉田拓也さん(33)は「コロナ禍でも新聞をつない

できた先輩方を思うと、途絶えさせてはいけないという重みを感

じる」と話す。北國新聞などに折り込む形で、約3400部を配

布する予定だ。

「OBの一人、金石の歴史を知る会の}

OBの一人、金石の歴史を知る会の林吉三会長(76)は「新聞づ
「林吉三会長(76)は、戻る3

くりを通じ、地域に愛着が深まった」と懐かしむ。代々受け継がれ

てきた「元日新聞」は、地元住民の金石愛を磨き続ける役割を果た

している。金石は磨いてなんぼ、「元日新聞」記者は壮年会、令和

につなぎ61号。1年に1回の発行でも継続しているのは立派なこ

とだと思います。皆さん仕事をしながら新聞を発行しているのです。

また記事を見つけるのも大変ですね。

 

 

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「銀嶺のかなた」紀行、津幡城跡(津幡町)、男の本音がぶつかり合う

前田利家は佐々成政と共に信長の母衣衆として、武功を競った。利

前田利家は佐々成政と

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家45歳の時、成政は信長から越中を任された。当時、越前府中に

共に信長の母衣衆として、

いる利家より、10倍以上の所領である。ライバルの出世に、利家
武功を競った。

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は歯ぎしりしたに違いない。

 

 

成政に対して、利家には苦々しい思いがある。23歳の時、信長の

同胞衆の拾阿弥に刀の笄を盗まれて斬った。拾阿弥をかばったのが

成政だったのだ。

 

若い頃の利家は美少年。信長寵愛の小姓で、「かぶき者」だった。

実直な人柄の成政は、派手にふるまう利家を、どう思っていたの

だろうか。

 

「お前も頭を下げろ」

賤ヶ岳の戦であいに秀吉方についたことで、利家は金沢城に入城した。

「銀嶺のかなた」では、その日のうちに利家は、津幡城にいる成

政のもとへ会いに行く。「秀吉さまが到着される前に金沢城へ来てく

れ。戦に負けた。お前も頭を下げろ」

「津幡城の茶室で、利家は成政に忠告した。」

津幡城の茶室で、利家は成政に忠告した。しかし成政は「越中一国は
しかし成政は越中一国は、戻る1

信長さまから拝領したもの」と突っぱねた。

 

そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと約束して、ふたりは酒を酌み交

わす。「わしは親父さまを救うことができなかった。無残に負け、お

めおめと敵の軍門に下った」

 

弱音を吐く利家に、成政は勝負しようと立ち上がった。

「悔しいか。性根を叩き直してやる」

 

相撲である。五番目に組み合ったとき「又左、何ゆえ我らが藤吉郎に

従わねばならぬ」成政の声が泣いていた。

「数々の戦いで生き残った精鋭ふたりが」

数々の戦いで生き残った精鋭ふたりが相撲を取る場面は、男のプライ
相撲を取る場面は、男の、戻る2

ドと本音がぶつかり合う、心憎い場面である。

 

信長、勝家の非業の死に、命のはかなさと、世の無常を感じながら、

滑稽な秀吉に降伏するしかなかった利家の無念は察するにあまりある。

だからこそ、男泣きする成政の心を理解できるのだ。利家こそ泣きた

かっただろう。

 

(わずか2年で廃城)

今回の紀行で、津幡城ってあったの?と無知な私は初めて知った。金

沢城から北東におよそ4里。目前に立ちはだかる坂を上った高台であ

る。

津幡小学校の旧校舎があった地で、城の遺跡はないという。敷地の隅

の小高い場所に上がると、津幡城跡の碑が、枯れ草を背にひっそりと

立っていた。

 

標高15メートルの崖上から、津幡の街が見渡せた。なるほど、能登、

越中、加賀への街道が交差する場所で、好立地である。源平合戦では

平家軍が、七尾城攻略のため上杉謙信が、ここに陣を敷いたのもうな

ずける。

 

成政は、賤ヶ岳の戦に加勢しようと兵を進めたが、北庄城が早々に落

ちたと知った。そこで津幡城で様子をうかがっていたのだ。

「利家が加賀、能登、越中を支配する」

利家が加賀、能登、越中を支配するようになると、軍事的拠点は必要
ようになると、軍事的拠点は、戻る3

ない。名だたる武将が拠点にした津幡の城は、わずか2年で廃城。戦

国の世は去り、津幡は宿場町となった。「銀嶺のかなた」紀行、津幡

城跡(津幡町)。現在の津幡町は発展して住宅が数倍に増えて大きな

街になった。北は伸びないというが津幡町は例外だと思います。

 

 

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人生の半分を皇室で・皇后さま60歳、結婚30年陛下と支え合い

皇后さまは9日、還暦となる60歳の誕生日を迎えられた。199

皇后さまは9月、還暦

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3年に天皇陛下と結婚して30年、皇室での歳月は人生の半分を数

となる60歳の誕生日

える。喜び、悲しみを分かち合いながら、陛下と歩みを共にしてき
を迎えられた。

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た。できる限りの務めを果たし、国民の幸せを祈る。

 

(活動の幅一歩ずつ広げ)

2019年11月、東京都内で催された天皇陛下の即位を披露する

パレードは、沿道に集まった約11万9千人の祝福に包まれた。笑

顔で手を振る陛下の傍ら、皇后さまの目には光るものがあった。外

交官のキャリアを絶ち、皇室入りされてからの道は平たんではなか

った。陛下と支え合い、一歩ずつ活動の幅を広げる。最近はそろっ

て公務に臨む機会が増えてきた。

 

(国民文化祭でも明るく)

「天皇陛下のお務めの重さを常に心にとどめ、おそばでお助けでき

ますように健康の一層の回復に努めながら、皇后としての務めを果

たしてまいりたい」。19年の誕生日の感想文書に、皇后さまは決

意を込めた。

 

「適応障害」で03年から療養生活が続く中、皇太子妃時代は公の

場に姿を見せることはほとんどなかった。だが、皇后になってから、

年間四つある主要地方公務に全て同行している。側近は「依然、体

調に波はあるが、行事に備えて整える努力をされている」と語る。

 

国民と触れ合う際は、皇后さまが明るい雰囲気を醸し出し、陛下を

サポートする。今年10月に石川県であった国民文化祭の式典後、

右手が不自由なため左手だけで演奏した女性ピアニストに「陛下も

ピアノをなさるんですよ」と話しかけ、和ませた。

「上皇さまの時代から大切にしている」

上皇さまの時代から大切にしている「象徴の務め」にも陛下と共に
象徴の務めにも陛下と共に、戻る1

臨んだ。22年10月に訪問した沖縄県で太平洋戦争末期の沖縄戦

の戦没者を慰霊し、今年6月は岩手県で東日本大震災の犠牲者を追

悼した。

 

活動は国内にとどまらない。22年9月、エリザベス女王の国葬参

列で訪英し、皇室と約70年にわたり親交を深め、日英両国の関係

を見守った女王をしのんだ。今年6月のインドネシア訪問は、皇后

さまにとって20年6カ月ぶりの友好親善目的での海外訪問だった。

 

長女愛子さまは22歳となり、ご一家で外出する場面も多くなって

いる。

 

(愛子さまの成長、喜びに)

結婚から8年で授かった長女愛子さまに、皇后さまはたくさんの喜

びをもらい、その成長を見守られてきた。天皇陛下と一緒に子育て

をし、家族の時間は笑いに包まれた。「さまざまな思い出が思い起

こされて感慨深い」。愛子さまが成年を迎えた2021年、皇后さ

まは誕生日の感想にこうつづった。

 

(熱心にメモ取り)

宮内庁が「懐妊の可能性」を発表した01年4月、皇后さまは37

歳だった。主治医は当時東大教授の堤治さん(73)=現・山王病

院名誉病院長=が務めた。「妊娠、出産は勉強が大事」。堤さんが

アドバイスすると、皇后さまは本を熟読し、検診時は熱心にメモを

取った。「母子手帳には細かく記録が残され、愛を感じた」。宮内

庁病院での健診は陛下が付き添い、エコー画像が伝える小さな命を

2人で見つめた。

「お世継ぎのプレッシャーが」

堤さんによると、陛下は、性別告知を「必要はありません」ときっ

ぱり断った。お世継ぎのプレッシャーがかかる「皇后さまへの心配
かかる皇后さまへの、戻る2

りだった」と受け止めた。12月1日、陣痛が始まり、陛下は皇后

さまの腰をさすって励ました。「生まれてきてくれてありがとう」。

皇后さまは柔らかな母の顔で語りかけた。

 

「子供の成長も見守りながら、私のできることをしていきたい」。

約1年後、02年の誕生日記者会見で皇后さまは公務との両立に意

欲を示したが、体調を崩し03年末から長期の療養生活に入る。

 

愛子さまが学習院初等科時代に一時不登校となった際は、登下校や

校外学習に付き添った。「親として何をしてあげられるのか、日々

考え、力を尽くしてきた」(11年の誕生日感想)

 

中学、高校と進む中で、愛子さまは多くの友人に囲まれ、自立して

いく娘の姿が皇后さまにとっての励みとなった。

 

愛子さまも思いを受け止める。成年に際した22年の記者会見で

「両親からもらった大きな愛情が私の支えになった」と語り「産ん

でくれてありがとう」と感謝を伝えた。

「私たちの生活を楽しく和やかな」

今年6月、皇后さまは陛下と共に公表した結婚30年の感想で「愛

子は、私たちの生活を楽しく和やかなものにしてくれるだけでなく、
ものにしてくれるだけでなく、戻る3

愛子が学び、経験する一つ一つのことが、私たちにとっても新たな

学びへとつながっている」とした。人生の半分を皇室で皇后さま6

0歳、結婚30年陛下と支え合い、皇室は今天皇の引継ぎの問題で

どうするか考えなければならない時に来ている。これは早急に議論

すべきである。男性が少ないからである。女性の天皇についても議

論しなければならない。

 

 

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北陸の販売店不安と困惑、ダイハツ全車種出荷停止、「誠実に対応するしか」

ダイハツ工業の品質不正を調査した第三者委員会が不正行為を確認

ダイハツ工業の品質不正を

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し、国内外で販売する全車種の出荷が停止となった20日、北陸の

調査した第三者委員会が

ディーラー各社は顧客への対応や今後の協議に追われた。半導体の
不正行為を確認

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供給が回復し、納期の長期化が改善される中、新春の商戦を見据え

 

ていた従業員側のショックも大きく、「出荷停止はいつまでなのか」

「あす以降どうなるのか」と不安や困惑の声が飛び交った。「誠実

に対応するしか」

「まさか全車種が止まるなんて思ってもいなかった」「こちら側

(販売店側)の非ではないが、顧客の不安に誠実に対応するしか

ない」。石川県内に6店舗を展開する石川ダイハツ販売(金沢市)

の本社では従業員からため息が漏れた。

 

(問い合わせ続々)

本社や各店には顧客から「今載っている車は不正があった車種か」

「このまま乗っていて大丈夫か」などと問い合わせが相次いだも

のの、ダイハツ本社から出荷停止に関する具体的な内容は知らさ

れず、スタッフはもどかしさを募らせた。

「奥平総一郎ダイハツ社長らの」

奥平総一郎ダイハツ社長らの会見が始まると、不安そうに中継の
会見が始まると、不安そうに中継の、戻る1

画面を見詰める従業員も。石川ダイハツ販売の岡田喜一社長ら幹

部は遅くまで会議を開き、今後の対応を協議した。

 

この日の営業終了時点では、21日以降も通常通り店を開く方向

となった。現在、販売店に届いている分の車については登録手続

きを進め、整備や修理の各種サービスも受ける。

 

富山県内で7店舗を運営する富山ダイハツ販売(富山市)も21

日以降、これまで通り営業を続ける予定としている。

 

荻原道郎社長は全車種の出荷停止について、「車に乗ってくれて

いる方、これから乗ろうと楽しみにしている方に申し訳ない」と

話し、「今は地域に寄り添いながらメーカーとともに信頼回復に

努めるとしか言いようがない」と声を落とした。ただ、停止がい

つまで続くかメーカーの奥平社長も答えられず「正直、どの程度

の影響が出るのか分からない」と言葉を濁した。

「半導体不足に伴う納期の長期化が

半導体不足に伴う納期の長期化が解消に向かう中、「タント」や
解消に向かう中、タントや、戻る2

「タクト」など人気車種は幅広い年代から注文が入っていた。荻

原社長は「春の新生活に向けて購入を考えていた人に届けられな

い可能性もある」と危ぶんだ。

 

(トヨタ系にも影響)

ダイハツはトヨタ自動車の完全子会社で、トヨタも一部車種で

出荷を停止。石川トヨタ自動車(金沢市)の幹部は、営業終了

時点でトヨタ側から情報が入ってきていないとし、「かなり大

きな影響が出てくるだろうが、今は何も申し上げられない」と

身構えた。

「石川トヨペットカローラ(同)の」

石川トヨペットカローラ(同)の担当者も、納車を待っている
担当者も、納車を待っている、戻る3

顧客がいるとし、「詳しい情報が入り次第、お客さまに連絡し

たい」と話した。北陸の販売店不安と困惑、ダイハツ全車種出

荷停止、「誠実に対応するしか」。車をぶつけてもエアバック

が出ないのでタイマーで電気的にエアバックを出すテストをし

ていた。このテストでは車がぶつかった時に本当にエアバック

が出るかどうかは分からない。本当に危険なことである。なぜ

こんなバカなことをしたのか理解出来ません。

 

 

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