小松能美支社、変化の時、利常がつくったまち、水堀巡る「浮城」面影残る。

小松市稚松地区にあった小松城は、梯川の流れを引く水堀を複雑に
小松市
稚松地区に

小松市稚松地区に
あった小松城は、
あった小松城は、戻る1



内部リンク
張り巡らせた姿から「浮城」と呼ばれた。今や水堀はなく遺溝はわ

ずかだが、加賀藩3代藩主の前田利常がつくったまちの面影は残っ

ている。芦城公園の再整備計画で稚松が変わりゆく今、まちの礎を

外部リンク

 

見詰め直そうと、利常ゆかりの地を訪ね歩いた。

(小松高に「天守台」)

まずは小松高の敷地内にある本丸櫓台石垣に向かった。20メート

ル四方、高さ6メートルで「天守台」の通称で親しまれている。階

段から上ると、戻る2

段から上ると、小松のまちを一望できる。

小松のまちを一望、戻る4

近くのテニスコートでテニス部の練習に励む八田一輝生徒会長(1

7)=2年、小松市南浅井町=は「生徒にとって日常風景の一部。

上で弁当を食べることもある」と話す。我戸陽斗副会長(17)=

2年、加賀市山中温泉=は「天守台のある高校は全国でも珍しいと

思う。母校を説明しやすい」と胸を張る。

 

卒業アルバムの写真撮影スポットにも使われるといい、ある卒業生

の50代男性は「受験前に同級生と上ってガンバローと叫んだ」と

青春時代を振り返る。

 
「埋蔵文化財センターの」
埋蔵文化財センターの

微妙に色の異なる石が積まれた石垣は、デザイン性が高い。小松市

埋蔵文化財センターの川畑謙二所長は金沢の戸室石や小松産の鴨川

石などが使われているとし「色の配置も考え、ああいう積み方をし

たんでしょう」と説明してくれた。

川畑謙二所長は金沢の、戻る1

当時のままの場所にある小松城の遺溝は、この天守台と西側の石垣

の一部しかない。一般も見学可能だが意外と市民に知られておら

ず、稚松発信へ活用の伸びしろは大きそうだ。すでに石垣をモチー

フにした和菓子開発など、まちおこしに生かす動きが出ている。

「浮島の」天満宮
次に、利常が創建した小松天満宮に
次に、利常が創建した小松天満宮に

次に、利常が創建した小松天満宮に足を運ぶ。境内をぐるりと

堤防が囲み、梯川の流れに浮かんでいるように見える。この特

徴的な外観は2017年、文化財保護と治水を両立させた全国

初の「浮島化工事」によって整備された。

足を運ぶ。境内をぐるりと、戻る3

 

北畠能房宮司によると近年、小松城の絵図の新発見などを通じ

て、年貢米や塩を搬出入する水運ルートと関連施設の詳細が分

かってきた。ルートは小松天満宮近くを通ったという。

 

境内には、北前船船主が海上安全と商売繫盛を祈願して奉納し

た石像「願かけ撫牛」や、塩業者が奉納した灯籠が残る。北畠

ぐうじはこれらが、城下町のにぎわいを今に伝える証とみてい

る。「芦城公園に未来型図書館ができたら、かつての小松城の

様子を解説する動画を製作し、管内で流してはどうか」。北畠

宮司は、市に提言していく考えだ。

遺溝が少ない中、映像や動画をうまく使えば、まちの今昔を紹
遺構が少ない中、映像や動画を
遺構が少ない中、映像や動画を

介しやすいだろう。未来型図書館の整備をきっかけに、小松の

うまく使えば、まちの今昔を、戻る5

歴史を分かりやすく伝える取り組みも活性化すればいい。

コメント以下に書いて下さい

 

ジーパンで「あえのこと」、第1章能登は厳しや、土までも、口上は心の中で。

能登半島地震から1年たち、戦後80年、「昭和100年」に当た
能登半島地震から

内部リンク


 


1年たち、
る一年が始まった。この節目に深く、多角的に、能登を見つめた

い。半島を歩き、近現代のあゆみをたどることで、どんな「のとの
戦後80年、「昭和100年」に

外部リンク

こと」が浮かび上がってくるだろうか。

こたつでくつろいでいたあるじに妻が声をかける。「お父さん、そ

ろそろ上げれば?」。時計は午後5時半を回ったところ。あるじは

立ち上がった。2024年12月5日、珠洲市若山町二子、奥秀樹

さん(74)方。奥能登に伝わる伝統行事「あえのこと」の取材で

ある。

 

脚立に上り、秀樹さんは2尾の小ぶりなタイを供えた。脚立を下り

て拍手を打つ。こたつに戻る。「ま、こんなもんや」

 

思のわず、カメラマンと目を見合わせる。終わり?

 

一年の実りを感謝し、田んぼから家の中へ、裃を着たあるじが「田

の神様」を恭しく招き入れる。神様があたかもそこにいるかのよう

に風呂に案内し、御膳を説明する。

 

あえのことは、そんな神事だったはず。だが秀樹さんはジーパン姿

だ。わずか10秒で事を終え、缶ビールを取り出している。


慌ててカメラマンが、戻る1

「も、もう一回、お願いします」。、戻る1

「も、もう一回、お願いします」。慌ててカメラマンが要求した。

一連の流れをゆっくり繰り返してもらい、何とか写真に収めた。

 

(口上は心の中で)

「昔は『おやっさま』の所であえのことをやってたんや」。こたつ

に一緒に入っていた田畑稔さん(77)=が語りだす。地震であえ

のことを行わない家もある中、珠洲市内で取材先を捜す私たちに、

秀樹さんを紹介してくれた人だ。

 

おやっさまと呼ばれる地域の名士の家では「本式」の神事を執り行

っていた。後にそれに倣い、百姓たちがてんでんに「略式」でやる

ようになった。奥家もその一つだろうー。これが田畑さんの説だ。

 

秀樹さんによると、神様に述べる口上や説明は、特にない。「ま

あ、口には出さず、心の中で、な」

 

今年は何と?

 

「そやな、『命あった、ありがとう』かなあ」


話は自然に、かの地震へ。、戻る2

話は自然に、かの地震へ。1度目の揺れが起き、集まっていた子や

孫らは皆、屋外へ避難した。直後の本震で屋根の瓦が落ちた。「逃

げる途中やったら、当たっとった。間一髪やった」

 

金沢へしばらく避難した。ただ水道が復旧する前の春先から、ちょ

くちょく珠洲へ戻っていた。コメの種籾を作るためだ。

 

今年は暑かった。刈り入れで、熱中症になった。直後に豪雨が襲っ

た。ここでも間一髪、田んぼは被害を免れた。

 

地震あり、病あり、大雨ありの一年。例年通り、カジュアルな神事

だが、感謝の思いはひとしおである。

 

「父楽」を実感

神様を田んぼに迎えに行くのがあえのことの常だが奥家では行わな

い。翌2月9日、神様を送り出す神事も「俺はやらんぞ。おやじ

も、じいさんもやっとらんかった」と秀樹さんは言う。

 

妻の静子さん(72)が笑って口をはさむ。「煮しめも、神様が

入るお風呂を沸かすのも、神様のため戸を少し開けとくのも、み

んな私。この人はなーんもせん」

 

「わずか10秒」と見えたが、その裏には何時間もの準備があっ

たのだ。そう気づき、だしの染みた煮しめを味わう。「能登の父

楽」という言葉がこの地にはある。女性が働き者で、男性は楽を

するとの意味だ。

 

テレビの石川県内ニュースで折しも「あえのこと」が流れた。正

装での神事が紹介されている。


裃のあえのこと、ジーパンのあえのこと。、戻る3

裃のあえのこと、ジーパンのあえのこと。どちらも「田の神様」

すなわち自然を畏れ、感謝する気持ちがある限り、本物なのだ。

正装での儀式を見慣れた目にはむしろ、普段着姿が新鮮で、神様

との距離の近さを示しているようにも映る。

小松能美支社、稚松 変化の時、利常の膝元・和菓子店多く、「町中華」や喫茶に名店。

市内の和菓子店で最も長い伝統を持つ、京町の行松旭松堂を訪ね
市内の和菓子店で

最も長い、戻る1
伝統を持つ、戻る2
京町の行松旭松堂、戻る3
を訪ね、戻る5

<span id=”link192″>市内の和菓子店で</span>

<span id=”link1922″>最も長い伝統を持つ、戻る2</span>

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<span id=”link1925″>を訪ね、戻る5</span>

 

 

内部リンク

た。1837(天保8)年の創業で、行松宏展社長(54)は7

代目に当たる。店で作った上生菓子「紅葉」と、抹茶でもてなし

外部リンク

 

てくれた。

 

利常は1652(承応元)年、千利休の孫宗旦の四男仙そう宋室

を小松に迎え、仙そうは町人にも茶の湯を広めた。行松社長は

「この辺は今も茶道が盛んで、お坊さんやお客さんにお菓子を渡

す文化もある」と和菓子店が多い訳を話す。

 

(伝統は革新の連続)

 

夫婦ともに茶道裏千家の指導資格を持つ行松社長だが「伝統は革新

の連続。代ごとのカラーが大切で、それが次の伝統につながる」と

挑戦の姿勢も忘れない。動物性原料を一切使わない「ビーガン」の

羊羹やもち、和菓子に合うコーヒーを商品化し、新たな顧客獲得に

余念がない。

 

行松旭松堂と連携し、このコーヒーを完成させたのが小馬出町の喫

茶店「フローラ」だ。マスターの松本道男さん(71)が母とし子

さん(99)から受け継いだ店は創業から半世紀余り。幅広い年齢

層から親しまれる繫盛店となっている。40年近くメニューにある

チーズケーキと自家焙煎コーヒーのセットを注文。アイスクリーム

を包んだメレンゲを焼いてブランデーをかけ、着火する「焼きアイ

ス」も堪能した。

蘆城公園近く、戻る2
の店だけに建設計画は、戻る4

<未来型図書館ができる>蘆城公園近くlink1922、戻る2</span>

<の店だけに建設計画は>link1924、戻る4</a>

蘆城公園近くの店だけに建設計画は人ごとで

はない。松本さんは「テーブルや椅子を園内に持ち出し、公園と一

体化した図書館になれば市外の人も利用するのではないか」と提案

を語る。

 

(インスタを意識)

 

締めくくりに松任町の中華料理店「爛爛」に入った。宮橋勝栄市長

も好物の「肉団子」を定食で注文する。どっさり盛られた迫力の一

皿だが、ぺろりと食べた。「注文を受けてから材料を混ぜて味付け

し、揚げているので、作り置きと違って軟らかい」。店主の中川孝

志さん(56)が秘けつを教えてくれた。

 

今年で創業50周年。大阪で修行し、亡くなった父孝一さんの店を

受け継いだ。肉団子の盛り付けに「インスタ映え」を意識している

とし「自分の色を出し、よそと違うものを提供していきたい」と意

欲を語る。

コメント以下に書いて下さい

3月の北陸新幹線小松駅開業以降、十分に知られていない小松の観

光資源として「食」を挙げる関係者は多い。稚松の食には、新たな

にぎわい創出の一翼を担えるような潜在力があると感じた。

開業以降、十分に知られて、戻る5

<3月の北陸新幹線小松駅>開業以降、十分に知られてlink1925、戻る5</span>

 

 

時流乗れるか手探り発信、横文字氾濫、市町身構え、デジタル化説明不可欠。

BPRにEBPM。どちらも県の予算案に今回初めて登場した言葉
BPRにEBPM。
(BPRにEBPM。)

 
どちらも県の予算案に、戻る1
今回初めて、戻る3
国が推進する政策、戻る5


登場した言葉

だ。脱炭素化と並び、県が旗を振る専門用語で、関連事業費は総額

20億950万円に上る。国が推進する政策ではあるが、全国の自
20億950万円に上る。

外部リンク

治体が手探りで進めている分野ゆえに、結果は未知数な部分も大き

 

い。聞き慣れない横文字の言葉が行政サービスに身構える市町、県

民は多く、県が時流に乗って新しい「武器」使いこなすためには、

分かりやすい説明が課題となる。

 

(ピコ太郎チ-ム)

「行政のデジタル化を進めるため、関係課の職員で「業務プロセス

見直しチ-ム」をつくります。通称BPR・PT。覚えにくい人

は、ピコ太郎チ-ムと呼んでください」

 

15日の予算会見で馳浩知事は歌手ピコ太郎さんのPPAP(ペ

ンパイナッポーアッポーペン)」を引き合いに、取り組みを紹介

した。

BPR・PTは「ビジネス・プロセス・リエンジニアリング・プロ

ジェクトチーム」の略で、意訳すると「県庁の業務をデジタルで

効率的にできないか考える部隊」となる。

 
するのは新年度の組織改正に

チームが正式に発足

するのは新年度の組織改正に合わせてだが、実際には行政経営課と
合わせてだが、実際には、戻る1

デジタル推進課が既に着手している。

例えば、会議の議事録作成の際、従来は職員が録音を聞いて文字に

起こしていたが、自動入力システムを採用することで6600時間

の労働時間削減に成功したという。

 

新年度からは両課が連携して各部署の点検を本格化させる。最新技

術で業務を効率化できれば、別の仕事に時間が割けるようになり、

行政サービスの質が上がって県民の幸福度が増す。デジタル化が馳

県政の掲げる「幸福度日本一の石川県の実現の柱の一つに位置付け

られているのはこういう考えからだ。

「何を聞けばいいか」

市町に対する施策でもデジタル化を進める。県や市町が個別に持つ

渋滞や河川の水位、除雪、通行止めの情報をまとめ、道路状況など

を一元発信する「広域データ連携基盤」を構築。さらに人の流れや

交通情報を基に観光情報を流す「デジタルマーケティング」も実施

する。

 

ただ、こうした取り組みに現状の現状の市町には戸惑いが広がる。

16日に冒頭以外は非公開で開かれた県デジタル化推進会議では、

県の新年度のデジタル化関連事業を説明する最高デジタル責任者

(CⅮO)の西相浮上副知事に対し、オンラインで参加した能登の

「質問はありませんか」と聞かれても、何を質問すればいいのか

分からない」との声が漏れた。

 
どれだけ行政サービスの効率化に、戻る2

どれだけ行政サービスの効率化につながると期待される最新技術

でも、市町では職員や設備が限られ、十分に対応できていない。

どこまで効果が見込めるか分からない中で、二の足を踏むケース
つながると期待される、戻る3

も少なくない。

 

県側もこうした課題を認識しており、施策の周知、浸透に努める

考え。県の事業についても、人出や税収など客観的なデータに基

づき効果を検証する「EBPM(エビデンス・ペースト・ポリシ

ー・メーキング)」を本格導入し、今後の施策に生かす方針だ。

デジタル化も脱炭素化、戻る4> 

行政の潮流であり、戻る5>

デジタル化も脱炭素化行政の潮流であり、「今の時代、やらない

わけにはいかない」(県関係者)取り組みだ。ただ、その重要性

必要性に対する県民の認識が追い付いているとは言いがたい現状

もある。「ピコ太郎」とジョークに変えるよりも、カタカナ語を

平易な日本語に置き換えるなど、多くの人の理解を得る努力が先

ではないか。

 

 

 

 

コメント以下に書いて下さい

 

子母澤類と巡る、文学散歩道、純真さに溶けていく心、水上勉あかね雲。

水上勉は福井県出身の作家である。貧困のため、9歳で京都の禅寺
水上勉は福井県出身の

内部リンク


に小僧として出された。その後、寺を出奔し、様々な職業を経験し

ながら作家になった苦労人だった。

 

外部リンク
だからこそ水上が描くのは、貧しいがゆえに過酷な運命に
作家である。貧困のため、戻る2
翻弄され

てゆく、哀しい男やあわれな女の人生である。
9歳で京都の禅寺、戻る4

 

二木まつのは、小杉から手紙をもらった。自分は悪い男だ。あなたが

が生娘と知らず、久野川の相手をさせてすまなかった、と心から詫

びていた。

 

まつのは金沢へ買い物に出た時に、小杉の会社を訪ねた。不在だっ

たので、手紙の住所を頼りに犀川を渡った。

 

(急流の思い)

「欄干によって、大川の流れを見た。かなりな急流だった」

 

11月2日、ちょうど今頃の季節である。犀川大橋の下を流れる水

は、深い緑色で、ゆったりと流れているように見える。まつのの目

に急流と映ったのは、小杉に会いたいという思いが、急激に強まっ

たからだろう。

 
小杉は、幸町のうら淋しい下宿で
小杉は、幸町のうら淋しい下宿で

小杉は、幸町のうら淋しい下宿で寝ていた。驚く小杉に、手紙をも

らったら会いたくなった。おかげで父の病院代ができた。恩に着て

いる、とまつのは礼を言う。「あんたは、きれいな心を持ってる人

や。まだ、心は生娘や」
寝ていた。驚く小杉に、手紙を、戻る1

 

小杉は大きく顔をゆがめて、半泣きのような顔をした。

 

 

どんな境遇に落ちても純真さを失わないまつのに、世間ずれした小

杉の心が溶かされてゆく。淋しくて孤独な2人は、互いにそうとは

気づかず、惹かれあったのである。

 

小杉は脱走兵だった。行方を追う憲兵に、律子は、まつのが小杉に

だまされて身を売ったことを話した。憲兵は小杉を娘売りの犯罪者

に仕立て、追い詰めて行く。

 

まつのは被害者として顔写真が新聞に載り、片山津を追われた。

 
帰る場所は実家しかない。
帰る場所は実家しかない。

帰る場所は実家しかない。鵜川の父母はまつのの帰郷に驚き、喜ん

だ。まつのが送った金で、父は治療し、歩けるようになっていた。
鵜川の父母はまつのの帰郷に、戻る2
暗い二木家に明るい光が差したのだ。

 

この家に、まつの宛ての手紙が届いていた。小杉からだった。

 

(人間の深みをえぐる)

 

久能川に脱走兵と知られた負い目から、あなたを世話した。自分の

生まれた山村にも、貧しい家を背負って働く女友達もたくさん知っ

ている。どうかゆるして下さいと、悔恨と死を匂わせる言葉がした

ためられている。

 
小杉も貧しい山村生まれ
小杉も貧しい山村生まれ

小杉も貧しい山村生まれだった。ここに、わずか9歳で修行の厳し

い禅寺へ入れられた水上勉の生い立ちが色濃く反映されている。水

上少年が味わった孤独や哀しみは、やがて小説となって、人間の深
ここに、わずか9歳で修行の、戻る3
みをえぐり出して結実してゆく。

 

「あかね雲」は2人の悲恋物語ともいえるが、読後、ぬくもりのあ

る余韻が心地いい。

子母澤類のみやび紀行、御幸塚城跡(小松市)、霊峰を望む殿軍の城。

(金沢へ退却)
大聖寺城を攻め落とした

大聖寺城を攻め落とした利長は、越前まで進軍したところで、金沢

内部リンク


へ引き返すことになった。

 

伏見城が落ち、大阪方の兵が船で金沢へ入って攻撃する、との計画

外部リンク
伏見城が落ち、大阪方の兵が、戻る2

を知ったからだ。

 

 

退却の途中で、小松城の丹羽長重の軍勢が攻めてくるかもしれな

い。それを防ぐために、御幸塚城に兵を入れて、退却が終わるま

で、敵に備えさせることにした。
船で金沢へ入って、戻る4
 

御幸塚城(今江城)は、小松城から南に6キロ、木場潟の西にあ

る。御幸塚と呼ばれるのは、花山法皇(第65代花山天皇)が加

賀三湖を望む三湖台に上がり、眺望されたという伝承によるもの

である。

 

ちなみに花山天皇は、昨年の大河ドラマ「光る君へ」に登場した。

愛する妻の死を悲しむ花山天皇を、藤原道兼が一条天皇を即位させ

るために、だまして出家させたのである。

 

出家後、花山法皇となり、今江に行幸されて、ここで3年を過ごさ

れたという。

 
「この御幸塚に城を作ったのは」
この御幸塚に城を作ったのは

この御幸塚に城を作ったのは、1400年代、高尾城の富樫氏であ
1400年代、高尾城の富樫氏で、戻る1
った。以後、一向一揆衆や、佐久間盛政など、政情にともなって城

主が代わっていった。

 

御幸塚城の跡は、今江小学校の隣にある。住宅地から小学校への小

高い丘に上がっていくと、視界が開けて、小学校とグランドが広が

っていた。

 

グランドを間にして、校舎と向かい合う高台が城山公園である。

 

公園の階段を上がると、遊具が置かれていた。冬のやわらかな日

射しの中で、おじいさんが孫娘を遊ばせていた。

 

(歴史しのぶ石碑)

丘の最も高い場所に「今江城趾」と書かれた石碑があった。案内

板はないが、石碑の側面に、浅井畷の合戦の歴史が刻まれていた。

 
「公園は広い。城の痕跡は見当たらない」
公園は広い。城の痕跡は見当たらない

公園は広い。城の痕跡は見当たらないが、「銀嶺のかなた」の時か
銀嶺のかなたの時、戻る2
ら、私はいくつもの城跡を見て歩いた。そのおかげで、平らな台地

が段状になっているのを見れば、ここに曲輪があっただろうと想像

できる目が、いつしか備わったようなのである。

 

丘の真下に住宅の屋根がある。家々の屋根は遠く連なっている。

 

目線の先にあるのは白山である。冬の白山は、神々しい気高さに輝

いている。

 

かつてはこの台地から、木場潟、旧今江潟、そして柴山潟が見え

た。街道も見渡せただろう。

 

(襲いかかる丹羽勢)

1600年8月6日、利長は4千人の手勢を御幸塚城にいれて、態

勢がととのうのを待った。翌朝、木場潟の南に宿営していた利長、

利政本体は、三堂山(三道山)の砦を目指したのだ。

 
「御幸塚城から、本隊の通過を見届けた」
御幸塚城から、本隊の通過を見届けた

御幸塚城から、本隊の通過を見届けた軍勢は、殿軍となって城を出
軍勢は、殿軍となって城を、戻る3
た。三堂山の本隊に向かおうと北陸道に入るところで、丹羽勢が襲

いかかるのである。浅井畷の戦いである。