粟生の川筋、暴れ川に耐えた一里塚、民話の里は戦の要衝、三道山のキツネ

能美市吉光町の手取川左岸に広がる水田地帯にある県史跡「吉光の

能美市吉光町の手取川左岸

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一里塚」は県内に現存する唯一の一里塚で、小高い塚には一本のエ

に広がる水田地帯

ノキの老樹がどっしり立つ。高さ約12メートル、幹回り約2メー
にある県史跡吉光の

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トルの巨木は長年の風雪に耐え、今もなお枝を広げる様は威厳すら

 

漂わせる。

 

(今も昔も癒しの場)

一里塚はその名の通り、藩政期には旧北陸街道に1里(約4キロ)

ごとに整備され、先を急ぐ旅人の道しるべであり、休憩場所でもあ

った。塚からは枝越しに冬めく白山連峰が一望でき、散歩中の住民

が一息入れる姿もあり、今も昔もこの地を行き交う人々の癒しの場

といえる。

「吉光町会長の宮口昌尚さん(63)が」

吉光町会長の宮口昌尚さん(63)が「エノキは幾多の水害にも流
エノキは幾多の水害にも、戻る1

されずに耐えてきたんです」と話す。一里塚の東側にある八幡神社

周辺は茶臼山と呼ばれる小高い丘で、明治期には集落や一里塚を囲

むように堤が整えられた。

 

1934(昭和9)年の手取川大水害では、甚大な被害に見舞われ

た近隣集落と比べ、吉光の集落は比較的軽微の損害で済んだ。暴れ

川との闘いで培われてきた水防の知恵が生かされたのだろう。

 

宮口さんの案内で一里塚を訪ねると、保存会の会員が小公園の手入

れに励んでいた。定期的に公園内の草刈りやごみ拾いを行い、高齢

者中心の会員が親睦を深める場になっていて、「ふるさとの貴重な

遺産を守り伝えていきたい」と保存会長の南與四次さん(73)は

力を込める。

「暴れ川との闘いを続けてきた吉光町に」

暴れ川との闘いを続けてきた吉光町に隣接する三道山町は、かつて
隣接する三道山町は、戻る2

は標高22メートルの低山があり、戦国時代にはたびたび砦が築か

れる戦の要衝だった。

 

関ヶ原戦いでは東軍についた前田利長が金沢方面から手取川を渡っ

て本陣を置いたとの記録も残っている。地元の歴史に詳しい前三道

山町会長の宮下直之さん(77)は「美川から安宅にかけて広く見

渡せることから、敵を見張るための重要ポイントだった」と解説し

てくれた。

(九谷陶板で物語紹介)

三道山は旧国道8号沿いに位置し、今では車がひっきりなしに行き

交う。だが、かつての集落は旧北陸街道の外れにあった。周辺はう

っそうとした森が広がっていたこの土地には数々の民話が残ってい

る。

 

「三道山のキツネ」の民話もその一つで、地元の公園には、ストー

リーが描かれた九谷焼の陶板が設置されている。馬方が老婆に化け

たキツネを懲らしめにいく物語で、昔から親から子へ、子から孫へ

と語り継がれてきた。ただ、最近はこうした機会が減っており、宮

下さんは「大切なふるさとの民話であり、公園の陶板からでも子ど

もたちに伝えていかなければならない」と力を込める。

「姿が頼もしく見えた。粟生の川筋」

地域の宝である一里塚や民話を守り伝えていこうとする住民たちの

姿が頼もしく見えた。粟生の川筋、暴れ川に耐えた一里塚、民話の
暴れ川に耐えた一里塚、戻る3

里は戦の要衝、今も昔も癒しの場。エノキに守られた一里塚は幾多

の水害にも流されずに耐えてきた。民話はどこの町にも昔から語り

継がれて残っている。

 

 

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粟生の川筋、難所が産んだにぎわい、遊園地が水の恵み享受、橋なく渡河は舟

能美市粟生町の手取川に架かる全長約400メートルの手取川橋。

能美市粟生町の手取川

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旧国道8号沿いの金沢と小松を結ぶ交通の要衝で、トラックや車が

に架かる全長約

ひっきりなしに行き交う。ただ、明治中期まで橋は架けられておら
400メートルの手取川橋

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ず、川越えの難所だった。

 

 

 

(橋なく渡河は舟)

藩政期に旧北陸街道の整備が進められた一方で、加賀藩が戦略上の

観点から手取川には橋を架けさせなかった。粟生には代わりに慶長

年間に「粟生の渡し」が設けられ、旅人らが舟などで向こう岸に渡

った。

「春先や梅雨の時期は増水することが多く、何日も渡れずに足止め

を食うケースもあったようです」。能美ふるさとミュージアム学芸

員の鎌田康平さん(34)が解説する。

 

粟生町の歴史に詳しい粟生町会長の重田勝年さん(79)に案内さ

れ、手取川橋を訪れた。歩道が整備され、10分もあれば対岸の川

北町側に渡れる。橋のたもとには粟生の渡しの案内板も設置されて

いた。

「手取川は国内屈指の急流河川だ」

手取川は国内屈指の急流河川だ。まとまった雨が降り、普段より水
まとまった雨が降り、普段より、戻る1

かさが増した水面を見て、橋がない場合に安全に渡りきれるか、ま

ったく自信がない。暴れ川の脅威にさらされながらの渡河は、命懸

けだったに違いない。

ただ、幾度の水害にも負けずに集落を発展させてきた粟生の人々は、

逆境をプラスに変えた。川の増水によって、旅人は体を休める場所

を近くに求めた。農業が盛んだった粟生では、宿屋や飯屋に業態を

変える人が飛躍的に増えた。

 

「手取川が増水すると、粟生の村は繫盛する」。街道を行き交う人

はこの地の特性をこう表現したという。藩政期には集落の半数以上

に当たる145世帯が今で言う宿泊、飲食、物品販売業を営み、街

道筋に軒を連ねたそうだ。土地のハンディを商機に結び付ける人々

のたくましさが垣間見えた。

 

粟生に初めて橋が架けられたのは1888(明治21)年。鉄道の

開通も相まって川筋の宿泊需要は激減、今では宿場町の繫栄をとど

めるものは残っていない。重田会長は「往時のにぎわいがあったか

らこそ今の集落がある。語り継いでいきたい」と話した。

「のどかな田園地帯に、九谷五彩を」

(開業時は釣り堀主力)

のどかな田園地帯に、九谷五彩を模したカラフルな観覧車がそびえ
模したカラフルな観覧車が、戻る2

立つ。手取川沿いに立地する「手取フィッシュランド」は1967

(昭和42)年の開業当時、釣り堀が主力事業だった。

 

幹線道路沿いにあり、水温が保たれた手取川の伏流水が豊富に使え

る。これが立地の要因になった。今では3万坪もの敷地にジェット

コースターや各種アトラクションを備え、毎年30万人近くが訪れ

る。釣り堀コーナーは今でもリピーターがいる人気施設で、「遊園

地の多彩な楽しみ方を提供していきたい」辻本憲次会長(76)と

息子の勝彦社長(46)が力を込めた。

「藩政期から400年以上の時をへて」

藩政期から400年以上の時をへて、豊かな水資源を商機に生かす
豊かな水資源を商機に生かす、戻る3

取り組みは、旅人へのもてなしから県民なじみの遊園地を支えるま

でに結び付いた。この地の「川筋根性」は今、にぎわい創出への熱

意となって息づいている。粟生の川筋、難所が生んだにぎわい、遊

園地が水の恵み享受、橋なく渡河は舟。粟生へは仕事で何回か行っ

ています。手取フィッシュランドも子どもの頃連れていってもらい

ました。釣り堀ははっきり記憶しています。子どもができてからは

一緒に何回もいっています。とても楽しかったですね。乗り物がた

くさんありました。

 

 

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加能つなぐ高松、畜産場から住宅地へ、進化続ける若い町、看護大と連携

2000年の県立看護大開学を機に誕生した「学園台」は、かほく

2000年の県立看護大

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市高松で最も新しい町だ。学生アパートやデザイン性に富んだ家が

開学を機に誕生した

並び、公園で子どもと遊ぶ若い夫婦の姿もよく見かける。もとは県
学園台は、かほく

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の畜産試験場と松林が広がる地域だったが、10年ほど前から急速

 

に人口が増え、800人超が暮らす。能登への玄関口として歴史深

い高松に新風を吹き込んでいる。

 

(里山海道無料化で)

学園台は長柄町、高松、中沼の3地域の一部が合わさり、03年に

分譲が始まった。当初は思うほど移住が進まなかったとされるが、

のと里山海道が無料化された13年ごろから、県立看護大インター

チェンジがある利点から住宅や店舗が増えだしたという。

「学園台4丁目にあるカレー店」

学園台4丁目にあるカレー店「バーニングカフェ」もその一つ。羽
バーニングカフェもその一つ、戻る1

咋市で農業を営んでいたが、カレー好きが高じて14年に専門店を

オープンした。地元住民にとどまらず、金沢や加賀から、のと里山

海道を利用して多くのファンが訪れる。人口増加を見越して開業を

決めた桑原さんも「ここまで栄えるとは想定外」と驚きを隠せない

様子だった。

 

店を後にして町を歩くと、三色の国旗が目に飛び込んできた。フラ

ンス料理店のようで、正面の壁には「カフェ・マダム・ルロワ」の

文字。自分には不似合いな洗練された雰囲気だが、扉を開けると店

主のルロワ美砂子さんと夫でフランス人のパスカルさんが気さくに

迎えてくれた。

 

ルロワさんは、この場所で生まれ育ち、20代の時にパリに渡って

以来30年近く、三ツ星レストランなどで料理人を務めた。13年

には故郷で店を開きたいとの思いが募り、パスカルさんと帰国。こ

ちらも加賀や能登、県外から客が集う人気店に成長した。

「パスカルさんとともに白山市の」

パスカルさんとともに白山市の国際ビジネス学院で、料理の現場に
国際ビジネス学院で、料理の現場に、戻る2

即した実用的なフランス語の授業も受け持っている。パリにいた頃、

日本から修業に来た料理人が言葉を理解できず、十分な経験を積め

ないまま帰国する姿を何度も目にしたからだという。

 

学生が修行でフランスへ渡る前、履歴書の添削やアドバイスを求め

て店を訪れることも多いそうだ。

 

市内の児童に授業でナイフやフォークの使い方などテーブルマナー

を教えたこともあり、ルロワさんは「地域の未来を担う若者の力に

なれるなら、自分の経験を惜しまず伝えていきたい」と話した。

 

(看護大と連携)

若い町だけに、学園台では子どもを育成する取り組みが盛んだ。

ことし8月には、県立看護大の学生と子ども食堂「サンかほく

キッチン」が共同で学童保育と子ども食堂を合わせたイベント

も開催。食事の提供だけでなく、学生が夏休みの宿題も教えた

という。運営に携わった3年の石川圭菜さん(21)は「来年

も開かれたらぜひ参加したいという声が聞け、うれしかった」と

微笑んだ。

「この先も看護大などとの連携で」

この先も看護大などとの連携で、どんどん進化していく伸びしろの
どんどん進化していく伸びしろの、戻る3

大きい町なのだろうと実感した。加賀能登の真ん中に位置する高松

地区。古くからの交流で育まれた伝統文化をかたくなに守る一方、

移住者の刺激を受けながら新旧入り交じってともに成長を続ける。

取材を通じて目が離せない地区の一つになった。加能つなぐ高松、

畜産場から住宅地へ、進化続ける若い町、看護大と連携。確かに学

園台はかほく市高松で一番伸びる可能性がある地区でしょうね。若

い町だから伸びしろは大きいと思われます。

 

 

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4年分の全力エール、声援解禁沿道に人人人、「頑張れ」とハイタッチ

いつもの金沢マラソンが帰ってきた。29日に開催された第9回大

いつもの金沢マラソンが

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会は、新型コロナの5類移行で4年ぶりに沿道応援の自粛が解除さ

帰ってきた。29日に

れ、約15万4千人の大声援が秋空に響いた。コース沿いを途切れ
開催された第9回

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ることなく人が埋め、最後の1人が通過するまでランナーを鼓舞し

 

た市民らは「やっぱり声を出して応援するのは楽しい」と笑顔を見

せ、エールを受けたランナーも「これぞ金沢」と戻ってきた熱気に

感謝した。

 

2カ所の応援ステージ、20カ所の応援スポットを始め、4年ぶり

に復活した「沿道応援サポーター」の学童野球チームなどがスター

トからゴールまで沿道に連なり、大会の特徴の一つである切れ目の

ない応援をたっぷりとランナーに届けた。

 

ランナーは「頑張れ」「ファイト」の声に「ありがとう」と手を振

り、子どもらとハイタッチを交わしながら走り抜けた。ランナーを

楽しませようと仮装をしたり、メッセージボードを掲げたりするグ

ループのほか、自転車で知人のランナーを追う人も見られた。

「組織委は応援スポット5カ所を」

(「追っかけ」推奨)

組織委は応援スポット5カ所を巡りながらレースを見守る「追っか
巡りながらレースを見守る、戻る1

け応援」を推奨、金沢駅とフィニッシュ地点を結ぶ無料シャトルバ

スを運行した。

金沢駅周辺などで声援を送った金沢市北安江1丁目のパート木村裕

美さん(71)は、第1回から毎年沿道に駆け付けているとし「声

が出せると応援しがいがある」と笑顔を見せた。小坂町交差点付近

では会社員斉藤章さん(52)=同市御所町1丁目=が「ランナー

と沿道の一体感が戻ってきてうれしい」と喜んだ。

 

今大会で新たにコースに組み込まれた金沢外環状道路海側幹線(海

側環状)にも人だかりができた。志賀町から訪れた浜野万菜さん

(22)は、以前ランナーとして参加したことがあり『頑張れ』と

の声が涙が出るほどうれしかったから、たくさん応援したいと思っ

て来た」と振り返った。

 

ランナーからは、熱いエールに感謝する声が相次いだ。金沢市米丸

地区の地域ランナーを務めた会社員吉田篤さん(46)=同市東力

1丁目=は『米丸頑張れ』の声援で足が動いた。おかげで無事ゴー

ルできた」と汗を拭った。

 

(海外勢にも「レッツゴー」)

海外からの受け入れも4年ぶりで米国や台湾のランナーが参加した。

城北市民運動公園では、金沢市の姉妹都市である5都市のランナー

を友人ら計9人が「レッツゴー」と後押しした。

「米バファロー市のレバルティン・ロバートさん

米バファロー市のレパルティン・ロバートさん(28)は「走る人
(28)は走る人、戻る2

も応援する側も楽しめる素晴らしい大会だ。来年は出場したい」と

話した。

 

大会組織委員会長の村山卓金沢市長は「来年は10回の節目。新し

い取り組みを考えたい」と語った。

 

(福村選手V2「格別」男子)

遊学館高OBのプロランナー福村拳太選手(29)=砂山商事、野

々市市=が男子初の連覇を達成した。「地元でV2は格別。声援を

力に狙い通りのレースができた」と満面の笑みを浮かべた。石川を

拠点にパリ五輪出場を狙う福村選手は「きょうの走りを自信にして

挑戦を続ける」と意気込んだ。

 

「冷静に走る。勝ちにこだわる」と臨んだレース。勝負どころを見

極め、残り2キロで飛び出すと、そのまま後続の選手を振り切った。

 

2時間16分51秒でゴールテープを切ると、両手でVサインを作

って2連覇の喜びをあらわに。「沿道からの『福村頑張れ』が励み

になった」と振り返った。

 

東海大時代に箱根駅伝に出場、卒業後は実業団チームに所属したが

「背水の陣で挑戦する」と2021年にプロ転向を宣言した。自ら

スポンサーを集めて練習に励み、昨年の金沢マラソンでフルマラソ

ン初優勝を達成。その後、スポンサーは2社増えて11社になった。

「次の目標は、パリ五輪の代表選考の」

次の目標は、パリ五輪の代表選考の対象となる国内レースだ。残り
対象となる国内レースだ、戻る3

1枠を懸けた戦いへ「石川を元気にする走りを見せたい」と決意を

新たにした。4年分の全力エール、声援解禁沿道に人人人、「頑張

れ」とハイタッチ。金沢マラソンには他の大会にはない良さがある。

懸命に走る選手と彼らを応援する沿道の人々。選手と沿道の人々の

呼吸がピッタリあっているように思います。個人の男子のフルマラ

ソンでは福村選手が昨年に続き2連覇しました。立派だと思いまし

た。彼はプロランナーとして頑張っています。次の目標はパリ五輪

出場です。代表選考レースは厳しいと思いますが頑張ってほしいと

思います。彼ならやってくれそうな気がします。

 

 

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加能つなぐ高松、かすかに郭の残り香、130年の老舗、伝統守る

室町時代に全国を旅した京都の僧・道興の「廻国雑記」という紀行

室町時代に全国を旅した

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文が、高松の名が登場する最古の信頼できる文書らしい。高松は5

京都の僧・道興の

00年以上前から既に旅人の往来が盛んだった。
廻国雑記という

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藩政期には通行税のような金銭を徴収する口銭場が設けられ、周辺

 

には茶屋などが並んだ。加賀能登の接点として活気づき、明治から

大正にかけ、芸妓らが舞踊や音曲でもてなす料理屋も続々開業した

という。

中心部の伊丹町通りには10店ほどが軒を連ね旧高松史には「金沢

から七尾までの間に高松ほどにぎやかな遊郭はないと言われた」と

ある。

 

(繊維業者で活気)

多くは昭和30年代までに廃業したそうだが、料理屋の伝統を今に

受け継ぐ老舗があると聞いて訪ねた。伊丹町通りの料亭・ビジネス

ホテル「河北亭」。もとの餅屋にさかのぼれば創業130年余りと

いう。叙情豊かな和風旅館のたたずまい。餅屋から料理屋に変わり、

1960(昭和35)年から宿泊業を営んでいる。

「大女将の鶴見和子さん(73)が」

大女将の鶴見和子さん(73)が津幡から嫁いできた71年頃、繊
が津幡から嫁いできた71年頃、戻る1

維業者は数多く、商店がひしめく通りは買い物客が絶えなかった。

 

「各地の工場を回る糸関係の商社や問屋さんが4、5日ずつ泊まり、

高松の旦那衆から夜遅くまで接待を受けて景気が良かった」

 

周辺には家内工業の小さな工場が立ち並び「社長さんだらけの町や

ったなあ」。父親が繊維工場を営んでいた元市職員の多々見行雄さ

ん(70)はこう述懐する。「おやじが大阪の問屋さんらの接待に

励んでいた姿をよく覚えている」。

「メールで事が済む時代、河北亭を」

メールで事が済む時代、「河北亭」を訪れる繊維業者らは少なくな
訪れる繊維業者らは少なく、戻る2

ったが、地元の宴会や法事などのほか、加賀能登を回るのに便利と

観光客にも重宝される。96年から割烹料理店も併設し、地元の若

いファミリー層も気軽に訪れるようになった。

 

「県外客のもてなしも大切やけど、地元に愛されないと長くは続か

んわね」と鶴見さん。95年に93歳で亡くなった先代の芳子さん

は最晩年まで店を取り仕切り、地元でしたしまれた名物女将だった。

 

(地元のためにも)

酔客が来れば「これ以上、どんだけ飲むがや。あしたまた来るこっ

ちゃ」とたしなめた。ステテコにランニングシャツ、ゴム草履の男

性客には「こんな格好で人の家に来るもんやない」と諭した。翌日、

その男性が革靴と背広姿で飲みに来たというから、厳しくも温かい

地域のお母さんのような存在だったのだろう。

 

現在は芳子さんに名前の一字を贈られた女将の芳枝さん(52)と孝

信さん(54)夫婦が店を担う。

 

コロナ下で鶴見さんは何事にも動じない芳子さんの言葉を思い出し

た。「客が͡来なんだら体を休ませたらいい。寝ときまっし」。

「鶴見さんは自分たちが店をたたんだら」

鶴見さんは「自分たちが店をたたんだら、会合や法事はどこでする
会合や法事はどこでする、戻る3

んやろうと考えた。地元のためにも頑張らんなん」と力を込める。

気丈な女将たちによって、この先も高松の古き良き時代の風雅が伝

えられていくのだろうと思った。加能つなぐ高松、かすかに郭の残

り香、130年の老舗、伝統守る。高松は古くから加賀能登の中継

点として発展してきた。また繊維産業も盛んで多くの業者がやって

きた。夜の接待も遅くまで行われた。

 

 

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加能つなぐ高松、まちかどの住民オアシス、20年、欠かせぬ交流館

ガラス戸を開けて中をのぞくと、優美なシャンソンの調べが響いて

ガラス戸を開けて中をのぞくと、

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きた。「ここは加賀、能登からお客さんがたくさん来てくれる。し

優美なシャンソン

っかり歌いましょう」。男女10人の教室生が熱心に公演の練習に
の調べが響いて

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励んでいた。

 

 

(教室や展覧会)

高松の旧能登街道沿いに立つ「たかまつまちかど交流館」の光景だ。

ほぼ毎日のように歌や押し花、書道をはじめとした教室、市内外の

人が力作を発表する展覧会などが開かれている。喫茶コーナーでは、

近隣住民らが他の客やスタッフと身近な話題で談笑していた。

 

「朝から何回も来てコーヒーを飲んどる。いろんな話を聞いて元気

をもらうおかげで病気もしたことない」。近所に住む91歳の女性

が満面の笑みで答えてくれた。

「管理運営するNPO法人まちかど俱楽部」

管理運営する「NPO法人まちかど俱楽部たかまつ」で事務局長を務
たかまつで事務局長を、戻る1

める赤池典子さん(60)は「毎日見るお客さんが多いから、たま

に来ないと『ちょっと誰か見てこいま』となる。具合が悪ければ表

情ですぐに気付く」という。

 

隣町から毎朝決まった時間に来店し、転倒による寝たきりの防止に

と建物3階まで階段を10往復した後、コーヒーを飲んで定刻にき

っちり帰る1人暮らしの高齢男性もいるそうだ。開設から20年、

地域の高齢者の安全安心のためにも欠かせない施設となっている。

 

(銀行移転きっかけ)

オープンは旧3町の合併を1年後に控えた2003年3月。北國銀

行高松支店の移転がきっかけだった。支店と隣の北國銀行には一日

約400人が訪れ、近くの商店街にも人が流れていたという。しか

し、それが半減する。危機感を持った商工会などが人を集める住民

サロンの解説を提案し、旧高松町が建物を購入したのが始まりだ。

「まちかど俱楽部たかまつ理事長の」

まちかど俱楽部たかまつ理事長の岩井佳行さん(62)は「当時
岩井佳行さん(62)は、戻る2

はNPOという言葉もなじみがなく、住民の理解を得るのに苦労し

た。でも今は人を集める一定の効果を果たしている」と手応えを

感じている。

 

ただ「野菜や果物を売れるようになろうとは20年前には想像も

しなかった。この間、八百屋が何件も廃業し、商店会も解散した」

と、かつては人が絶えなかった通りの行く末に不安を募らせる。

 

交流館は条例により教室やイベントの使用は無料となる。生徒や

参加者らのコーヒー代や指定管理料を中心に運営しているが、新

型コロナの影響を引きずり来館者数が伸び悩んでいることも心配

の種だ。

「それでも趣向を凝らして人を集め」

それでも「趣向を凝らして人を集め、守っていくしか道はない」
守っていくしか道はない、戻る3

と岩井さん。毎日楽しみに訪れる人たちの笑顔を励みに、今日も館

内には明るいスタッフの声が響いている。加能つなぐ高松、まちか

どの住民オアシス、20年、欠かせぬ交流館。「朝から何回も来て

コーヒーを飲んどる。いろんな話を聞いて元気をもらうおかげで病

気もしたことない」。ここは高齢者にとってなくてはならない憩い

の場であるような気がします。

 

 

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