大野はむらさき5、「悪魔払」成長を実感する場、「山王祭」住民に愛され

1(大野はむらさき5、「悪魔払」成長を実感する場、「山王祭」住

民に愛され)

大野町5丁目の大野日吉

大野町5丁目の大野日吉神社境内の曳山館には、7月の夏季例大祭



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「山王祭」で町を巡る7基の曳山が並ぶ。今年7月、3年ぶりに日

神社境内の曳山館には

の光を浴びた曳山からは、祭りのにぎやかな雰囲気が伝わってくる。
7月の夏季例大祭

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(新旧の地名掲げ)

大野町1~7丁目ののぼりが掲げられた7基の曳山には「蓮池町」

 

「茶筅町」「亀齢町」「坂本町」などと書かれた提灯が置かれてい

 

る。「昔の地名だよ」と神主の若林昭男さん(82)が教えてくれ

た。祭りで曳山は新旧の地名を掲げて練る。

「旧大野町は1935(昭和10)年に」

旧大野町は1935(昭和10)年に金沢市へ編入した。今の地名
金沢市へ編入した。今の、戻る1

は「大野町〇丁目」だが、標柱などには昔の地名と由来が残されて

いる。隣の金石の旧町名復活が記憶に新しいだけに、標柱だけでは

「あいそんない」気もするが、旧町名は祭の中で受け継がれ、住民

の中に生きている。

 

コロナ禍のため、祭りは2020、21年に中止された。「なんと

しても今年は開催してほしい」。地元の高齢者から神社側へ「嘆願」

もあったらしい。それほど山王祭は住民に愛されている。住民の1

人は言う。「大野をまとめているのはお祭りだよ」

 

山王祭の中でも特徴的なのは、市の無形民俗文化財である「山王悪

魔払」の舞だ。先頭の坊主役は錫杖を打ち振い経文を唱え、般若面

を付けた者は弓、天狗は刀を、翁はまさかりを手に舞い踊る。今年

は2日間で町内約750戸を巡り、家々の「魔」を払って回った。

「起源は不明ながら、すっかり」

起源は不明ながら、すっかり大野に定着している祭り。亜種とか何
大野に定着している祭り、戻る2

とかウイルスがはびこる今、悪魔払保存会の新田明弘代表(75)

は「悪魔」を「疫病」として捉えて、「町に悪い病気が入らないよ

うに経文を唱えている」と話す。

 

 

 

 

 

 

 

(全世代が参加)

悪魔払を担うのは、16、17歳の高校2年生の男子。大野の子ど

もたちは、年長児から獅子舞の「棒振り」役を皮切りに祭に参加す

る。「赤旗」とよばれる旗持ちを経て、悪魔払の担い手に。成人す

れば奴行列に参加し、「所帯を持てば獅子舞」とも言われる。

「初老を迎えて神興の担ぎ手に回り」

初老を迎えて神輿の担ぎ手に回り、その後も祭りの運営に至る。全
その後も祭りの運営に至る、戻る3

世代が参加して山王祭は成り立つ。「自分の子どもが棒振りをやれ

ば、自然と親も祭りに加わる」と新田代表。年に一度の祭りは、大

野の住民にとって自身の成長や、地域での役割を実感する場になっ

ているようだ。祭り復活を嘆願する声が上がるほど、愛されるのも

分かる気がしてきた。ぜひ来年は間近でその姿を見たい。大野はむ

らさき5、「悪魔払」成長を実感する場、「山王祭」住民に愛され。

私も若い頃は主に獅子舞で祭りに参加していました。8月15日の

真夏の暑い日が祭りでした。山王祭も7月ですからかなり暑いと思

います。特に獅子舞は体力を使いますから本当に辛かったのを覚え

ています。ビールを飲んでいないときつくてできませんでした。人

数がすくないと疲れて大変でした。真夏の炎天下でよくやったと思

います。山王祭も時期的にはきつい祭りだと思います。気合いが入

ってないと倒れることもあります。体調に充分注意してやりましょ

う。体が一番大切ですからね。

 

 

 

 

 

 

 

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津幡の風を見つめて6、野生と共存する動物園、侵入した雄ジカ、ボスに

(津幡の風を見つめて6、野生と共存する動物園、侵入した雄ジカ、

ボスに)

県内の動物園と言えば

県内の動物園と言えば、能美市のいしかわ動物園が真っ先に思い浮



内部リンク

かぶが、実は津幡町津幡の県森林公園内にもう一つある。それが

能美市のいしかわ動物園

「森林動物園」だ。
が真っ先に思い

外部リンク

11月下旬の昼前、津幡町の国道8号緑が丘交差点から森林公園に

 

入り、曲がりくねった林道をすすむと、森林動物園の入り口が見え

てきた。加茂池を挟み、ちょうどインフォメーションセンターの反

対側に位置する。入園は無料だ。

 

里山の中にぽっかりと広がる園内では、親子が柵越しにニホンジカ

に餌を与えていた。少し下ると、ニホンザルが元気よく走り回って

いる。家族連れやカップルを数組見掛けたが、混雑している様子は

ない。

「子どもたちは走り回れるし」

「子どもたちは走り回れるし、コロナを気にする必要もない。穴場
コロナを気にする必要、戻る1

ですよ」。月1回ほど来園するという金沢市の主婦北川裕代さん

(40)は、目の前を駆けて行く息子を見ながら、ほほ笑んだ。い

しかわ動物園の混雑をあえて避け、こちらの動物園に来ている人も

いるようだ。

 

(里山3ヘクタールに60頭)

森林動物園は1973(昭和48)年、森林公園のオープンに合わ

せて開業した。いしかわ動物園がキリンやゾウ、チンパンジーとい

った世界の動物が見られるのに対し、こちらの売りは、身近な里山

に暮らす動物たちだ。

 

約3ヘクタールの敷地内では、今年8月時点でシカ、サル、タヌキ、

ヤギ、ウサギ、テンの6種計60頭が飼育されている。

「疑問が一つ浮かんだ」

疑問が一つ浮かんだ。これだけ里山が広がっていると勝手に野生の
これだけ里山が広がって、戻る2

動物が侵入してくることはないのだろうか。勤務歴12年のベテラ

ン飼育員、英晴夫さん(67)が教えてくれた。「シカ園の今のボ

スは元々、近くの山から紛れ込んできた野生のシカや。ほら、目つ

きが他のシカと違って鋭いやろ」。そう話すと、片目の白くなった

雄ジカを指した。

 

(柵飛び越えた?)

英さんによると、8年ほど前、野生の雄ジカがシカ園前に現れるよ

うになり、警戒していたが、いつの間にか飼育しているシカたちと

一緒にいたそうだ。柵を飛び越えて入ってきたとみられ、英さんは

「何か見たことないやつがおるなと思って数えたら、1頭増えとっ

た」と笑う。今では9頭の群れのリーダーとして立派に率いている。

 

 

 

 

 

 

 

県森林公園事務所長の小倉一郎さん(62)が「昨年10月にも野

生の雄ジカが来てたんです」と明かす。ただ、今のボスジカが毎回、

柵越しににらみつけて追い返していたそうだ。「縄張りに近づいて

きたライバルを追い払ってたんじゃないでしょうか」。猟友会員も

出動する騒ぎとなったが、しばらくしてその雄ジカは姿を見せなく

なった。

 

森林公園では来年5月の開園50周年記念の再整備事業として、2

024年春に同公園南口運動広場で、保護された犬や猫と触れ合え

る「いしかわ動物愛護センター」が開業する。アスレチック遊具の

移転、改修も計画されている。

「もっとも、そうした施設とは」

もっとも、そうした施設とは対照的に、動物園は今のところ、改修
対照的に、動物園は今の、戻る3

の予定はない。きっとこれからの50年もできるだけ手は入れずに、

里山の魅力をアピールしていくのだろう。親子が動物と触れ合う姿

を見て、それが森林動物園愛される理由であり、生き残る道なのだ

と感じた。津幡の風を見つめて6、野生と共存する動物園、侵入し

た雄ジカ、ボスに。若い頃に子どもたちを連れて家族で森林公園と

森林動物園を見る機会があった。森林公園はとにかく広くて遊具も

たくさんあって子どもたちは楽しんで遊んでいました。最後に森林

動物園を見ましたが最も印象に残ったのが、イノシシが突撃する時

のスピードでした。すごく速いのです。驚きました。時々町に降り

てきて餌を求めて荒らしますが、あのスピードで人にぶつかってき

たら確実にケガをします。危険な動物だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

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安原のど根性6、特色を次代に託す音頭、児童の運動会種目に、盆踊りを楽しむ住民

(安原のど根性6、特色を次代に託す音頭、児童の運動会種目に、

盆踊りを楽しむ住民)

取材で安原地区を歩き

取材で安原地区を歩き回るうち、加賀野菜、みどり団地、安原工業



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団地と、この地区が持ついろいろな顔が見えてきた。これらの特色

回るうち、加賀野菜、

をまとめたのが「安原音頭」だ。
みどり団地、安原工業

 

「加賀の國の海沿いに安原名産 加賀野菜」の歌い出しで5番まで

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ある。新入社員だった4年前の8月、盆踊り大会でこの音頭の踊り

 

を見た。コロナ前の盆踊りは活気があった。

 

(誕生は8年前)

実は、安原音頭が誕生したのは割と最近だ。2014年の盆踊りで

お披露目された。かつては各町に踊りがあったが、演奏者不足など

から廃れたという。安原村が金沢市に編入して60周年の節目だっ

た14年、「地区全体を代表する音頭で盆踊り大会をしたい」との

声が住民から上がり、町会連合会を中心とする有志が自分たちで一

から練った。

「歌詞は上安原町の自営業」

歌詞は上安原町の自営業横山浩仁さん(60)が担当した。作詞未
横山浩仁さん(60)が担当した、戻る1

経験ながら、近所の子どもにも意見を聞き、今の地区の様子を分か

りやすい言葉で表現した。曲はフォークグループ「でえげっさあ」

が作った。昔の音頭には振り付けが異なる「男踊り」と「女踊り」

があった。それでは「子どもたちには難しい」として地元民謡会の

女性たちが新たな振り付けを考えた。

 

児童生徒に親しんでほしいと、翌年から安原小の運動会の種目に全

校児童による音頭が加わり、住民が事前に学校に通って手ほどきし

た。さらに盆踊り大会当日は、緑中吹奏楽部が、安原小の屋外ステ

ージで音頭を生演奏している。

 

(コロナ下で中断)

しかし、この3年間、運動会で音頭は踊られていない。今年8月、

地区の盆踊り大会も直前まで準備を進めていたが、コロナの感染

状況をみて中止となった。

「今の児童は安原音頭を」

今の児童は安原音頭をどう思っているのだろう。6年生に聞くと
どう思っているのだろう、戻る2

「歌詞にいろんな加賀野菜が入っているのが好き」、「方言がい

っぱい入っていて楽しい」と矢継ぎ早にお気に入りのポイントを

教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

英 翔和君(12)は「運動会で音頭がなくなったのは寂しい。ど

うにかして受け継ぎたい」と語り、酒井遊心君(11)は「何かの

機会にまたみんなで踊りたい」と言う。そして、みんなで振り付け

の一部を見せてくれた。

 

14年の盆踊り大会を運営した農家太平幸久さん(65)=打木町

=は「青年団をやっていた時に打木じょんがらをみんなで踊っとっ

た」と地元の盆踊りの記憶を教えてくれた。茅ぶき屋根を替える情

景を描いた歌で「茅じゃと そらもう一つ」と一節をそらんじる。

地域の盆踊りは思い出の景色とひもづいているのだろう。

 

取材後、横山さんが最初に考えた歌詞と完成形の歌詞を見比べて

気付いたことがあった。最後の5番の一節が「みんな地域で一つ

になれるよ」から「大人になっても さー 一緒に踊ろう」に変

わっていたのだ。横山さんは「大人になってもふるさとを懐かし

み、帰ってきた時に楽しく踊ってほしい、との思いを込めた」と

振り返ってくれた。

「安原小の児童からは」

安原小の児童からは「町は変わっていくかもしれないけど、10
町は変わっていくかも、戻る3

0年先まで音頭が残っていたらいい」、「いつか教える側に回り

たい」との声も聞いた。大人が安原音頭に託した思いは、子ども

たちへ確かに伝わっていた。安原のど根性6、特色を次代に託す

音頭、児童の運動会種目に、盆踊りを楽しむ住民。若い頃はよく

盆踊りを踊りました。他の町に盆踊りがあるとそこまで踊りに行

きました。とても楽しかった思い出があります。今、思うと若い

というだけで何かの価値があるような気がします。本当に懐かし

い思い出です。

 

 

 

 

 

 

 

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北陸のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4年、弟子独立、半世紀で幕

と(北陸のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4

年、弟子独立、半世紀で幕)

北陸のすしを牽引

北陸のすしを牽引してきた野々市市太平寺1丁目の「太平寿し」が



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今月末で半世紀の歴史に幕を下ろす。全国の食通にもファンが多く、

してきた野々市市

その腕前と気さくな人柄で店の評判を高めた前店主の高谷進二郎さ
太平寺1丁目の「太平寿し」が

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んが死去してから4年。弟子たちは相次いで独立し、職人の確保が

 

ままならなくなった。女将の美知子さん(73)は亡き夫が育てた

名店の看板をしまうことを決断、常連客からは惜しむ声が上がって

いる。

 

(今月末)

太平寿しは1972(昭和47)年、高谷さんの兄勲さんが開いた

店が原点だ。高谷さんは大学卒業後に大手飲料メーカーに就職予定

だったが、店の手伝いから、そのまま職人として歩み始めた。

「一手間をかけて魚のうま味を」

一手間をかけて魚のうま味を引き出す創作すしと、話好きなユーモ
引き出す創作すしと、話好きな、戻る1

アあふれる人柄で一躍人気店になった。看板メニュー「のど黒の蒸

しずし」は今も訪れた客のほとんどが注文する逸品だ。

 

しかし、高谷さんが2018年、68歳で他界すると、新型コロナ

ウイルスの感染拡大の影響もあり、店を取り巻く環境は悪化した。

当時いた6人の弟子たちのうち、4人が独立や他店に移るなど次々

と店を離れた。

 

今年9月からは美知子さんのおいで現在大将を務める向野公士さん

(45)と、高森悠平さん(30)が2人ですしを握ってきたが、高

森さんも今月で退職することに。向野さんだけでは、カウンター9

席と、座敷2部屋を切り盛りできなくなるため、新たな職人を探し

たものの、コロナ禍で飲食業が敬遠されがちだからか、代わりは見

つからなかった。

 

 

 

 

 

 

「サービスを落としてまで」

サービスを落としてまで営業すれば、夫が守ってきた看板に傷がつ
営業すれば、夫が守ってきた看板に、戻る2

くと、美知子さんは悩んだ末に閉店することにした。そう決めると

自然に涙があふれてきたという。

 

「自分の店を持ちたいという思いは誰でも持っている。引き留める

ことはできない」と店で修業した職人たちを快く送り出してきた美

知子さん。巣立った高谷さんの弟子たちは「鮨八や」「飛」「河原

町一」「鮨処あいじ」など金沢市内の各店で板場に立つ。

 

向野さんは高谷さんと過ごした18年を振り返り「大将はすしを握

る技術もすごかったが、お客みんなに話し掛けて、目と耳がいくつ

あるんだと思うくらい器用だった」と懐かしそうに目を細めた。

「営業29日が最後で、食べ納めに」

営業29日が最後で、食べ納めに訪れる人で予約が埋まっている。
訪れる人で予約が埋まっている、戻る3

回転すしチェーン「もりもり寿し」を経営する上野謹一さん(5

6)も常連客の1人。上野さんは「最初は勉強のために来たが、

ほっとできる店の雰囲気が好きだった。進二郎さんは多くの弟子

を育てたから、その思いはつながっていくはず」と話した。北陸

のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4年、

弟子独立、半世紀で幕。名物大将の寿しを握る腕前は素晴らし

かったが、話好きで優しい人柄でどんな客とでも話をしていた。

その気さくな性格が客を引き付けていた。そこが最大の魅力で

あった。

 

 

 

 

 

 

 

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大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」

 

(大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、

課題は「交通問題」)

大野から金沢港を

大野から金沢港を望む護岸は、釣り人の人気スポットだ。夜にはラ



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イトアップされた金沢港クルーズターミナルが遠くに見える。

望む護岸は、釣り人の

「金沢港は、住民の長年の夢だったんや」。町会連合会の粟森長八
人気スポットだ。夜には

外部リンク

さん(78)=大野町4丁目=を訪ねると、問わず語りに港整備の

歴史を言い始めた。

 

明治時代の大野の地図を見せてもらった。県金沢港大野からくり記

念館がある大野町4丁目周辺と、石油基地などがある対岸の粟崎の

丘は陸続きだった。港を造るため、農地を掘り込み、まちの形を大

きく変えたことがよく分かった。

 

(「復活劇」夢見て)

なぜ大野の人々は、これほど大がかりな港整備工事を受け入れたの

か。それは、鉄道の発達や自動車の登場で打撃を受けた舟運のまち

・港町大野にもう一度人を呼び込むための「復活劇」を夢見ていた

からだった。

 

大正時代、住民は大型船の着港を見据えて「金沢港整備」の声を上

げていた。1935(昭和10)年、旧大野町が金沢市との合併を

選んだのも「金沢港実現のため、住民の気持ちが一つになったから」

と粟森さんはみる。

「大がかりな掘り込みが必要」

大がかりな掘り込みが必要な金沢港整備の一大プロジェクトは、戦
金沢港整備の一大プロジェクト、戻る1

争の勃発などで幾度となく浮かんでは消えた。だが、三八豪雪で陸

上交通が破壊的な打撃を受けると、金沢港整備計画が一気に現実味

を帯びた。地元では開港に向けた建設用地の確保などを進め、70

年11月、悲願の金沢港開港となったのである。

 

金沢港は完成した。それでも大野に昔ほどの活気が戻ったとは言い

難い。昭和の終わり頃に若者世代の流出が進み、人口減が課題とな

った。そこで大野の住民が中心となって1988年に「まちづくり

委員会」を組織し、新たな大野の整備へ構想を練ってきた。

 

構想の中には港近くにある「お台場公園」整備やからくり記念館設

立の実現、子育て世代の増加を目指した県営住宅の誘致など、すで

に形になったものがある。

 

 

 

 

 

「大野のまちの象徴的な存在」

大野のまちの象徴的な存在といえるのが、98年に商工会の有志が
といえるのが、98年に商工会の有志、戻る2

設立した、カフェ兼ギャラリーの「ギャラリー&茶論 もろみ蔵」

だ。使われなくなったしょうゆ蔵をまちの活性化に生かそうと、9

8年にオープンした。

 

住民と観光客の憩いの場となっている蔵は、所有する「紺市醬油」

の紺田健司さん(72)が管理する。紺田さんは蔵のオープンを皮

切りに、他の建物も工房や店舗として貸し出し、一帯には大野の外

からやってきた人による出店が4件あった。自身も観光ガイドとし

て活動する紺田さんは「大野をリピーターが来るまちにしたい」と

笑みを見せる。

 

課題は「交通問題」

早くから「まちづくり」が意識されてきた大野。住民に今の課題を

尋ねると、「交通問題」を挙げる人が多かった。

 

大型クルーズ船の客が大野へ気軽に訪れることができたら。年間7

万5千人が来場する「糀パーク」は、もっとにぎわっているだろう。

市内全体の観光にも効果が波及するかもしれない。口々に大野の発

展を熱く語る人々を前にすると、自然と夢が膨らむ。

「金沢の城下町とは違った発展」

金沢の城下町とは違った発展の歴史をたどった「むらさきのまち」。
歴史をたどった「むらさきのまち」、戻る3

しょうゆ造りや祭礼を守るいちずさと、外からもたらされた文化や

人を柔軟に受け入れる懐の深さ。まちの形が金沢港整備で大きく変

わったが、大野の精神は今も息づいている。金沢の「海の玄関口」

として、たくましく発展するのだろう。大野はむらさき6、金沢港

から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」。醬

油は昔から大野が有名である。家では今でも大野醬油を使っていま

す。他の醬油は使いません。おいしい醬油です。

 

 

 

 

 

 

 

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署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5人帰国20年、「この時計は母」

((署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5人帰国20年、「この

時計は母」)

1978年に北朝鮮

1978年に北朝鮮へ拉致された蓮池薫さん(65)と妻祐木子さ



内部リンク

ん(66)=新潟県柏崎市、曽我ひとみさん(63)=同県佐渡市、

拉致された蓮池薫さん

地村保志さん(67)と妻富貴恵さん(67)=小浜市=が200
(65)と妻祐木子

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2年10月に帰国して、15日で20年となった。5人は仕事や生

 

活の傍ら、拉致問題の解決を願い、講演や署名活動で訴え続けてい

る。

 

北朝鮮は今年に入り弾道ミサイル発射を繰り返し、日朝関係は膠着

状態となっている。政府が認定した残る被害者12人の帰国への道

は依然遠い。待ちわびる家族の高齢化だけが進み、近年は横田めぐ

みさん=失踪当時(13)=の父滋さんらが相次いで亡くなった。

 

02年9月に当時の小泉純一郎首相が訪朝し、金正日総書記が拉致

を認めて謝罪。蓮池さんら5人は翌月、帰国を果たし、04年に北

朝鮮に残した子どもら7人が来日した。

 

(拉致被害者5人・帰国20年)

蓮池さんは、柏崎市の新潟産業大准教授として朝鮮語などを教える。

翻訳や著書の執筆に取り組み、12年には北朝鮮での生活をつづっ

た手記「拉致と決断」(新潮社)を出版した。

「佐渡市の養護老人ホームで」

佐渡市の養護老人ホームで介護の仕事をしている曽我さんは、街頭
介護の仕事をしている、戻る1

署名や講演会で、母ミヨシさん=同(46)=らの思い出や北朝鮮

での生活を語るなど精力的に活動している。夫のジェンキンスさん

は「佐渡歴史伝説館」の土産物店で働いていたが、17年12月に

77歳で亡くなった。

 

地村さんは勤めていた小浜市役所を16年3月に定年退職した。そ

の後は同市内で署名活動や拉致問題啓発の講演会に参加している。

富貴恵さんも福井県の嘱託職員を退職し、3人の子どもは県内企業

に就職するなどしている。

 

(「この時計は母」)

母から贈られた大振りの腕時計。准看護師として働き始めたころに、

患者の脈を測るのに便利だと選んだ。その後、24年に及ぶ北朝鮮

での生活と、帰国後に母を待つ20年という長い時間をともに過ご

してきた。

「この時計は母であり、何かにくじけそうになると𠮟ったり励まし

てくれる宝物」。北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんにとって、一

緒に連れ去られた母ミヨシさんを含む被害者がもどらない限り、拉

致問題は終わらない。

 

 

 

 

 

19歳だった1978年8月12日、新潟県佐渡市(当時真野町)

で母と道を歩いていたところ、男3人にいきなり袋をかぶせられ、

担いで運ばれた。乗せられたのは船。ミーティング港に着くと日

本語で「北朝鮮だ」と言われた。動転したが、一緒にさらわれた

はずの母がいないのが、何より心配だった。

 

母は、楽ではない暮らしの中で朝は田畑を耕し、昼は工場に勤め、

夜は内職を続け、その生活に愚痴の一つもこぼさなかった。小学

校の遠足では、ウインナーと卵焼きがたくさん入った弁当を作っ

てくれた。ただ、母のおかずは少しの漬けものだけ。

「辛いから、ご飯がいっぱい食べられるんだよ」と笑っていた。

「友達の浴衣がうらやましい」

友達の浴衣がうらやましいとねだると、夜を徹して縫ってくれ
ねだると夜を徹して、戻る2

た。寒い雪の日の帰り道、「仕事が早く終わった」と駆け寄っ

てきて上着に包んでくれた。涙ににじむ思い出の中でも、いつ

も笑顔だった母。拉致された日から、会えていない。

 

北朝鮮では新しい家族ができた。元米兵で亡命していたチャー

ルズ・ジェンキンスさんと結婚、2人の娘を授かった。

 

2002年に帰国、北朝鮮に残っていた家族も04年に来日し、

佐渡市で一緒に暮らし始めた。父茂さんは05年になくなった

が、時間を共有することが実現した。家族も地元になじむ努力

を惜しまず、友人らにも支えられた。

 

ただ、「幸せな分、ここに母がいなきゃな」との思いは消えな

かった。そして夫は17年に亡くなった。娘2人も家庭を持ち、

今は1人暮らしだ。

 

北に残る拉致被害者に危害が及ぶのを恐れ、活動を抑えてきた

時期もあったが、次第に積極的に支援を呼びかけるようになっ

た。「わずかな時間でも、母ちゃんを取り戻して、ともに過ご

したい」との思いからだ。

「腕時計が傷つき電池が」

腕時計が傷つき、電池が切れるたびに母に何かあったかと不安
切れるたびに母に何か、戻る3

になる。それでも、いつか帰る日を祈りながら、時を刻む針を

見つめ続けている。署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5

人帰国20年、「この時計は母」。曽我ひとみさんの母親は苦

労人で良く働く人でした。母親のご飯のおかずは漬けものだけ

です。それでも辛いからご飯が進むのよと言って笑っていたそ

うです。どんなに辛くても笑顔のたえない人でした。母親の所

を読むと自然に涙が出てきて止まりませんでした。娘の弁当の

おかずはたくさん作ったそうです。自分は我慢しても娘にはひ

もじい思いをさせたくなかったのでしょうね。本当に心から感

動しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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