「本町銀座」を再び、天皇の休息所令和に伝え、遺産守る使命感も継承。

野々市市本町の旧北國街道を北に進んで歩くと、入母屋造りの旧家

野々市市本町の旧北國街道を

野々市市本町の旧北國街道を

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が見えてくる。2021年に市内で初めて国の登録有形文化財にな

「北に進んで歩くと」

北に進んで歩くと

った田村家(旧藤村家)住宅だ。近代和風建築の豪壮なたたずまい
「入母屋造りの旧家」

入母屋造りの旧家

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北に進んで歩くと

入母屋造りの旧家

は宿場町があったころの街道の雰囲気を感じさせる。

普段は公開していないが、当主の田村昌俊さん(88)の案内で中

を見せてもらった。田村家は明治から大正期に活躍した実業家で野

々市村村長も務めた藤村理平の旧宅1878(明治11)年に明治

天皇が北陸を巡行した際、離れにある座敷が天皇の休息所として用

いられた。

 

明治天皇が休憩した座敷は畳敷きで、仏間と床の間のある落ち着い

た間取りだ。室内からは築山や灯籠を配置した造りの庭園を眺める

ことができ、地域の歴史を今に伝える。12年前に一度だけ一般公

開したところ、一日で700人が訪れた。昨年11月には街道の旧

家の庭を巡る歴史まち歩き講座の会場になり、参加者の関心を集め

たのもうなずける。

「建築されたのは明治前期と」

建築されたのは明治前期と伝わるが、しっかり手入れされているよ
伝わるが、しっかり手入れされている、戻る1

うで、それほど古いとは感じられなかった。田村さんは「日頃から

丁寧に掃除し、ほこりを落としている」と説明してくれた。

 

「どうしても残したい」

田村さんによると、母屋は1937(昭和12)年に立て直した

が、明治天皇が休息した座敷だけはそのまま残された。田村さんは

「おやじは明治天皇の小休止した部屋だけは、どうしても残したい

と強い信念があった」と振り返る。

 

ただ、旧家を維持するには維持費がかさむなど苦労が多いそうだ。

台風が来れば雨戸の隙間から風雨が染み込むが、見栄えを考える

と、アルミ製に替えづらい。扉やふすまが傷んで取り替えるにも同

じものが見つからず、大工に頼み、修理して使い続けている。

 

田村さんは「壊すのは簡単だが、元に戻せなくなる。苦労はする

が、明治天皇が小休止した座敷や価値ある遺産を後世に残していか

なければならないという使命感に近い」と決意をのぞかせる。

「街道沿いには昭和30年代以前に」

(きちんと直す必要)

街道沿いには昭和30年代以前に建てられた歴史的建造物が約40
建てられた歴史的建造物が、戻る2

件あり、文化資産を残すため、市も本腰を入れ始めた。今年度は修

理・修復費の補助制度を設け、早速2件の利用があった。うち1件

は田村家の表門の土塀修復で、市の担当者は「登録文化財になって

いる以上、見てもらうためにもきちんと直していく必要がある」と

話す。

「街道沿いをあらためて歩き、往時の」

街道沿いをあらためて歩き、往時の面影を色濃く残す景観を守り、
面影を色濃く残す景観を守り、戻る3

磨いていく人たちに出会った。この貴重な街並みを生かせば、かつ

て「本町銀座」と呼ばれたにぎわいの再生につながるだろう。「本

町銀座」を再び、天皇の休息所令和に伝え、遺産守る使命感も継

承。田村さんによると、母屋は1937(昭和12)年に建て直し

たが、明治天皇が休憩した座敷だけはそのまま残された。田村さん

は「おやじは明治天皇の小休止した部屋だけは、どうしても残した

いと強い信念があった」と振り返る。

 

 

 

 

「本町銀座」を再び、にぎわいも生き方も示す「道」、利用広がるカミーノ。

野々市市本町のシンボルの一つが、市が市民の交流の場として整備

野々市市本町のシンボルの

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した施設「カミーノ」。公民館などが入り、4月でオープン5周年

延べの来館者数は70万人で、

を迎える。延べの来館者数は70万人で、活動ルームの登録団体も
活動ルームの登録団体も

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増えている。この中に、一風変わった取り組みをしている人たちが

いると聞き行ってみた。

(大人だけの読み聞かせ)

17日、活動ルームで行われていたのは絵本の読み聞かせ。男女2

人の感情のこもった朗読が部屋に響いていたが、耳を傾けているの

は、子どもではなく大人ばかりだった。

 

この団体、「絵本・つむぐ・未来」の代表木村志津恵さん(49)

=野々市市=と、伴正広さん(57)=同=は県内初の絵本セラピ

ストで、昨年9月から大人向けの絵本の読み聞かせを行っている。

 

会場に並べられた約50冊から好きな1冊を選べば2人が読んでく

れるスタイル。この日の参加者は30~80代の女性が10人で、

うなずいたり、涙を浮かべたりしながら、絵本の世界に入り込んで

いるようだった。

 

母親(63)に誘われ始めて参加したという山下友美さん(40)

=白山市=が持ってきたのは「たくさんのドア」(主婦の友社)。

「あなたはたくさんのドアをあけていく。そのむこうにたくさんの

あたらしいことがまっている」。文字で読む以上に伝わるものがあ

るのだろうか。木村さんの優しい語り口で紡がれる文章に、山下さ

んは笑顔になった。

 

介護職で、将来への漠然とした不安にさいなまれているという山下

さん。「悩んでもいいんだということを絵本に教えられ、前向きに

なれた」とすっきりとした表情を見せた。

 

木村さんに今お薦めの絵本を聞いてみると、ブタの親子が登場して

抱きしめ合うことの大切さを表現した1冊を教えてくれた。「震災

でみんな心が弱っている。ぎゅってしてもらえるとエネルギーに変

わる。絵本は心のごはんだと思う」と力を込める。

「カミーノに登録している市民団体は」

(58団体が登録)

カミーノに登録している市民団体は現在58あり、活動内容は多種
現在58あり、活動内容は、戻る1

多様だ。このうちの一つ、市民劇団NONO(のの)は、カミーノ

が整備される前は稽古の場所探しにいつも苦労していたそう。

 

今は鏡張りの多目的室を主に使い、22、23日に開く定期公演

「人生が二度あれば」に向けた仕上げの真っ最中。代表の中川誠さ

ん(38)は「カミーノは駐車場が広くて中心部にあるからメンバ

ーが通いやすい。助かっています」と話す。

市の花であるツバキの普及を目的としたところがあれば、子育て、

防災のほか「終活」を掲げたところもあり、それこそ市民の「生き

方」を支えるような場所にもなっている。

 

カミーノはスペイン語で「道」を意味する。かつて栄えた北国街道

沿いににぎわいをと建てられた施設は、5年がたって利用が定着

し、この地に多くの人を呼び込む、新たな道を示しているように感

じた。「本町銀座」を再び、にぎわいも生き方も示す「道」、利用

広がるカミーノ。絵本の大人だけの読み聞かせは活動ルームで行わ

れていた。男女2人の朗読が行われるが2人とも県内初の絵本セラ

ピストで、昨年9月から大人向けの絵本の読み聞かせを行っている。

 

会場に並べられた約50冊から好きな1冊を選べば2人が読んで

くれるスタイル。この日の参加者は30~80代の女性が10人

で、うなずいたり、涙を浮かべたりしながら、絵本の世界に入り

込んでいるようだった。

 

母親(63)にさそわれ初めて参加したという山下友美さん(4

0)=白山市=が持ってきたのは「たくさんのドア」(主婦の友

社)。「あなたはたくさんのドアをあけていく。そのむこうにた

くさんのあたらしいことがまっている」。文字で読む以上に伝わ

るものがあるのだろうか。木村さんの優しい語り口で紡がれる

文章に、山下さんは笑顔になった。

 

介護職で、将来への漠然とした不安にさいなまれているという

山下さん。「悩んでもいいんだということを絵本に教えられ、

前向きになれた」とすっきりした表情を見せた。

「木村さんに今お薦めの絵本を聞いて」

木村さんに今お薦めの絵本を聞いてみると、ブタの親子が登場
みると、ブタの親子が、戻る2

して抱きしめ合うことの大切さを表現した1冊を教えてくれ

た。「震災でみんな心が弱っている。ぎゅってしてもらえると

エネルギーに変わる。絵本は心のごはんだと思う」と力を込める。

 

(58団体が登録)

カミーノに登録している市民団体は現在58あり、活動内容は

多種多様だ。このうちの一つ、市民劇団NONO(のの)は、カミー

ノが整備される前は稽古の場所探しにいつも苦労していたそう。

 

今は鏡張りの多目的室を主に使い、22、23日に開く定期公演

「人生が二度あれば」に向けた仕上げの真っ最中。代表の中川誠さ

ん(38)は「カミーノは駐車場が広くて中心部にあるからメンバ

ーが通いやすい。助かっています」と話す。

 

市の花であるツバキの普及を目的としたところがあれば、子育て、

防災のほか「終活」を掲げたところもあり、それこそ市民の「生

き方」を支えるような場所にもなっている。

「カミーノはスペイン語で道を」

カミーノはスペイン語で「道」を意味する。かつて栄えた北国街
意味する。かつて栄えた、戻る3

道沿いににぎわいをと建てられた施設は、5年がたって利用が定

着し、この地に多くの人を呼び込む、新たな道を示しているよう

に感じた。「本町銀座」を再び、にぎわいも生き方も示す「道

」。利用広がるカミーノ。大人だけの読み聞かせが、活動ルーム

で行われていた。男女2人の感情のこもった朗読が部屋に響いて

いた。これは代表の2人で県内初の絵本セラピストで、昨年9月

から大人向けの絵本の読み聞かせを行っている。

 

 

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医療の道へ一歩、七尾高・石坂さん京大合格、地震で憧れ強まる。

七尾高理数科3年の石坂聖也さん(18)=七尾市万行町=が12

七尾高理数科3年の

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日までに、京大医学部人間健康科学科に合格した。受験に向けた追

石坂聖也さん(18)

い込みの真っ最中に地震に見舞われたが、大きく変わった日常の中
=七尾市万行町=が

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でも勉強を続け、難関を突破した。もともと医療分野に関心を持っ

 

ていた石坂さん。被災地で活躍する関係者の姿を見て憧れはさらに

強まり「自分もいつか同じ道へ進みたい」と意気込んだ。

 

石坂さんは元日、JR七尾駅前の「ミナ・クル」にある共有スペー

スで勉強に励んでいた。激しい揺れの後、大津波警報を受けてビル

の上階に避難。迎えに来た親と合流し、自宅近くの公園に逃げ込ん

だ。

自宅の建物は無事だったが、断水で不便な生活を強いられることに

なった。友人が金沢に避難するなど周囲の環境も変わり、心の負担

になった。

「しかし、1月上旬、生徒のために」

しかし、1月上旬、生徒のために学校が解放されると、校舎で猛勉
学校が解放されると、校舎で、戻る1

強。「いつも学んでいた学校を使えて安心した」。慣れ親しんだ学

びやが精神を落ち着けてくれたという。

 

共通テスト前は予定されていた演習授業を受けられず、自力で問題

を説き続けた。逆境でも最大限に努力し、試験には「自信を持って

臨めた」という。同じクラスで互いに高め合ってきた福井隆介さん

とともに合格を勝ち取った。

 

小学校時代に1カ月ほど入院したことがきっかけで、医療に興味を

持った石坂さん。能登半島地震では多くの医療者が石川県入りし、

看護師である友人の母は発災後すぐ病院に向かったと聞いた。

 

京大の人間健康科学科は、看護師や理学療法士、保健師などの養成

を目的としている。石坂さんは、どの道に進むか今はまだ決めてい

ないとし「困っている人がいたらすぐ動ける人になりたい」と語っ

た。

「羽咋高から難関の旧帝大に現役生

(羽咋高、旧帝大に6人)

羽咋高から難関の旧帝大に現役生6人が合格した。旧帝大合格者は
6人が合格した。旧帝大合格者は、戻る2

3年ぶり。学校側は入試直前に地震に見舞われながらも夢をかなえ

た生徒をたたえた。

 

大阪大に磯大毅さん(外国語学部)と上野真諒さん(経済学部)、

名古屋大に竹内丈一朗さん(工学部)と三波凪紗さん(医学部保健

学科)、北海道大に西村悠生さん(総合理系)と橋本拓歩さん(水

産学部)が受かった。全4クラスから合格者が出た。

 

羽咋高は能登半島地震の影響で校舎が使えなくなり、3年生は国立

能登青少年交流の家で受験対策に励んだ。西村さんは「地震があっ

たからこそみんな一致団結できたと思う」と振り返り、「水も通っ

ていて勉強にはいい環境だった」と語った。

「同校では、2年時から高いレベルの

同校では、2年時から高いレベルの大学受験を意識付けし、志望別
大学受験を意識付けし、戻る3

に講座や補習を実施して学力と結束力を高めた。進路指導課の山崎

慎介主任は「何より生徒の底力が発揮された」と語り、報告に訪れ

た生徒に「合格がゴールじゃない。いろいろな人と交わってさらに

頑張って」とエールを送った。医療の道へ一歩、七尾高・石坂さん

京大合格、地震で憧れ強まる。受験直前に地震の被害を受けた。1

月上旬、学校が解放されると、校舎で猛勉強。慣れ親しんだ学びや

が精神を落ち着けてくれたという。試験には「自信を持って臨め

た」という。

 

 

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鉄道ファン歴44年の記者語る、各列車伝説の彼方へ、黄金時代の足跡に感慨。

(白鳥・昼行として最長誇る)

北陸線の特急の歴史は昭和36年10月に登場した「白鳥」に始ま

北陸線の特急の歴史は

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る。大阪と青森を結び、運行距離は千キロ超。日中走る「昼行特

昭和36年10月に

急」としては最長を誇り、乗り通すと15時間以上かかった。
登場した白鳥に

外部リンク

 

当初、大阪から青森に行く「日本海白鳥」と、直江津で切り離して

 

上野に向かう「信越白鳥」が連結して走り、いずれにも食堂車があ

った。

 

(雷鳥・日本の代表格に成長)

昭和39年12月に運転を始めた「雷鳥」は、スピードアップして

「スーパー雷鳥」、新型車両となって「サンダーバード」と進化し

ながら、定期列車だけで一日25往復の「日本を代表する特急」に

成長した。今は大阪と金沢・和倉温泉を結ぶ。新幹線金沢開業前は

富山や魚津まで走り、スーパー雷鳥時代は神戸発着の便もあった。

「昭和60年代には」

昭和60年代には畳敷きの「和風車だんらん」、七尾線直通の観光
畳敷きの和風車だんらん、戻る1

特急「ゆうトピア和倉」を連結して走ることもあった。ほかにも平

成2年に大阪で開催された「花と緑の博覧会」見物向けの「エキス

ポ雷鳥」、単身赴任者向けの「ホームズ雷鳥」「ビジネスサンダー

バード」、富山地方鉄道に乗り入れた「スーパー雷鳥宇奈月」など

多彩で、「特急の王者」として君臨した。

 

雷鳥と同じ昭和39年に名古屋ー富山間に登場した「しらさぎ」は

運転区間がほぼ変わらず、全国でも「最古参の特急」だ。金沢ー新

潟間を結んだ「北越」も昭和44年の登場当初は大阪ー新潟間の列

車で、北陸線を彩った。

 

(加越・東海道新幹線と連絡)

昭和50年には米原発着の「加越」が運転を始めた。「雷鳥」が米

原経由から湖西線経由に変更されたため、東海道新幹線との連絡が

手薄にならないよう設定された。昭和63年には「加越」の速達版

「きらめき」が誕生。同年、現在の北陸新幹線と同名の在来線特急

「かがやき」も登場し、金沢と長岡を結んで上越新幹線に接続した。

「ブルートレイン(寝台特急)」

(寝台列車・夜空に放つ輝き)

ブルートレイン(寝台特急)も北陸線に輝いた。昭和43年登場の
も北陸線に輝いた、戻る2

大阪ー青森間「日本海」、昭和47年登場の大阪ー新潟間「つる

ぎ」は、高速道路や航空路が十分ではなかった時代、日本海側の貴

重な足として親しまれた。昭和63年に青函トンネルが開通すると

「日本海」は函館まで直通した。

 

大阪から北陸線を走り、札幌まで足を伸ばす豪華寝台列車として平

成元年、満を持して登場したのが「トワイライトエクスプレス」

だ。車窓を独占できる個室、一流レストラン並みの食堂車など「究

極の汽車旅」を楽しめる鉄道ファンのあこがれだった。

「16日からサンダーバードは」

16日からサンダーバードは敦賀ー大阪間、しらさぎは敦賀ー名古
敦賀ー大阪間、戻る3

屋・米原間となり、愛称は残るものの、運行距離は大幅に短縮され

「新幹線リレー列車」へと性格を変える。「鉄道黄金時代」を今に

伝える北陸の名特急たちは、まもなく伝説の彼方へと走り去る。鉄

道ファン歴44年の記者語る、各列車伝説の彼方へ、黄金時代の足

跡に感慨。北陸新幹線が敦賀まで延伸してから、北陸線の特急はす

べて敦賀での乗り換えになった。古い特急は消え去ると思います。

新型の特急はどんな車両になるのだろうか。非常に興味がありま

す。

 

 

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15日石川県内ラストラン、さよなら「特急銀座」北陸線、それぞれに思い出。

北陸新幹線の敦賀延伸まで一週間を切った。延伸と同時に特急「サ

北陸新幹線の敦賀延伸まで

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ンダーバード」と「しらさぎ」は敦賀止まりとなり、北陸線を走っ

特急が石川県内から消える

た特急が石川県内から消える。北陸線は国鉄時代から「特急銀座」
北陸線は国鉄時代から特急銀座

外部リンク

と呼ばれるほど、特急列車の運行本数・種類ともに豊富で、旅行や

 

ビジネス、帰省など多彩な場面で活躍した。人それぞれに思い出が

あり、15日のラストランを前に「寂しい」と声が上がる。

 

小松駅のほど近く、土居原町の公園に、かつて北陸と東京・大阪を

結ぶ特急に使われた車両が展示されている。赤とクリーム色の「国

鉄色」に塗られ、スタイルは、昔懐かしい「ボンネット型」だ。管

理するのは、その名も「ボンネット型特急電車保存会」の岩谷淳平

事務局長(48)=小松市下牧町=である。

 

岩谷さんにとって原風景の一つは、小学校に入って間もないころ、

JR粟津駅近くの線路際にある母方祖父の家で見た「雷鳥」「しらさ

ぎ」「白鳥」など北陸線の特急だ。

「まだ漢字が分からず、祖父や

(駅員に感心され)

まだ漢字が分からず、祖父や兄に聞いて「雷鳥は大阪行き、しらさ
兄に聞いて雷鳥は大阪行き、戻る1

ぎは名古屋、白鳥は青森・」と教えてもらった。その知識を駅員に

披露すると「よく知ってるね」と感心され「すごく鉄道好きな子が

いる」とかわいがられた。

岩谷さんは、懐かしの特急が石川県内から消えることに「自分たち

の時代じゃなくなったのかな・」とポツリ。だが往年の特急に郷愁

を覚える人は多く、「想い出を追体験できる施設」としてボンネッ

ト型特急を大事に管理していくつもりだ。

 

北陸線の特急は「家族の絆」を結ぶ列車でもある。内灘町大根布4

丁目の潟渕幸子さん(75)は、昨年亡くなった夫が名古屋に単身

赴任していたころ「しらさぎ」に乗って月1回会いに行った。最も

想い出深い列車だ。「金沢駅から乗り込む時はいつもワクワクして

いた。寂しくなります」と惜しむ。

 

津幡町清水の宮一正樹さん(80)は60年前、金沢ー富山間で雷

鳥の試乗会に参加した。呉羽山のトンネルを抜けた瞬間に見えた北

アルプスが目に焼きつき「あの大パノラマは忘れられない」と振り

返る。

「北國銀行出身で、現在は新家工業」

(大阪延伸、絶対見たい)

北國銀行出身で、現在は新家工業常務の浜田哲洋さん(64)=七
常務の浜田哲洋さん(64)、戻る2

尾市出身、大阪市在住=は慶大時代に「国鉄全線2万キロ」を完全

乗車した。能登に親がいるので、今もサンダーバードを年20回以

上利用する。

 

「仕方ない話だが、今の駅はどこもほとんど同じで・」。かつては

金沢駅に行くと個性豊かな特急たちに出合えたが、その風景もなく

なる。キオスクはコンビニに変わった。「便利になった証しでもあ

るが、昔の名残がなくなるのは惜しいです」

子ども時代に出てきた北陸新幹線の

子ども時代に出てきた北陸新幹線の構想が実現し、敦賀まで延伸す
構想が実現し、敦賀まで延伸、戻る3

る。「うれしいことはうれしい。ただ、この年齢になると、北陸新

幹線が大阪まで延びるのを見られるかな・と考えたりもする。でも

絶対に見たい」。時代によって姿は変われど、鉄道は昔も今も、こ

れからも、人々の夢をかき立てる。15日石川県内ラストラン、さ

よなら「特急銀座」北陸線、それぞれに思い出。確かに昔は雷鳥、

しらさぎ、白鳥などの北陸線の特急がたくさんあった。それがいま

消えようとしている。寂しい話である。

 

 

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交わって千坂、路上で1200人が交流、海側環状の開通契機に。

古くから金沢の「北の玄関口」と呼ばれた千坂地区。時代とともに

古くから金沢の「北の玄関口」

内部リンク



道路が、鉄路が縦横に延びては交差し、変化し続ける地域環境にあ

と呼ばれた千坂地区

って、今も昔も住民が大切にする「交わり」の一端をのぞき見た。
時代とともに

外部リンク

(交通網と共に発展)

約5200世帯、1万1600人が暮らす千坂校下エリアは、市内

「振り返れば、交通網の発達とともに」

の校下でも有数の大所帯だ。

振り返れば、交通網の発達とともに変貌してきた地域である。現在
変貌してきた地域である、戻る1

の国道359号はかつての北國街道で、加賀藩主も往来した道沿い

に村々が栄えた。稲田と蓮田が広がる田園地帯は、昭和40年代後

半に国道8号金沢バイパスや北陸自動車道が通ると宅地開発が進み、

沿道に商業施設も集積していった。

「そんな千坂地区に新たな交わりが」

そんな千坂地区に新たな「交わり」ができたのが2022年11月
できたのが2022年11月、戻る2

のこと。金沢外環状道路海側幹線(海側環状)大河端町ー福久町間

の開通である。国道8号を介して外環の海側と山側がグルリとつな

がり、さらにアクセスが向上した福久周辺では地価が1割ほど上昇

した所もあり、近隣団地への転入も加速しているらしい。

「金沢バイパスの開通以来」

「道路で遊ぼう」

「金沢バイパスの開通以来、地元では半世紀ぶりの大公共事業です
地元では半世紀ぶりの大公共事業、戻る3

からね。これは住民が交流を深めるチャンスだぞ、と」

 

そう語る千坂校下町会連合会の浦良一会長(75)=福久町=は、

海側環状の開通を控えた22年9月、福久町の交差点付近を歩行者

天国にした異例のイベントを仕掛けた。「道路の真ん中でめいっぱ

い遊ぼう」と各種団体に呼び掛けたところ、賛同の輪が広がり、新

旧住民1200人以上が集まる予想外の大にぎわいとなったのだ。

 

地元の獅子舞や消防団のはしご登りが勇壮に披露され、特産の加賀

レンコンは1時間足らずで250本が完売。路上には子供らが地域

のシンボルであるハスをでかでかと描いた。

 

「道路が及ぼす影響は、渋滞緩和などの単純なものだけじゃない。

今後の町づくりをみんなで考えるきっかけとして大きなインパクト

を与えてくれる」と浦会長。現役時代は県庁マンとして土木畑を歩

み、さまざまな大型公共事業の陣頭指揮を執っただけに説得力のあ

る言葉だ。海側環状が接続したこのエリア、20年ほど前に地元が

開発計画をぶち上げ、市にも陳情したが、立ち消えになった経緯が

あるという。開発行為が規制される市街化調整区域の縛りはあるが

浦会長は「地域の活性化につながる施設をあらためて誘致できない

か」と青写真を描き始めている。新時代の千坂地区が「北の玄関

口」にふさわしい発展を遂げられるか、住民の結束が浮沈の鍵を握

っている。交わって千坂、路上で1200人が交流、海側環状の開

通契機に。開通前に歩行者天国を考えたというのはすごいと思う。

獅子舞やはしご登りもやったのもすごいことです。

 

 

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