友だちと一緒がやっぱり楽しい、校舎合同で3小中、60人登校、門前学校再開。

「友だちが元気で良かった」「久しぶりに話せてうれしい」。能登

友だちが元気で良かった

内部リンク



半島地震の影響で休校が続いていた輪島市の全小中学校12校のう

「久しぶりに話せて」

ち、門前地区の3校で24日、学校が再開され、子どもたちの笑顔

「うれしい}。能登

外部リンク

が広がった。校舎は門前東小を使用し、同校と門前西小、門前中の

 

計約60人が登校した。児童生徒は級友との久々の再開を喜び、当

たり前の日常をかみしめた。

(門前学校再開)

24日は児童生徒の顔合わせが目的で、午前9時~正午のみ開校し

た。スクールバスの運行会社が被災した影響で、児童生徒は雪がふ

ぶく中、徒歩や保護者の送迎で学校へ。校舎の前で先生や友だちの

姿を見つけると、満面の笑みで駆け寄り、無事を喜び合った。

「通常授業は行われず」

通常授業は行われず、児童生徒は健康観察を受けた後、地震や津波

児童生徒は健康観察を受けた後、戻る1

が起きた際の避難経路を確認した。カウンセリングによる心のケア、

レクレーションを交えた自己紹介などもあった。

 

教室では友だちとの再会を喜ぶ光景が見られた。避難所暮らしをし

ている門前中2年の山崎智央さん(14)は地震後の生活を語り合

ったといい「みんな大変な目に遭っていた。久々にたくさんしゃべ

れてうれしかった」とほっとした様子を

見せた。

 

門前西小4年の高功之助君(9)は「(門前)東小の子とも仲良く

なれそうだった。早く普通の授業に戻ってボール遊びがしたい」と

声を弾ませた。門前中2年の中田萌花さん(14)は「友だちと一

緒にいるのがやっぱり楽しい」と話した。

「市によると、町野地区の町野小と」

市によると、町野地区の町野小と東陽中は1月中に町野小で学校を
東陽中は1月中に町野小で学校を、戻る2

再開する。輪島地区の小中学校は再開のめどが立っていない。

 

(穴水・向洋小は26日、穴水小は29日めど)

穴水町は26日、向洋小の授業を再開する。穴水中では3年生に加

え、1、2年生も授業を始める。穴水小は29日の再開を目指して

準備を進める。

 

(七尾2小学校・中学の校舎で)

七尾市内の2小学校で24日、3学期の授業がスタートした。和倉

小は能登香島中で、中島小は中島中の校舎でそれぞれ再開した。

 

中島小では1~3年生の約8割にあたる56人が登校し、じゃんけ

んゲームなどを楽しんだ。4~6年生はオンライン授業を行った。

25日は1~3年がオンライン、4~6年が対面授業で、隔日で入

れ替える。

「2年生の寺田杏さんは」

2年生の寺田杏さんは「みんなと『久しぶりに会えてよかったね』

みんなと久しぶりに会えて、戻る3

と話した。ゲームをして楽しかった」と声を弾ませた。友だちと

一緒がやっぱり楽しい、校舎合同で3小中、60人登校。学生は

学校へ登校しないと勉強が遅れてしまう。地震に被災しても約8

割の学生が登校して来たのは、立派だと思います。負けないで頑

張ってほしいと思います。

 

 

 

コメント(以下に書いて下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震度7能登金剛に爪痕、巌門の散策道崩れ、遊覧船には津波、「今年は観光無理」

最大震度7を観測した志賀町富来地域にある景勝地「能登金剛」も、

最大震度7を観測した

内部リンク



地震で大きな被害を受けた。一番の見どころにつながる道は崩れ、

志賀町富来地域にある

観光シーズンを2カ月後に控えていた遊覧船も津波で流され無残な

景勝地能登金剛も、

外部リンク

姿をさらす。地盤が隆起して被害の全容すら分からず、関係者は

 

「今年の観光は無理だ」とうなだれる。

「木谷茂之さん(55)。」

「断崖絶壁の荒々しい景色が魅力」と語るのは、能登金剛遊覧船代

表、木谷茂之さん(55)。海岸線29キロにわたり、日本海の荒
「海岸線29キロにわたり、戻る1

波に浸食された奇岩、断崖が続く。中央に位置する洞窟「巌門」が

有名で、松本清張のミステリー小説の舞台にもなった「ヤセの断崖

」、日本最古の木造洋式灯台「旧福浦灯台」など見どころ満載だ。

 

昨年は遊覧船が営業する3月中旬~11月中旬に約4万人が訪れた。

「しかし、地震により巌門の散策道は」

しかし、地震により巌門の散策道は崩れ、柵も崩落し、隆起の影響
崩れ、柵も崩落し、戻る2

も定かではない。陸揚げしていた船は津波で流され、堤防に乗り上

げたままだ。

 

木谷さんは「まさかこんな所まで波が来るとは。船を見た時は『終

わったな』と思った」と話す。隆起の状態を魚群探知機で調査しよ

うにも冬の荒れた海では難しく、多額の資金と時間を要する。

 

例年なら2カ月後の営業開始だが、「今年は無理だろう。いつ再開

できるのか」と肩を落とす。輪島や和倉温泉など能登全域の観光地

が元に戻らなければ観光客も見込めない。道路は陥没や亀裂が多く、

「観光バスが来るとは思えない」と嘆く。

「昨年から七尾港でも遊覧船の運行を」

昨年から七尾港でも遊覧船の運行を始めたが、船着き場のある能登
「始めたが、船着き場のある、戻る3

食祭市場は液状化による被害が大きく、当面の営業を停止。再開の

めどは立たない。木谷さんは「何とか復活させたい」と祈るように

語った。震度7能登金剛に爪痕、巌門の散策道崩れ、遊覧船には津

波、「今年は観光無理」。震度7の地震と言えばかなり大きい。立

ってはいられないと思います。道路は寸断され、津波まで押し寄せ

る。最悪の状態である。巌門と言えば能登でも有名な観光地である。

これは大きなダメージだと思います。

 

 

コメント(以下に書いて下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

届いた「日常」、雪が降りしきる中、北國新聞を届ける油谷さん。

北國新聞販売は24日、穴水町の諸橋地区で、北國新聞朝刊の個別

北國新聞販売は24日

内部リンク



配達を再開した。能登半島地震で深刻な被害を受けた奥能登での再

穴水町の諸橋地区で、

開は初めて。紙面では復旧の状況や生活に必要な情報をきめ細かく

北國新聞朝刊の

外部リンク

伝えており、配達スタッフ、新聞を受け取った読者は、日常の暮ら

 

しが少しずつ戻ってきていることを喜んだ。

 

(北國新聞販売・穴水・諸橋地区)

この日、個別配達されたのは、穴水町宇加川、沖波、竹太、花園、

古君、前波、明千寺の各集落。地震前には約350世帯が暮らし

ていた地域で、北國新聞販売は3日から避難所となっている諸橋

公民館に新聞を届けていた。

「自宅で暮らす住民が比較的多く」

自宅で暮らす住民が比較的多く、配達スタッフが確保できたため、
配達スタッフが確保できた、戻る1

個別配達に向けた準備を進めてきた。道路状況など安全面を考慮

し、配達時間は地震前より遅くなる可能性がある。

 

24日午前5時、北國新聞販売諸橋販売所スタッフの油谷貴尚さ

ん(48)が自宅がある古君集落で配達を始めた。雪が降り続く

中、亀裂が入り凍結した路面に注意を払いながら、車を運転した

り、歩いたりして約2時間かけて配った。

「油谷さんは地震で崩れた家も」

油谷さんは「地震で崩れた家もあったが、新聞を喜んで受け取っ
あったが、新聞を喜んで、戻る2

てくれる人がいてほっとした」と感慨深そうに話した。下出大祐

所長(45)も「新聞を購読者宅に届け、地震前の生活を取り戻

す一助になりたい」と語った。

 

住民は朝刊を手に取り、珠洲で進む仮設住宅の建設や輪島港の傾

いた漁船などの記事と写真に見入った。姫埼實さん(74)は「朝

に北國新聞が届くという、当たり前がこんなにありがたいと思わな

かった。地震で苦しい生活をしている能登の人々の思いを共有し、

一緒に頑張りたい」と紙面に目を通した。

「地震発生後、北國新聞は建物損壊や」

地震発生後、北國新聞は建物損壊や道路状況の悪化などを考慮し、
道路状況の悪化などを考慮し、戻る3

奥能登2市2町での個別での配達を見合わせてきた。諸橋地区を

皮切りに、準備が整った地区から順次再開する。届いた「日常」、

奥能登で個別配達再開、雪が降りしきる中、北國新聞を届ける油

谷さん。本当に新聞の朝刊が届くのが当たり前のことだと思って

いた。実は誰かが届けてくれたのだ。感謝しかないです。

 

 

コメント(以下に書いて下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郵便業務も再開3週間遅れの年賀状、安否不明者から便り、命の恩人からの年賀状が届いた。

能登半島地震で業務を休止していた奥能登の郵便局で24日、窓口

能登半島地震で

内部リンク



での郵便物や小包の引き渡しが再開された。被災した住民が約3週

業務を休止していた

間遅れで年賀状を受け取り、「地震で正月どころではなかったが、
奥能登の郵便局で24日

外部リンク

こうして届くとやっぱりうれしい」と目を細めた。中には安否不明

 

のままの知り合いからの1枚を手にした男性も。「どうしてこんな

ことになったのか」と元日を襲った揺れに恨み節を漏らした。

 

輪島市河井町のすし店店主松野克樹さん(57)はこの日、避難生

活を送る輪島中で1枚の年賀状を見詰めていた。送り主は朝市通り

で金物や建材を扱う店を営む畠中雅樹さん(62)=河井町。母親

の三千代さん(86)とともに安否不明リストに名前が掲載してい

る。

「松野さんの妻久美さん(52)が」

松野さんの妻久美さん(52)が輸島郵便局で受け取ってきた郵便
輪島郵便局で受け取ってきた、戻る1

物の中に畠中さんからの年賀状があった。近所の店同士、青年会議

所時代からの仲。年下ながら「はたちゃん」と呼んで一緒にボーイ

スカウトの世話などに励んだ。

 

畠中さんからの年賀状には紅白の梅があしらわれ、いつものように

「皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます」とのメッセージが

添えられていた。

 

松野さんは「惨状を見たら、悲しさが込み上げてくるから、なるべ

く朝市通りには近づかないようにしていた。年賀状を手にすると、

どうしても元気だった姿を思い出してしまう」と涙ぐんだ。

「24日に郵便物の受け取りが」

(珠洲には十数人が列)

24日に郵便物の受け取りが再開されたのは、珠洲のほか、輪島
再開されたのは、珠洲のほか、戻る2

市の輪島、門前、穴水町の穴水、能登町の能都(宇出津港いさや

か広場)、松波、柳田の各郵便局。運転免許証や保険証などが必

要で、穴水は前日までにコールセンターに連絡するよう求めてい

る。自宅などへの配達は引き続き休止する。

 

珠洲郵便局では、午前9時の営業開始前から十数人が列をつくっ

た。

 

珠洲市上戸町北方の女性(71)は「命の恩人」と呼ぶ人からの

年賀状を受け取った。15年ほど前に乳がんを治療した際の担当

医で、震災後に連絡は取っておらず「先生には『これからも頑張

りますよ』と思いを伝えたい」と話した。

 

能登町の能都郵便局は隣接する崖の土砂が崩落した影響で局舎が

使えず、トラックを改造した「車両型郵便局」を宇出津港いやさ

か広場を臨時窓口とした。

「同町本木の中原映子さん(64)は」

同町本木の中原映子さん(64)は「本来届くべき郵便物も手元
本来届くべき郵便物も、戻る3

にそろって日常生活が戻ってきたような気がする」と語った。郵

便業務も再開3週間遅れの年賀状、安否不明者から便り、命の恩

人からの年賀状が届いた。安否不明者から年賀状の便りが届いた。

「惨状を見たら、悲しさが込み上げてくるという。年賀状を手に

すると、どうしても元気だった姿を思い出してしまう」と涙ぐん

だ。

 

 

コメント(以下に書いて下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金石は磨いてなんぼ、「元日新聞」記者は壮年会、令和につなぎ61号

年に一度、元日に金石地区にだけ届く新聞がある。取材中に、金石

年に一度、元日に金石地区に

内部リンク



に住んでいなければお目にかかれぬ「幻の新聞」の情報を求め、金

だけ届く新聞がある。

取材中に、金石

集まっていたのは、金石町壮年会広報部のメンバー。紙面が印刷さ

外部リンク

れた8ページ分のゲラ(校正刷り)を前に「クロスワードの問題は

 

難しすぎんかな」「これくらいなら解きがいがあるよ」などと意見

を交わしていた。

 

越田大地会長(45)を交え、印刷前の最終チェックに余念がない。

ゲラには赤入れが随所にある。「絶対に間違えられんよ」。ゲラを

凝視する「記者」たちの姿に、自分たちの日々の作業が重なって共

感する。

 

壮年会は25~45歳の働き盛りの世代で構成する。「元日新聞」

の発行に向けては、広報部員が普段の仕事の合間を縫って10月

から準備を進めてきた。記事のネタを考え、取材し、スポンサー

集めもする。壮年会のOBや会員の人脈を生かし、今年は147社

の協賛が集まったという。

「この新聞、金石壮年の創刊は」

(創刊は昭和33年)

この新聞、「金石壮年」の創刊は金石町壮年会が設立された195
金石町壮年会が設立された、戻る1

8(昭和33)年にさかのぼる。休刊した年もあったが原則、年1

回ペースで発行され、80年代から1月1日が発行日となった。以

来、紙の新聞のスタイルを守り、令和まで続いてきた。

 

壮年会のファイルに残る最も古い新聞は昭和38年、「三八豪雪」

の年の3月に発行された第10号。1面では大野湊神社の社務所が

結婚式場と集会場に解放されることが報じられていた。

もちろん、三八豪雪もネタの一つで、町民総出の除雪作業は「金石

町民に伝わる『協力の精神』『町ぐるみ』という他町のうらやまし

がる良習がしからしめた」とつづられている。

 

99(平成11)年は、現在の天皇皇后両陛下が金石を訪問された

様子を「忘れません。あの日の笑顔」と題した特集で振り返り、2

021年は金沢港クルーズターミナルの写真が1面を飾っていた。

 

「一年の計は元旦にあり」と言われる日に、地元尽くしの新聞を囲

んで「金石の今」を語り合える皆さんは、幸せだなあ。

「ひと息ついたデザイナーの}

ひと息ついたデザイナーの永瀬梨江さん(38)は「新聞づくりっ
永瀬梨江さん(38)は新聞づくり、戻る2

て大変なんですね」と、しみじみとつぶやいた。それだけ皆さん、

真剣な証拠である。

 

(継承の重み感じ)

どれどれ、最新の61号の特集は、と赤入れが済んだゲラを手に

取ると「ネタバレ厳禁でお願いしますよ」とクギを刺された。楽

しみにする読者の顔を思い浮かべれば、ごもっともだ。

 

広報部長の吉田拓也さん(33)は「コロナ禍でも新聞をつない

できた先輩方を思うと、途絶えさせてはいけないという重みを感

じる」と話す。北國新聞などに折り込む形で、約3400部を配

布する予定だ。

「OBの一人、金石の歴史を知る会の}

OBの一人、金石の歴史を知る会の林吉三会長(76)は「新聞づ
「林吉三会長(76)は、戻る3

くりを通じ、地域に愛着が深まった」と懐かしむ。代々受け継がれ

てきた「元日新聞」は、地元住民の金石愛を磨き続ける役割を果た

している。金石は磨いてなんぼ、「元日新聞」記者は壮年会、令和

につなぎ61号。1年に1回の発行でも継続しているのは立派なこ

とだと思います。皆さん仕事をしながら新聞を発行しているのです。

また記事を見つけるのも大変ですね。

 

 

コメント(以下に書いて下さい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「銀嶺のかなた」紀行、津幡城跡(津幡町)、男の本音がぶつかり合う

前田利家は佐々成政と共に信長の母衣衆として、武功を競った。利

前田利家は佐々成政と

内部リンク



家45歳の時、成政は信長から越中を任された。当時、越前府中に

共に信長の母衣衆として、

いる利家より、10倍以上の所領である。ライバルの出世に、利家
武功を競った。

外部リンク

は歯ぎしりしたに違いない。

 

 

成政に対して、利家には苦々しい思いがある。23歳の時、信長の

同胞衆の拾阿弥に刀の笄を盗まれて斬った。拾阿弥をかばったのが

成政だったのだ。

 

若い頃の利家は美少年。信長寵愛の小姓で、「かぶき者」だった。

実直な人柄の成政は、派手にふるまう利家を、どう思っていたの

だろうか。

 

「お前も頭を下げろ」

賤ヶ岳の戦であいに秀吉方についたことで、利家は金沢城に入城した。

「銀嶺のかなた」では、その日のうちに利家は、津幡城にいる成

政のもとへ会いに行く。「秀吉さまが到着される前に金沢城へ来てく

れ。戦に負けた。お前も頭を下げろ」

「津幡城の茶室で、利家は成政に忠告した。」

津幡城の茶室で、利家は成政に忠告した。しかし成政は「越中一国は
しかし成政は越中一国は、戻る1

信長さまから拝領したもの」と突っぱねた。

 

そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと約束して、ふたりは酒を酌み交

わす。「わしは親父さまを救うことができなかった。無残に負け、お

めおめと敵の軍門に下った」

 

弱音を吐く利家に、成政は勝負しようと立ち上がった。

「悔しいか。性根を叩き直してやる」

 

相撲である。五番目に組み合ったとき「又左、何ゆえ我らが藤吉郎に

従わねばならぬ」成政の声が泣いていた。

「数々の戦いで生き残った精鋭ふたりが」

数々の戦いで生き残った精鋭ふたりが相撲を取る場面は、男のプライ
相撲を取る場面は、男の、戻る2

ドと本音がぶつかり合う、心憎い場面である。

 

信長、勝家の非業の死に、命のはかなさと、世の無常を感じながら、

滑稽な秀吉に降伏するしかなかった利家の無念は察するにあまりある。

だからこそ、男泣きする成政の心を理解できるのだ。利家こそ泣きた

かっただろう。

 

(わずか2年で廃城)

今回の紀行で、津幡城ってあったの?と無知な私は初めて知った。金

沢城から北東におよそ4里。目前に立ちはだかる坂を上った高台であ

る。

津幡小学校の旧校舎があった地で、城の遺跡はないという。敷地の隅

の小高い場所に上がると、津幡城跡の碑が、枯れ草を背にひっそりと

立っていた。

 

標高15メートルの崖上から、津幡の街が見渡せた。なるほど、能登、

越中、加賀への街道が交差する場所で、好立地である。源平合戦では

平家軍が、七尾城攻略のため上杉謙信が、ここに陣を敷いたのもうな

ずける。

 

成政は、賤ヶ岳の戦に加勢しようと兵を進めたが、北庄城が早々に落

ちたと知った。そこで津幡城で様子をうかがっていたのだ。

「利家が加賀、能登、越中を支配する」

利家が加賀、能登、越中を支配するようになると、軍事的拠点は必要
ようになると、軍事的拠点は、戻る3

ない。名だたる武将が拠点にした津幡の城は、わずか2年で廃城。戦

国の世は去り、津幡は宿場町となった。「銀嶺のかなた」紀行、津幡

城跡(津幡町)。現在の津幡町は発展して住宅が数倍に増えて大きな

街になった。北は伸びないというが津幡町は例外だと思います。

 

 

コメント(以下に書いて下さい)