警察官と軍人がバスに乗りパスポートチェックした2回目の韓国で38度線の近くの春川で仕事

(警察官と軍人がバスに乗りパスポートチェックした

2回目の韓国で38度線の近くの春川で仕事)

38度線の

2回目に韓国へ38度線の近くの、春川で冬に仕事で行った時に、


一番、怖かったのは38度線近くの、米軍の空港の横を、バスに乗

春川で冬に

って通る時の事だった。軍人と警察官が2人で、背中合わせになっ

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て、パスポートコントロールと言って、パスポートのチエックをす

 

る時でした。銃剣を喉元に突きつけられて、パスポートを見せるの

です。本当に怖かったです。誤って銃剣が喉元に刺さる事が、起き

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たらどうなるのかと、不安でどうしようもなかった。何とか無事に

 

終了して、バスは春川へ向かった。春川の工場に着いた時は、寒く

てどうしようもなかった。

 

日曜日にもかかわらず、5人の課長と部

長が出迎えてくれた。工場での仕事は寒くてどうしようも、なかっ

た。ストーブを焚いてもらって、10分間、仕事をして、10分間

ストーブで手と体を温めて、仕事を終了した。7時間位かかった。

5人とも、ソウル大学卒のとても優秀で、優しくて親切な人達でし

た。それからクラブへ連れて行ってくれました。そこで楽しく過ご

して、ホテルまで送ってくれました。工場は、本当に寒かったです。

暖かい所に来たら、安心して眠れました。

 

 

 

 

 

「ソウルまで」</P

次の日は電車でソウルまで、戻りました。彼らの5人も春川の駅ま

5人も春川、戻る1

で見送りについて来てくれました。私が電車の切符を買おうとした

時に、事件が起きました。駅員にソウルまで1枚下さいと言ったら

、駅員はソウルまではありません。切符がないと言うことを、課長

に伝えたら彼は、駅員と何か話していました。彼は私の所へ来て、

恥ずかしい事ですが、お金を2倍、払ってくれるとあるそうです。

駅員が切符を全部、自分のポケットの中に入れて、いるとのことで

した。課長を含め5人は、本当に残念そうでした。山田さん韓国の

現状は今はこうですが、将来はきっと良くなると思います。と課長

が言った。分かりました。2倍、払いますから切符を買って下さい

。と私が言ったら、気まずそうに彼は私に、切符をくれた。ごめん

なさいと言って、5人は頭を下げて見送ってくれた。私は逆に爽や

かな気持ちで、電車に乗り込んだ。5人はさすがにソウル大学卒だ

なあ。と5人に敬意を評して別れた。

 

 

 

 

 

 

「大学生だと」

電車に乗ってしばらくすると、大学生だと思われる若い男の人が、

若い男の、戻る2

私の所へきて、日本の方ですか。と

聞いてきて、そうです。と答えると、横に座ってもいいですか。と

言った。私はいいですよ。と答えた。彼は私の日本語をチェックし

て下さい。と頼んで来た。分かりました。と答えた。彼は日本語を

勉強中の大学生です。どちらもソウルまで行くことが、分かって彼

は喜んでいた。時間が充分にあるから、嬉しかったのです。彼の日

本語は実に流暢で、私の方がびっくりしました。私が電気技術者で

あることや、実案と特許を30位、持っていることや、その内容を

話したら、実に興味深そうに聞いてくれました。韓国の大学入試は

凄く難しい事は、新聞やニュースで知っていましたが、大学生にな

ってもこんなにも、勉強するんだなあと、改めて感心しました。ア

メリカの大学生も、凄く勉強していることも、話したら彼は既に知

っていました。日本の高校生は大学入試に、向けて猛勉強しますが、

大学生になった途端に、遊びに夢中になって、レベルがドンドン下

がって行きます。何と嘆かわしい事でしょう。だから日本からノー

ベル賞を取る人が、アメリカに比べたら、格段にすくないのです。

東大でも世界的に、見れば40位ほどです。如何に日本の大学生の

レベルが、低いかがわかります。いろんな話を韓国の大学生としな

がら、とても有意義な時間を、過ごしました。彼も又、同様でした

。あっという間の時間で、電車はソウルに着きました。彼は本当に

ありがとうございました。と言って電車を降りて行きました。彼に

とっても貴重な時間だったと思います。最後に貴方の日本語は完璧

に近いよ。と言ったら嬉しそうに笑いながら行きました。韓国の大

学生、恐るべし。

 

 

 

 

 

 

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飛行機で金浦空港に着き警備員が銃剣を持ち恐怖で仕事で以前に韓国へ行った時とは

(飛行機で金浦空港に着き警備員が銃剣を持ち恐怖で

仕事で以前に韓国へ行った時とは)

韓国へ行った事

 

30位の時に3人で仕事で、韓国へ行った事がある。その時の事を

 

 

書いて見ようと、思っています。飛行機で行ったら本当に、しばら

韓国へ行った

くで金浦空港に、着きました。空港は厳戒態勢に近い警備でした。

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カメラは撮影禁止で、警備員はみんな銃を持っていました。さすが

 

に外国は違うと感じました。38度線の先は北朝鮮ですから、当時

でも戦闘態勢です。空港に降りたら、にんにくの臭いがしてとても

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臭かったです。相手の会社の人が車で、迎えに来てくれたので、そ

 

の車で会社まで行きました。我々の担当者は本社では、社長室の室

長で親切な人でした。テグの工場まで高速道路で送って、もらいま

した。

 

作業服に着替えて工場の中を、見学させてもらいました。とても大

きな工場でかなり時間が、かかりました。1日目は見学だけで終了

です。次の日は、道具箱を鍵のかかるロッカーに入れて、機械の部

品を置いてある所を見て、使う部品から順番に工場へ、運びました。

その後、順番に従って組み立てを始めました。道具箱を鍵のかかる

ロッカーに預けるのは、当時の韓国では、泥坊さんが多くて、この

ような管理をしてもらうしか、他に方法は、ありませんでした。本

当に悪い人が多くて、困っていました。チョットの間に今まで、使

っていた道具でさえ、なくなるのですから。

 

 

 

 

 

 

「手動操作の」

当時は、ほとんど手動操作の機械ばかりでした。だから本当に、人

手動操作、戻る1

が多くいました。現在のような自動機械は、ほとんどありませんで

した。我々の会社の機械は、糸より機械の前工程の準備機で、糸を

巻く機械です。巻く機械と言うと簡単なようですが、カムを使って

両端が、耳高にならないように、実案と特許が多くかかっています。

当時にしたら、かなりの技術力がありました。会長である父が発明

した物が多くありました。私自身も感心するような技術でした。私

は、父を発明の数では、超えれませんでした。父のひらめきは素晴

らしい物が、ありました。

 

「1日に1台」

機械の組み立ては、順調に進んで1日に1台のペースで、完成して

順調に進んで、戻る2

いきました。ある日の朝、工場に行ったら係長が、慌てて近ずいて

来て、大変です。昨日、泥坊さんが入って機械の変速機と、フリク

ションプーリが、何枚か盗まれました。と言って困っていました。

変速機は、作れないから、日本から送ってもらいましょう。フリク

ションプーリは、こちらで作れると思います。と言ったら係長は、

すぐに相談に行きました。大変だったと思いました。どちらの部品

も何とか、手に入って10台以上の機械を、無事に組み立てて試運

転も、ほぼ順調に進みました。食事は毎日、肉が中心でした。肉は

コギと言います。それとニンニクです。不思議な事に自分も、食べ

るとニンニクの臭いが、ほとんど気にならなくなります。肉は、本

当においしかったです。2週間ほどの仕事でしたが、いい経験と勉

強になりました。今日では何かと近くて遠い国と、言われるように

なりましたが、本当にそうかも知れません。同盟国ですから、世界

の平和と安全のために、仲良くして発展して行けたらいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

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飛行機でムンバイに着き夕方国内線でアーメダバードへ飛んでインドで初めて仕事をした時

(飛行機でムンバイに着き夕方国内線でアーメダバードへ飛んで

インドで初めて仕事をした時)

インドで最初に仕事


インドで最初に仕事をしたのは、35歳位の時でした。今から思え

インドで最初に

ばずいぶん、若い頃でした。繊維機械の組み立てです。修理も兼ね

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て行っていたので、10日位の海外出張でした。気温は40度を超

 

えるのですが、湿度が低いのでカラッと、した暑さでそんなに大変

では、なかった記憶があります。アーメダバードと言う場所で有名

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な、無抵抗主義を唱えたガンジーの、生誕の地です。現地の人達は

 

お酒が飲めません。我々みたいな仕事で出向いた、外国人はビール

なら1日に1本で、ウイスキーなどは1ケ月に、ビンで2本でした

。それもパスポートを持って、役所で証明書をもらって来て、酒屋

へ行って自分で、買って来るのです。今ではホテルで自由に飲む事

が、できますが当時は、本当に不便で不自由でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あまり楽しみ」

あまり楽しみ、戻る2

そんな環境でしたから、あまり楽しみはありませんでした。しいて

言えば麻雀をする事位でした。麻雀は勝つ事があまりなくて、負け

てばかりでした。食事は辛いものばかりで、マスターに一番辛くな

いのを、作って欲しいと頼みました。それでも辛いです。最後には

食べる物が無くなって、日本のラーメンのような、ヌードルばかり

を食べていました。仕事の方もなかなかうまく進まなくて苦労しま

した。凄く熱いので午後の4時には、仕事を終了してホテルに戻り

ました。テレビをつけても英語ばかりで、ほとんど理解が出来ませ

んでした。日本人はなぜか土曜日も仕事でした。他の外国人は土日

は、全く仕事はしません。つくずく文化の違いを感じました。そし

て、土曜日の夜には町へ遊びに行って、日曜日の夜に帰ると言う、

スタイルです。この行動にも感心しました。これも文化の違いでし

ょうか。

 

 

 

 

 

 

「それで会社も」

さすがに、仕事は真面目にやります。それで会社も文句が言えませ

それで会社も、戻る1

ん。お酒は、かなり飲みます。ある日、ジョニーウォーカーと日本

の、サントリーのオールドと交換して欲しいと、言って来たので交

換しました。彼らは、オールドがうまいと言っていました。彼らは

英語が分かるので、テレビを見ながら飲んでいました。インドには

カースト制度のなごりが残っていて、上流階級の人達は、みんな英

語を話します。発音はインド独特であまり良くありません。それで

も充分に通用します。それと彼らは、家庭でも英語を使うそうです

。日本人だけが、下手な英語で会話していました。この時ほど劣等

感にさいなまれた事は、ありませんでした。大学まで出て英語の会

話が出来ないのは、日本人の特徴です。これからの日本はもっと、

英語の会話教育に、力を入れるべきだと痛感しました。

 

 

 

 

 

 

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実案と特許で1年間で13個提出して日刊工業新聞の全国版に載る

 (実案と特許で1年間で13個提出して日刊工業新聞の全国版に載る)

実案と特許を1年に13

 

 

 

 

 

 

ずいぶん前になりますが、実案と特許を1年に13取って、全国版

の日刊工業新聞に載りました。他社の技術者から、電話がかかって

日刊工業新聞に

来て、どうして1年に13も取れたんやと聞かれました。アイディ

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アが次々と浮かんで、来たんでね。と答えました。でもそれが相手

 

にしてみたら、不思議でならないと思ったのでしょう。それとアイ

デアが仕事中には、浮かばなくて何かして、遊んでいる時などに浮

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かぶのです。例えばボーリングをしている時などである。私にはこ

 

れが本当に不思議でならなかった。会社で仕事をしている時は1度

も、アイデアが出たことはなかった。何かを一生懸命に考えている

ときは、頭が緊張しているからなのだろうか。やはりリラックスし

ている時でないとダメなのだろうか。これについては良く分かりませ

ん。                                                                                                                                           

ただ経験からそのようであるらしいと思われます。今は全部

電子出願だと思いますが、当時は紙に書いて出願していましたので

全体をまとめるのと書く作業は、かなり大変でした。絵も少し書く

必要がありました。時間も争いますから速く書く必要があります。

慣れない時は速く書けませんでした。でもだんだん慣れて来ると速

く書けるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし絵が以外と時間が、かかるのです。簡単なように思いますが

定規を使うので、結構時間がかかるのです。1番、時間がかかるの

「実案も特許も請求の範囲」

は、実案も特許も請求の範囲の項目です。範囲を広くすれば通り難

請求の範囲、戻る1

いですが、あんまり広くしても良くないです。逆に狭くすれば通り

易いですが、他人にすぐに破られてしまいます。この請求の範囲を

決めるのが、最も大変です。ここを決めてしまえば、後は楽に書けま

す。         

時間も凄く大切です。私はある実案で他人に、3ケ月だけ、

「3ケ月だけ」

遅く出して負けた経験があります。それが商品化されて、ホームセ

負けた経験、戻る2

ンターで売られているのを、見た時は悔しくてたまりませんでした

。こんな事もあるのだなあと思いました。今となってはいい経験で

した。弁理士に頼めば費用は、何十万円もかかります。私は自分で

書いたので、当時は3万円ほどでした。1割ほどです。その上、申

請が通ると、その時にも費用が発生します。とにかく弁理士に依頼

すると、お金が多くかかります。ところで新聞に載った時は、会社

名も出ましたので、社長は本当に喜んでくれました。私も嬉しっか

ったです。実案と特許で65歳までに、50ほどの申請が認められ

ました。ほとんどが自社の機械の、防衛のためです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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リレーシーケンスのラダーソフトと機械の動きに合わせて書けばいいSFCソフトとは

 (リレーシーケンスのラダーソフトと機械の動きに合わせて

  書けばいいSFCソフトとは)

 

ラダーソフトは簡単なソフト

 

 

 

 

 

 ラダーソフトは簡単なソフトから、複雑なソフトまですべてを書ける

ラダーソフト

万能型である。簡単なソフトは一般的なものから、分周などに使う。

複雑なソフトは代表的なものは、車のラインで使うものや、ACサー

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ボモータの制御に使うものなど、さまざまである。ラダーソフトは、

 

ニモニックは単純なものだが、最近はニモニックを使わないで、コン

ピュータでソフトを書くのが、多い。ラダーソフトは考え方が、非常

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に難しいものである。1級制御技術者などのプロでないと、ラダーソ

 

フトは作成することは、困難である。私達ではなかなか書けない。そ

れだけ考え方が、難しいのである。一見、簡単そうに思えるが、そん

なに甘いものではない。

 

    簡単なラダーソフトは私達でも充分に、書く

事が可能である。車のラインのように、機械的な動きが、決まってい

る場合は本当はSFCソフトの方が、簡単であっているような気がする

「ラダーソフト」

ラダーソフト、戻る1

が、実際のところは今でも、ラダーソフトで書かれている。昔からの

考え方なのだろうか。ラインの動きにあわせてSFCソフトを書けばい

いから、非常に合理的だと思うが、SFCソフトはいまでも、使われな

い。技術者がラダーソフトの考え方に、慣れてしまっているのだろう

。私ならSFCソフトを使ってみたい気がする。私には非常に簡単なよ

うな気がしてならない。

「SFCソフト」

 

SFCソフトはラダーソフトに、比べて自由度は少なくなる。ただ機械

SFCソフト、戻る2

の動きにあわせて、SFCソフトを書けばいいので、考え方は単純であ

る。ACサーボモータを使った機械も、その動きにあわせてSFCソフト

を書けば良いので、これも単純になる。ACサーボモータで難しいのは

1回転の出力パルス数と、原位置を決めるソフトである。これはラダ

ーソフトで書かないと、SFCソフトでは対応が、難しいかもしれない

。ラダーソフトとSFCソフトが、混在することになるが、何ら問題は

ない。最近のシーケンサ(プログラマブルコントローラ)は、非常に

柔軟性が高く出来ている。何の心配もいらない。シーケンサを使って

困る事は、古くなってエラーマークも出ないで、誤動作する時である。

 

    車のラインなどで、この現象が起きると大変である。シーケンサが

疑われる時は、新品に交換するのが、ベストであるが予算で動いてい

る会社は、予算が出るまで交換してもらえない時が、あるので問題で

ある。車のラインや複雑な機械で、この現象が起きると重大な事にな

る場合が多い。高価な部品なので交換してもらえない時が困ってしま

う。小型の安価な時は交換してもらえば、治るケースが多い。

 

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東京の伯父さんが病院を手配して慢性盲腸を抱えての大学入試がきつかったこと

(東京の伯父さんが病院を手配して慢性盲腸を抱えての

大学入試がきつかったこと)

右下腹が痛かった


大学入試のために上京する日の朝、起きると少し、右下腹が痛かった

上京する日の朝
。東京の叔父さんから、電話がかかって来て、こちらの有名な病院を

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5ケ所ほど、おさえたから、心配しないで試験を、受けに来いと言わ

 

れました。私は、下腹の痛みが気になって、なかなか行くとは、言え

ませんでした。叔父さんが何度も説得するので、死ぬも生きるも私の

外部リンク

運命だと、割り切って行く覚悟が出来ました。今は本当に感謝してい

 

ます。その叔父さんも5年ほど前に、他界してしまいました。

この状

況なので、父も一緒についてきてくれました。宿に着いて、下腹を冷

やして、薬を飲んで参考書を見ていました。高専からの受験だったの

で、国立大学は、無理でした。私学でも、早稲田と慶応はレベルが高

くて無理でした。理科大の1本に絞って受験しました。次の日、会場

へ行くと500人位の人が来ていました。倍率が高いので、この中で

合格するのは、30人前後かと思ったら、開き直って以外と冷静でし

た。英語は、長文が難しくて少しの分かる単語から、後は想像で訳し

ました。数学は以外に良く出来ました。物理は、問題を良く見ると、
「ボーアの原子理論」

昨日の晩に宿で見ていた、ボーアの原子理論が、30点問題で出てい

30点問題で、戻る1
てそれを、一番先に書きました。物理も以外と出来ました。

 

それから、宿に帰って少しだけ、食事をして、横になって体を休め

ました。明日は、機械科の受験です。夜に下腹を冷やして、薬を飲

んで、また参考書を眺めていました。次の日に、会場へ行くと昨日
「試験が始まると」

と同じ位の人でした。試験が始まると、今日も割と冷静に行動でき

試験が始まる、戻る2
ました。両日とも、いい意味で開き直れたのが、良かったのでしょ

う。この日も試験は、まずまずだったと思います。次の日に、電車

で金沢へ向かいました

 

森本駅に着いて、自宅へは戻らずに、主治

医のいる外科へ向かいました。そして、すぐに、盲腸の手術を受け

ました。主治医の話では、盲腸が背中まで伸びていて間一髪の状況

で、無事に終了して難をのがれることが、出来ました。これも叔父

さんや父や主治医の先生のおかげで助かりました。目からは、自然

に涙がこぼれていました。20歳の時だったので、若かったせいも

あって、無理ができたのでしょう。1週間ほどで、退院できました

。家に帰ったら、大学から、電気科も機械科も、両方とも合格した

との通知が来ていました。盲腸を抱えての受験だったので本当に、

つらかったのです。それだけに、本当に心の底から嬉しさが込み上

げて来ました。自分でも良くやったと思います。感謝です。

 

 

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