安原のど根性7、ツェーゲン支える「何でも屋」、近隣農家に励まされ12年

(安原のど根性、ツェーゲン支える「何でも屋」、近隣農家に励ま

され12年)

下安原町の市安原

下安原町の市安原スポーツ広場に、サッカーJ2・ツェーゲン金沢



内部リンク

のクラブハウスがある。これまで試合中の選手しか見たことがない

スポーツ広場に、

が、普段はどんな様子なのだろう。今シーズン最終週の練習にお邪
サッカーJ2・ツェーゲン金沢

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魔すると、選手を支える「何でも屋」と出会った。

 

寒空の下、選手に交じって半ズボン姿でコートを駆け回り、てきぱ

きとボールを片付ける人がいる。

 

用具を管理する「エキップメントマネージャー」を12年間務める

新木智也さん(35)だ。

「新木さんは小学2年生から」

(金沢学院大でプレー)

新木さんは小学2年生から金沢学院大の在学中までサッカーに打ち
金沢学院大の在学中までサッカーに、戻る1

込み、卒業後も競技に携わりたいと、この道を選んだ。

仕事は用具の管理だけにとどまらない。午前10時から練習が始ま

る日は、午前6時半に出勤してクラブハウスを消毒。大浴場に湯を

ため、練習前にも選手が入浴できるようにしている。

 

試合当日、会場で掲げるツェーゲンの旗を持って行くのも新木さん

の役目だ。選手がオフシーズンに入る冬場も「来季のユニホームの

手配や検品など、やることはたくさんあります」と忙しそう。

 

元日本代表FWの豊田陽平選手(小松市出身)は「新木さんたちが

いるから選手は競技に集中できる。チームになくてはならない存在」

と評する。新木さんは「選手がけがなく、活躍している姿を見るの

が何よりのやりがい」という。

 

 

 

 

 

 

「ピッチの傍らには、特産の」

ピッチの傍らには、特産の「金沢スイカ」の畑が広がる。夏場にボ
金沢スイカの畑が広がる、戻る2

ールがフェンスを飛び越えてしまった時、新木さんが取りに行くと、

スイカを収穫中の農家から「炎天下におつかれさん」とねぎらわれ

ることもある。

 

(スイカの差し入れも)

今年は軽トラの荷台いっぱいにスイカを差し入れてくれた農家もお

り、地元の人もツェーゲンを応援してくれているようだ。

 

新木さんは「みんなが心一つに熱くなれるのがスポーツの魅力だと

思う。みんなに愛されるチームになって地域が元気になったらいい」

と望む。

 

23日、雨の中の練習を終えた選手は、クラブハウス内で、昼食に

豚のしょうが焼きを味わった。毎回、専任の料理人が肉や魚を使っ

た栄養満点のメニューを用意し、食の面から選手を支えている。

 

コロナ禍で中断していた練習の公開は11月に再開した。豊田選手

は「サポーターがいると練習に気合が入る。『もっと応援したい』

と思ってもらえるような姿を見せたい」と力を込める。

「チームの舞台裏を見学し」

チームの舞台裏を見学し、選手の活躍の背後にいる多くのスタッフ、
選手の活躍の背後にいる、戻る3

住民、サポーターの存在を感じた。安原に軸足を置き、国内を飛び

回って闘うチームにますます愛着が湧いた。安原のど根性7、ツェ

ーゲン支える「何でも屋」、近隣農家に励まされ12年。J2でも

選手は試合にも出れるからまだいいと思います。新木さんのように

ツェーゲンを支えるためだけに「何でも屋」をやれる人はそんなに

はいないと思いました。それも12年も頑張っています。なかなか

できることではないと思いました。大乗利他の心で本当に他人のた

めに働く覚悟がないとできることではないと思いました。本当に立

派だと思います。心から尊敬もします。素晴らしい人間性です。

 

 

 

 

 

 

 

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安原のど根性6、特色を次代に託す音頭、児童の運動会種目に、盆踊りを楽しむ住民

(安原のど根性6、特色を次代に託す音頭、児童の運動会種目に、

盆踊りを楽しむ住民)

取材で安原地区を歩き

取材で安原地区を歩き回るうち、加賀野菜、みどり団地、安原工業



内部リンク

団地と、この地区が持ついろいろな顔が見えてきた。これらの特色

回るうち、加賀野菜、

をまとめたのが「安原音頭」だ。
みどり団地、安原工業

 

「加賀の國の海沿いに安原名産 加賀野菜」の歌い出しで5番まで

外部リンク

ある。新入社員だった4年前の8月、盆踊り大会でこの音頭の踊り

 

を見た。コロナ前の盆踊りは活気があった。

 

(誕生は8年前)

実は、安原音頭が誕生したのは割と最近だ。2014年の盆踊りで

お披露目された。かつては各町に踊りがあったが、演奏者不足など

から廃れたという。安原村が金沢市に編入して60周年の節目だっ

た14年、「地区全体を代表する音頭で盆踊り大会をしたい」との

声が住民から上がり、町会連合会を中心とする有志が自分たちで一

から練った。

「歌詞は上安原町の自営業」

歌詞は上安原町の自営業横山浩仁さん(60)が担当した。作詞未
横山浩仁さん(60)が担当した、戻る1

経験ながら、近所の子どもにも意見を聞き、今の地区の様子を分か

りやすい言葉で表現した。曲はフォークグループ「でえげっさあ」

が作った。昔の音頭には振り付けが異なる「男踊り」と「女踊り」

があった。それでは「子どもたちには難しい」として地元民謡会の

女性たちが新たな振り付けを考えた。

 

児童生徒に親しんでほしいと、翌年から安原小の運動会の種目に全

校児童による音頭が加わり、住民が事前に学校に通って手ほどきし

た。さらに盆踊り大会当日は、緑中吹奏楽部が、安原小の屋外ステ

ージで音頭を生演奏している。

 

(コロナ下で中断)

しかし、この3年間、運動会で音頭は踊られていない。今年8月、

地区の盆踊り大会も直前まで準備を進めていたが、コロナの感染

状況をみて中止となった。

「今の児童は安原音頭を」

今の児童は安原音頭をどう思っているのだろう。6年生に聞くと
どう思っているのだろう、戻る2

「歌詞にいろんな加賀野菜が入っているのが好き」、「方言がい

っぱい入っていて楽しい」と矢継ぎ早にお気に入りのポイントを

教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

英 翔和君(12)は「運動会で音頭がなくなったのは寂しい。ど

うにかして受け継ぎたい」と語り、酒井遊心君(11)は「何かの

機会にまたみんなで踊りたい」と言う。そして、みんなで振り付け

の一部を見せてくれた。

 

14年の盆踊り大会を運営した農家太平幸久さん(65)=打木町

=は「青年団をやっていた時に打木じょんがらをみんなで踊っとっ

た」と地元の盆踊りの記憶を教えてくれた。茅ぶき屋根を替える情

景を描いた歌で「茅じゃと そらもう一つ」と一節をそらんじる。

地域の盆踊りは思い出の景色とひもづいているのだろう。

 

取材後、横山さんが最初に考えた歌詞と完成形の歌詞を見比べて

気付いたことがあった。最後の5番の一節が「みんな地域で一つ

になれるよ」から「大人になっても さー 一緒に踊ろう」に変

わっていたのだ。横山さんは「大人になってもふるさとを懐かし

み、帰ってきた時に楽しく踊ってほしい、との思いを込めた」と

振り返ってくれた。

「安原小の児童からは」

安原小の児童からは「町は変わっていくかもしれないけど、10
町は変わっていくかも、戻る3

0年先まで音頭が残っていたらいい」、「いつか教える側に回り

たい」との声も聞いた。大人が安原音頭に託した思いは、子ども

たちへ確かに伝わっていた。安原のど根性6、特色を次代に託す

音頭、児童の運動会種目に、盆踊りを楽しむ住民。若い頃はよく

盆踊りを踊りました。他の町に盆踊りがあるとそこまで踊りに行

きました。とても楽しかった思い出があります。今、思うと若い

というだけで何かの価値があるような気がします。本当に懐かし

い思い出です。

 

 

 

 

 

 

 

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日本ドイツ破る、8強へ逆転大金星、浅野決勝弾、ドーハの歓喜、堂安同点ゴール

(日本ドイツ破る、8強へ逆転大金星、浅野決勝弾、ドーハの歓喜、

堂安同点ゴール)

サッカーのワールドカップ

サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会第4日は23日、



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ドーハのハリファ国際競技場などで1次リーグが行われ、E組の初

(W杯)カタール大会

戦で世界ランキング24位の日本が、同11位で優勝4度の強豪ド
第4日は23日

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イツを2-1で破る金星を挙げた。GK権田修一(清水)の反則か

 

らのPKで先制を許し、前半を0-1で折り返したが、後半に堂安

律(フライブルク)、浅野拓磨(ボーフム)のゴールで逆転。大舞

台で番狂わせを演じる最高のスタートを切った。

 

(浅野決勝弾)

ドイツからは初勝利で、通算成績は1勝1分け1敗。W杯での日本

の逆転勝利は初で、優勝経験国との3度目の対戦で初めて勝った。

日本が過去に出場した6大会で、初戦で勝ち点を獲得した2002

年日韓大会、10年南アフリカ大会、18年ロシア大会はいずれも

16強入りした。

 

森保一監督が率いる日本は7大会連続7度目の出場1993年に日

本がW杯初出場を逃した「ドーハの悲劇」の舞台で、過去最高を上

回るベスト8以上を目指す。

「日本は27日午後1時」

日本は27日午後1時(日本時間27日午後7時)からコスタリカ、
(日本時間27日午後7時)からコスタリカ、戻る1

12月1日午後10時(同2日午前4時)からスペインと対戦する。

 

1次リーグは4チームずつが総当たりで争い、各組上位2チームが

決勝トーナメントに進む。

(堂安同点ゴール)

W杯優勝経験のあるドイツに、日本がどこまで通用するのか。「一

発勝負は何があるか分からない。やれる自信はみんな持ってる」と

臨んだのは板倉。西ドイツ時代を含め優勝4度を誇る相手に真っ向

から挑み、歴史的な逆転勝利を収めた。

 

 

 

 

 

 

シュートの雨を浴びる苦しい前半だった。幅広く立ち位置を取るド

イツの組み立ては巧みで、日本が意図したプレスはかわされた。じ

わじわと押し込まれ、前半30分すぎにGK権田が耐え切れずにP

Kを与え、重い先制点を許した。

 

ドイツは王者として臨んだ前回大会、初戦でつまずき1次リーグ敗

退を喫しただけに序盤から全開。攻め手を緩めない相手に対し、森

保監督が動く。後半から冨安を入れて3バックに切り替え、三苫、

浅野、堂安と次々と交代カードを切ると、流れが日本に傾いた。

「久保はできるだけ長い時間を」

久保は「できるだけ長い時間を0-0で」と言ったが、1失点で
0-0と言ったが、1失点で、戻る2

粘り強く耐えたことが終盤に実る。後半30分、左クロスのこぼ

れ球を途中出場の堂安が押し込んで同点。同38分に板倉の縦パ

スから浅野が右足を振り抜く。番狂わせを呼び込んだゴールに、

4万人以上の観衆がどよめいた。

 

戦後、日本はドイツを手本に発展してきた。選手、指導者の育

成など全ての土台に教えが根付いている。この地で29年前に

「ドーハの悲劇」を経験してから、7大会連続でW杯に出るま

での成長を遂げた。

「アルゼンチンを撃破した」

アルゼンチンを撃破したサウジアラビアに続き、アジア勢によ
サウジアラビアに続き、戻る3

る2日連続の大金星。

「ドイツに学びながら日本らしく日本の良さを持って、世界に

追いつけ追い越せと戦っている」。森保監督の言葉を選手が体

現し、大舞台で世界を驚かせた。日本ドイツ破る、8強へ逆転

大金星、浅野決勝弾、ドーハの歓喜、堂安同点ゴール。確かに

前半はドイツのうまさに日本はボールが取れない。しかしPK

で1点を取られてからの粘り強さは、素晴らしかった。特に後

半は選手を交代させて3バックにしてから流れが少しずつ日本

にきたように思います。それでも堂安の同点ゴールの1-1で

引き分けると思っていました。ところが板倉の縦パス1本で浅

野が難しいシュートを決めて、遂に逆転勝ちしました。本当に

素晴らしい試合で日本の粘り強さを世界にアピールできたと信

じています。逆転勝ちまでは考えていませんでした。奇跡的な

瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

 

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W杯20日開幕、板倉、浅野間に合った、膝靭帯損傷必死の治療、日本あすカナダ戦

(W杯20日開幕、板倉、浅野間に合った、膝靭帯損傷必死の治療、

日本あすカナダ戦)

ドーハのまぶしい日差しを

ドーハのまぶしい日差しをうれしそうに浴びた。W杯代表の仲間と



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ランニングする板倉(ボルシアMG)と浅野(ボーフム)に、思わ

うれしそうに浴びた

ず笑みが浮かぶ。ともに9月に膝を故障したが、回復が間に合った。
W杯代表の仲間と

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前回大会はメンバー外となった浅野は「僕自身にとって、ここにい

 

られることが全て」と感慨を込めて言った。

 

(膝靭帯損傷必死の治療)

迫る本大会を前に、浅野は右膝、板倉は左膝の内側側副靭帯を損傷。

浅野は「サッカーの神様は簡単にはいい方向に行かせてくれない」

と落胆し、板倉は「W杯は厳しい」との思いが頭をよぎったが、諦

めなかった。

 

板倉は所属先でのリハビリ後にデュッセルドルフの日本協会欧州オ

フィスに通い、日本人トレーナーの施術を受け続けた。浅野も「人

事を尽くした」との自負がある。チームに合流した今、2人とも今

回の故障を「不幸中の幸い」と表現した。必死治療を実らせ、本番

へと照準を合わせる。

 

患部をテーピングする浅野は実戦復帰はしておらず、板倉も試合勘

には不安を残す。それだけに17日のカナダ戦は貴重な機会で「僕

はそこで全てを懸ける。持っている力を全て出したい」と浅野。ま

ずはピッチに立てる状態を、証明する場になる。

「サッカーのワールドカップ(W杯)」

サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会(20日開幕)を
カタール大会(20日開幕)を、戻る1

控える日本代表は17日午後5時40分(日本時間同10時40分)

からアラブ首長国連邦(UAE)のドバイでW杯出場国のカナダ代表

と本大会前最後の実戦となる国際親善試合に臨む。

 

14日に現地入りした鎌田(アイントラハト・フランクフルト)伊

東(スタッド・ランス)らが初めて練習に加わる予定。脳振とうで

状態心配された遠藤(シュツットガルト)も宿舎に入り、体調不良

で到着が遅れる三笘(ブライトン)を除く25選手がそろった。

 

 

 

 

 

 

日本はW杯1次リーグでドイツ、コスタリカ、スペインと対戦する。

 

W杯で使用される公式試合球は1970年メキシコ大会以来、大会

ごとに変わってきた。20日に開幕するカタール大会の使用球は

「アルリフラ」。スポーツ工学を専門とする筑波大の浅井武名誉教

授(66)によると、前回ロシア大会の「テルスター18」よりも

飛びやすく、曲がりやすい特性がある。

 

過去2大会はボールを覆うパネルが6枚だったのに対し、今回の公

式球は大小2種類による20枚で構成される。表面に施された凹凸

も特徴的だ。

「浅井氏は風洞実験でボールの」

浅井氏は風洞実験でボールの軌道や空気抵抗などを分析。過去大会
軌道や空気抵抗などを分析、戻る2

のボールと比較した結果、アルリフラはパスやシュートなど最も広

範囲の速度領域で空気抵抗を受けにくい傾向が見られた。「わずか

な差だが、空気抵抗の低い範囲が広がっている。それだけ飛びやす

い」。また、カーブのかかりやすさに関しても「スピンをかけたと

きに曲がり幅が少し大きくなる」という。

 

日本国内ではW杯に先立って5月からJリーグ、ルバン杯の試合球

として使用されている。実際にボールを蹴っても飛びやすさは実感

できるようで、相馬(名古屋)は「芯に当たればボールが伸びてい

く印象」と話す。

「大会を戦う上で試合球への適応は」

大会を戦う上で試合球への適応は重要な要素。より飛び、曲がるボ
重要な要素。より飛び、曲がる、戻る3

ールは攻撃側に優位に働きそうで、浅井名誉教授も「シュートレン

ジを広げるのが得策だろう」とみる。W杯20日開幕、板倉、浅野

間に合った、日本あすカナダ戦。今回のW杯のボールはゴールキー

パー泣かせのボールのようです。すごく曲がるし、良く飛ぶし軌道

の予測が非常に難しいようです。シュートレンジが広くてゴールキ

ーパーにとっては厄介な相手のボールのようです。予測外の動きを

するのです。空気抵抗も少ないしシュートは速くなりそうです。甘

くないボールだと思います。

 

 

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北陸のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4年、弟子独立、半世紀で幕

と(北陸のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4

年、弟子独立、半世紀で幕)

北陸のすしを牽引

北陸のすしを牽引してきた野々市市太平寺1丁目の「太平寿し」が



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今月末で半世紀の歴史に幕を下ろす。全国の食通にもファンが多く、

してきた野々市市

その腕前と気さくな人柄で店の評判を高めた前店主の高谷進二郎さ
太平寺1丁目の「太平寿し」が

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んが死去してから4年。弟子たちは相次いで独立し、職人の確保が

 

ままならなくなった。女将の美知子さん(73)は亡き夫が育てた

名店の看板をしまうことを決断、常連客からは惜しむ声が上がって

いる。

 

(今月末)

太平寿しは1972(昭和47)年、高谷さんの兄勲さんが開いた

店が原点だ。高谷さんは大学卒業後に大手飲料メーカーに就職予定

だったが、店の手伝いから、そのまま職人として歩み始めた。

「一手間をかけて魚のうま味を」

一手間をかけて魚のうま味を引き出す創作すしと、話好きなユーモ
引き出す創作すしと、話好きな、戻る1

アあふれる人柄で一躍人気店になった。看板メニュー「のど黒の蒸

しずし」は今も訪れた客のほとんどが注文する逸品だ。

 

しかし、高谷さんが2018年、68歳で他界すると、新型コロナ

ウイルスの感染拡大の影響もあり、店を取り巻く環境は悪化した。

当時いた6人の弟子たちのうち、4人が独立や他店に移るなど次々

と店を離れた。

 

今年9月からは美知子さんのおいで現在大将を務める向野公士さん

(45)と、高森悠平さん(30)が2人ですしを握ってきたが、高

森さんも今月で退職することに。向野さんだけでは、カウンター9

席と、座敷2部屋を切り盛りできなくなるため、新たな職人を探し

たものの、コロナ禍で飲食業が敬遠されがちだからか、代わりは見

つからなかった。

 

 

 

 

 

 

「サービスを落としてまで」

サービスを落としてまで営業すれば、夫が守ってきた看板に傷がつ
営業すれば、夫が守ってきた看板に、戻る2

くと、美知子さんは悩んだ末に閉店することにした。そう決めると

自然に涙があふれてきたという。

 

「自分の店を持ちたいという思いは誰でも持っている。引き留める

ことはできない」と店で修業した職人たちを快く送り出してきた美

知子さん。巣立った高谷さんの弟子たちは「鮨八や」「飛」「河原

町一」「鮨処あいじ」など金沢市内の各店で板場に立つ。

 

向野さんは高谷さんと過ごした18年を振り返り「大将はすしを握

る技術もすごかったが、お客みんなに話し掛けて、目と耳がいくつ

あるんだと思うくらい器用だった」と懐かしそうに目を細めた。

「営業29日が最後で、食べ納めに」

営業29日が最後で、食べ納めに訪れる人で予約が埋まっている。
訪れる人で予約が埋まっている、戻る3

回転すしチェーン「もりもり寿し」を経営する上野謹一さん(5

6)も常連客の1人。上野さんは「最初は勉強のために来たが、

ほっとできる店の雰囲気が好きだった。進二郎さんは多くの弟子

を育てたから、その思いはつながっていくはず」と話した。北陸

のすし牽引、野々市「太平寿し」閉店、名物大将他界から4年、

弟子独立、半世紀で幕。名物大将の寿しを握る腕前は素晴らし

かったが、話好きで優しい人柄でどんな客とでも話をしていた。

その気さくな性格が客を引き付けていた。そこが最大の魅力で

あった。

 

 

 

 

 

 

 

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大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」

 

(大野はむらさき6、金沢港から人呼び込め、活気へまちづくり構想、

課題は「交通問題」)

大野から金沢港を

大野から金沢港を望む護岸は、釣り人の人気スポットだ。夜にはラ



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イトアップされた金沢港クルーズターミナルが遠くに見える。

望む護岸は、釣り人の

「金沢港は、住民の長年の夢だったんや」。町会連合会の粟森長八
人気スポットだ。夜には

外部リンク

さん(78)=大野町4丁目=を訪ねると、問わず語りに港整備の

歴史を言い始めた。

 

明治時代の大野の地図を見せてもらった。県金沢港大野からくり記

念館がある大野町4丁目周辺と、石油基地などがある対岸の粟崎の

丘は陸続きだった。港を造るため、農地を掘り込み、まちの形を大

きく変えたことがよく分かった。

 

(「復活劇」夢見て)

なぜ大野の人々は、これほど大がかりな港整備工事を受け入れたの

か。それは、鉄道の発達や自動車の登場で打撃を受けた舟運のまち

・港町大野にもう一度人を呼び込むための「復活劇」を夢見ていた

からだった。

 

大正時代、住民は大型船の着港を見据えて「金沢港整備」の声を上

げていた。1935(昭和10)年、旧大野町が金沢市との合併を

選んだのも「金沢港実現のため、住民の気持ちが一つになったから」

と粟森さんはみる。

「大がかりな掘り込みが必要」

大がかりな掘り込みが必要な金沢港整備の一大プロジェクトは、戦
金沢港整備の一大プロジェクト、戻る1

争の勃発などで幾度となく浮かんでは消えた。だが、三八豪雪で陸

上交通が破壊的な打撃を受けると、金沢港整備計画が一気に現実味

を帯びた。地元では開港に向けた建設用地の確保などを進め、70

年11月、悲願の金沢港開港となったのである。

 

金沢港は完成した。それでも大野に昔ほどの活気が戻ったとは言い

難い。昭和の終わり頃に若者世代の流出が進み、人口減が課題とな

った。そこで大野の住民が中心となって1988年に「まちづくり

委員会」を組織し、新たな大野の整備へ構想を練ってきた。

 

構想の中には港近くにある「お台場公園」整備やからくり記念館設

立の実現、子育て世代の増加を目指した県営住宅の誘致など、すで

に形になったものがある。

 

 

 

 

 

「大野のまちの象徴的な存在」

大野のまちの象徴的な存在といえるのが、98年に商工会の有志が
といえるのが、98年に商工会の有志、戻る2

設立した、カフェ兼ギャラリーの「ギャラリー&茶論 もろみ蔵」

だ。使われなくなったしょうゆ蔵をまちの活性化に生かそうと、9

8年にオープンした。

 

住民と観光客の憩いの場となっている蔵は、所有する「紺市醬油」

の紺田健司さん(72)が管理する。紺田さんは蔵のオープンを皮

切りに、他の建物も工房や店舗として貸し出し、一帯には大野の外

からやってきた人による出店が4件あった。自身も観光ガイドとし

て活動する紺田さんは「大野をリピーターが来るまちにしたい」と

笑みを見せる。

 

課題は「交通問題」

早くから「まちづくり」が意識されてきた大野。住民に今の課題を

尋ねると、「交通問題」を挙げる人が多かった。

 

大型クルーズ船の客が大野へ気軽に訪れることができたら。年間7

万5千人が来場する「糀パーク」は、もっとにぎわっているだろう。

市内全体の観光にも効果が波及するかもしれない。口々に大野の発

展を熱く語る人々を前にすると、自然と夢が膨らむ。

「金沢の城下町とは違った発展」

金沢の城下町とは違った発展の歴史をたどった「むらさきのまち」。
歴史をたどった「むらさきのまち」、戻る3

しょうゆ造りや祭礼を守るいちずさと、外からもたらされた文化や

人を柔軟に受け入れる懐の深さ。まちの形が金沢港整備で大きく変

わったが、大野の精神は今も息づいている。金沢の「海の玄関口」

として、たくましく発展するのだろう。大野はむらさき6、金沢港

から人呼び込め、活気へまちづくり構想、課題は「交通問題」。醬

油は昔から大野が有名である。家では今でも大野醬油を使っていま

す。他の醬油は使いません。おいしい醬油です。

 

 

 

 

 

 

 

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