署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5人帰国20年、「この時計は母」

((署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5人帰国20年、「この

時計は母」)

1978年に北朝鮮

1978年に北朝鮮へ拉致された蓮池薫さん(65)と妻祐木子さ



内部リンク

ん(66)=新潟県柏崎市、曽我ひとみさん(63)=同県佐渡市、

拉致された蓮池薫さん

地村保志さん(67)と妻富貴恵さん(67)=小浜市=が200
(65)と妻祐木子

外部リンク

2年10月に帰国して、15日で20年となった。5人は仕事や生

 

活の傍ら、拉致問題の解決を願い、講演や署名活動で訴え続けてい

る。

 

北朝鮮は今年に入り弾道ミサイル発射を繰り返し、日朝関係は膠着

状態となっている。政府が認定した残る被害者12人の帰国への道

は依然遠い。待ちわびる家族の高齢化だけが進み、近年は横田めぐ

みさん=失踪当時(13)=の父滋さんらが相次いで亡くなった。

 

02年9月に当時の小泉純一郎首相が訪朝し、金正日総書記が拉致

を認めて謝罪。蓮池さんら5人は翌月、帰国を果たし、04年に北

朝鮮に残した子どもら7人が来日した。

 

(拉致被害者5人・帰国20年)

蓮池さんは、柏崎市の新潟産業大准教授として朝鮮語などを教える。

翻訳や著書の執筆に取り組み、12年には北朝鮮での生活をつづっ

た手記「拉致と決断」(新潮社)を出版した。

「佐渡市の養護老人ホームで」

佐渡市の養護老人ホームで介護の仕事をしている曽我さんは、街頭
介護の仕事をしている、戻る1

署名や講演会で、母ミヨシさん=同(46)=らの思い出や北朝鮮

での生活を語るなど精力的に活動している。夫のジェンキンスさん

は「佐渡歴史伝説館」の土産物店で働いていたが、17年12月に

77歳で亡くなった。

 

地村さんは勤めていた小浜市役所を16年3月に定年退職した。そ

の後は同市内で署名活動や拉致問題啓発の講演会に参加している。

富貴恵さんも福井県の嘱託職員を退職し、3人の子どもは県内企業

に就職するなどしている。

 

(「この時計は母」)

母から贈られた大振りの腕時計。准看護師として働き始めたころに、

患者の脈を測るのに便利だと選んだ。その後、24年に及ぶ北朝鮮

での生活と、帰国後に母を待つ20年という長い時間をともに過ご

してきた。

「この時計は母であり、何かにくじけそうになると𠮟ったり励まし

てくれる宝物」。北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんにとって、一

緒に連れ去られた母ミヨシさんを含む被害者がもどらない限り、拉

致問題は終わらない。

 

 

 

 

 

19歳だった1978年8月12日、新潟県佐渡市(当時真野町)

で母と道を歩いていたところ、男3人にいきなり袋をかぶせられ、

担いで運ばれた。乗せられたのは船。ミーティング港に着くと日

本語で「北朝鮮だ」と言われた。動転したが、一緒にさらわれた

はずの母がいないのが、何より心配だった。

 

母は、楽ではない暮らしの中で朝は田畑を耕し、昼は工場に勤め、

夜は内職を続け、その生活に愚痴の一つもこぼさなかった。小学

校の遠足では、ウインナーと卵焼きがたくさん入った弁当を作っ

てくれた。ただ、母のおかずは少しの漬けものだけ。

「辛いから、ご飯がいっぱい食べられるんだよ」と笑っていた。

「友達の浴衣がうらやましい」

友達の浴衣がうらやましいとねだると、夜を徹して縫ってくれ
ねだると夜を徹して、戻る2

た。寒い雪の日の帰り道、「仕事が早く終わった」と駆け寄っ

てきて上着に包んでくれた。涙ににじむ思い出の中でも、いつ

も笑顔だった母。拉致された日から、会えていない。

 

北朝鮮では新しい家族ができた。元米兵で亡命していたチャー

ルズ・ジェンキンスさんと結婚、2人の娘を授かった。

 

2002年に帰国、北朝鮮に残っていた家族も04年に来日し、

佐渡市で一緒に暮らし始めた。父茂さんは05年になくなった

が、時間を共有することが実現した。家族も地元になじむ努力

を惜しまず、友人らにも支えられた。

 

ただ、「幸せな分、ここに母がいなきゃな」との思いは消えな

かった。そして夫は17年に亡くなった。娘2人も家庭を持ち、

今は1人暮らしだ。

 

北に残る拉致被害者に危害が及ぶのを恐れ、活動を抑えてきた

時期もあったが、次第に積極的に支援を呼びかけるようになっ

た。「わずかな時間でも、母ちゃんを取り戻して、ともに過ご

したい」との思いからだ。

「腕時計が傷つき電池が」

腕時計が傷つき、電池が切れるたびに母に何かあったかと不安
切れるたびに母に何か、戻る3

になる。それでも、いつか帰る日を祈りながら、時を刻む針を

見つめ続けている。署名や講演・解決訴え続け、拉致被害者5

人帰国20年、「この時計は母」。曽我ひとみさんの母親は苦

労人で良く働く人でした。母親のご飯のおかずは漬けものだけ

です。それでも辛いからご飯が進むのよと言って笑っていたそ

うです。どんなに辛くても笑顔のたえない人でした。母親の所

を読むと自然に涙が出てきて止まりませんでした。娘の弁当の

おかずはたくさん作ったそうです。自分は我慢しても娘にはひ

もじい思いをさせたくなかったのでしょうね。本当に心から感

動しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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瓢箪から下町、「まいどさん」彦三で修業、ボランティア大学校出身

(瓢箪から下町、「まいどさん」彦三で修業、ボランティア大学校

出身)

秋が深まる城下町で

秋が深まる城下町で、黄色のジャンパーをまとった金沢観光ボランテ



内部リンク

ィアガイド「まいどさん」によく出くわす。コロナが落ち着き、よう

黄色のジャンパーを

やく戻ってきた観光客に真心を込めて案内するメンバーたちは、瓢箪
まとった金沢観光

外部リンク

地区にある市中央公民館彦三館でガイドの心得を身に付けたという。

 

未来のまいどさんたちが通っているのは、彦三館にある「金沢ボラン

ティア大学校」(ボラ大)の観光コースだ。今年も第29期生が5月

から翌年2月まで全25回、現役のまいどさんや有識者から、名所旧

跡の歴史やボランティアの心構えを学んでいる。

「ボラ大事務局によると」

ボラ大事務局によると、昨年度までに830人が修了し、多くの人が
昨年度までに830人が、戻る1

まいどさんとして活躍している。

「観光コースは人気で、2回落選しました」。彦三館の近くに住む八

幡真一さん(70)は、会社員時代にあまり地元に貢献できなかった

との後悔から、定年退職する数年前、ボラ大に通い始めた。

 

12年前に念願のまいどさんとなり、小学生を案内することもある。

「知識を積むことで、ありふれた景色に違う側面があると子どもたち

に伝えることができると楽しい」とやりがいを語る。

(生涯学習の拠点)

どうして彦三館にボラ大があるのだろう。事務局長の喜田徹さんによ

ると、ボラ大は1994(平成6)年、当時の山出保市長の下、全国

の自治体で初めて設立された。国内でボランティア活動が盛んになる

きっかけとなった阪神大震災が起きる前年だった。

 

 

 

 

 

 

「当初は中央公民館長町館で」

当初は中央公民館長町館で講義をしていたが、2001年、旧金沢
講義をしていたが、戻る2

税務署跡地に彦三館が完成し、ボラ大は移った。彦三館はボラ大の

ほか、65歳以上の市民を対象とする「高砂大学校の拠点となって

いる.。

「交通の便が良く『バス通学』が多いです」と喜田さんは笑う。

 

彦三館の一室をのぞくと、いろいろな年代の人が大学の授業のよう

に90分間の講義を受けていた。ボラ大は市内や近郊に住む満18

歳以上が対象で、観光をはじめ、国際交流や福祉、環境など8コー

スに分かれて今期は20~80代の188人が受講している。八重

澤美知子理事長(金大名誉教授)は「同じ年代が集まる大学とは違

い、ボラ大は幅広い年代が一緒に学ぶのが魅力です」と話す。

 

受講生の盛実重利さん(68)=富樫1丁目=はメーカーを退職後、

金沢の知識を身に付けたいと、受講を決めた。愛媛生まれの盛実さ

んは「普段は関わらないような人たちと交流できる。終了後は何か

のグループで活動したい」と希望を語る。

「実際これまでの修了生の中には」

実際、これまでの修了生の中には、同期で意気投合してグループを
同期で意気投合して、戻る3

つくったり、同窓会を通して縦のつながりができたりしている。ま

いどさん以外にも、環境保全や金沢駅の「金沢もてなし隊」など地

域活動で活動している。

(地域活動の核に)

「多様な人が集まることで刺激し合える。修了生が地域活動の核と

なってほしい」と八重澤理事長は期待を寄せる。金沢の生涯学習の

拠点である彦三館。来年は節目の30期生を迎える。バス通学する

高齢者らの姿を見ると、自分ももっと学びたくなった。瓢箪から下

町、「まいどさん」彦三で修業、ボランティア大学校出身。確かに

人はいくつになっても学びたいと思うはずです。それが人間の向上

心です。80歳になっても健康で地域活動ができる人は幸福です。

人間は人の役に立ちたいと思うのが自然です。そして、それが生

きがいにつながります。私もそういう人になりたいと思っていま

す。

 

 

 

 

 

 

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中国共産党大会が開幕、現実味帯びる台湾侵攻、「偉業」へ5年以内に決断か

(中国共産党大会が開幕、現実味帯びる台湾侵攻、「偉業」へ5年

以内に決断か)

中国共産党の習近平

中国共産党の習近平総書記(国家主席)は党大会冒頭の中央委員会



内部リンク

報告(政治報告)で台湾統一に向けて「武力行使を決して放棄しな

 
総書記(国家主席)は

い」と宣言した。建国の父、毛沢東もなし得なかった台湾統一の
党大会冒頭の中央委員会

外部リンク

「歴史的偉業」を実現できれば、極めて強い求心力を獲得でき、終

 

身指導者の地位さえ視野に入る。習氏が今後5年以内に大きな決断

をするとの観測が広がる。

 

(現実味帯びる台湾侵攻)

「統一は必ず実現しなければならず、必ず実現できる」。習氏が力

強く表明すると、会場の人民大会堂は拍手に包まれた。習氏は武

力行使の対象は「外部勢力と台湾独立勢力」だと説明。党規約改正

で「祖国の完全統一の実現は党の揺るぎない歴史的任務」との文言

が盛り込まれる見込みだ。

 
「毛の時代に共産党軍は」

(毛沢東も実現できず)

毛の時代に共産党軍は、大陸から逃れた蔣介石の国民党が新たな拠
大陸から逃れた蔣介石の、戻る1

点とした台湾本島に進軍するため、台湾側が今も実効支配している

金門島に激しい攻撃を加えた。だが、米国の台湾支援もあり作戦は

失敗。鄧小平らその後の指導者は、中国の経済発展で大きな業績を

残したものの、統一に道筋を付けることはできなかった。

 

福建省のアモイや福州で、指導者としての下積み時代を送った習氏

にとって、対岸の台湾は身近な存在だ。毛が攻略できなかった金門

島はアモイの目と鼻の先にある。台湾経済人の同省訪問も活発で、

中国メディアによると「習氏は17年間にわたる福建省での勤務を

通じ、台湾および両岸(中台)関係を深く知ることになった」とい

う。

 

習氏が台湾にこだわるのは、それだけが理由ではない。中国は19

70年代末以降、鄧の改革開放政策で飛躍的な経済発展を遂げ、

「共産党は生活を豊かにしてくれる頼もしい存在」(中国政治研究

者)だった。しかし、既に高度成長は終了した。「愛国心を盛り上

げなければ共産党不要論が浮上しかねない時代」(同)となりつつ

ある。「祖国統一」は全国民にとって分かりやすい「偉業」だ。

 
「台湾では、2月のロシアによる」

台湾では、2月のロシアによるウクライナ侵攻後、中国の武力統一
ウクライナ侵攻後、戻る2

への警戒心が広がった。世論調査で中国による侵攻の可能性が「あ

る」と答えた人は、ウクライナ危機前の26・6%から38・6%

に急増した。

 

 

 

 

 

台湾総統選が行われる2024年から習氏の3期目が終わる27年

は、特に警戒が必要な期間という見方が出ている。21年に米国の

デービッドソン・インド太平洋軍司令官(当時)が「6年以内」の

台湾有事を警告。台湾政府関係者は「24年には米大統領選と台湾

総統選で、米台の政治状況が不安定になるが、中国は盤石の習体制

3期目だ」と懸念する。

 

「一つの中国」原則を突っぱね続ける蔡英文総統は、中国から絶え

間ない圧力を受けながら、独立でも統一でもない「現状維持」の立

場を堅持して乗り切ってきたが、任期はあと1年半。次期総統には、

「独立派」を公言していた頼清徳副総統が有力視され、中国がペロ

シ米下院議長の今夏の訪台時と同様、激しい軍事演習で揺さぶりを

かける可能性がある。

 
「ただ実際には、米軍の介入を」

ただ実際には、米軍の介入を前提とすれば、中国軍による台湾侵攻
前提とすれば、中国軍、戻る3

のハードルは極めて高い。台湾政府内では米国の一段の支援を求め

る声が高まり、日本の議員による訪台も活発化している。日中関係

筋は「3期目に入る習政権は統一をにらみ、まずは日米台の切り崩

しに動く」と予測する。中国共産党大会が開幕、現実味帯びる台湾

侵攻、「偉業」へ5年以内に決断か。中国共産党の首脳部も一枚岩

ではなさそうな気がします。首脳部が何人か交代しました。残った

のはイエスマンばかりのような気がします。習氏の独裁政治が強す

ぎて他の首脳は意見を言えないのでしょうね。台湾が心配ですが米

国のバイデン大統領は有事の際は台湾を守ると、はっきりと発言し

ています。後はヨーロッパがどう動くかで様子は変わると思います。

今回は簡単には終わらないような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

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危惧種自生する「宝の森」、半世紀育った森林住宅地、豊富な恵み「生活変わる」

そ(危惧種自生する「宝の森」、半世紀育った森林住宅地、豊富な恵

み「生活変わる」)

森林住宅地を歩いて

森林住宅地を歩いていると、名前も特徴も知らない植物を多く見か



つく
内部リンク

ける。眺めているだけではもったいない。ここでの自然の楽しみ方

いると、名前も特徴も

を教えてもらおうと、大和ハウス工業の現地案内所のスタッフに詳
知らない植物を多く

外部リンク

しい人を紹介してもらい、一緒に散策に出た。

 

7日午後直前まで降っていた雨もやみ、木漏れ日の中で待ち合わせ

たのは「能登の山を歩く会」会員で山菜アドバイザーの角章子さん

(69)=穴水町。角さんは大和ハウス工業が企画する自然観察会

で講師を務めているという。

 

雑木林の散策路は落ち葉が幾重にも敷き詰められ、ふかふかして歩

いているだけで気持ちがいい。早速「ここにナツハゼがあるよ」と

角さん。指さす先を見ると、小さな黒っぽい実が連なっていた。

「里山のブルーベリーね。山歩きの時に食べると元気が出る」と聞

き、口に入れると、甘酸っぱい香りが広がった。

「角さんによると、森林住宅地には」

(植物は100種以上)

角さんによると、森林住宅地にはアカマツが多いそうだが、そのほ
アカマツが多いそうだが、戻る1

かにも100種類以上の植物が確認されている。県内では各地で保

護活動が行われている県指定の準絶滅危惧種ササユリも自生。角さ

んに「ほら、あそこ」と促されて目を向けたが、今の時期、花を付

けているわけではないから、言われなければ気付かなかった。

 

角さんが「あった、あった」とうれしそうに見ていたのが、薄紫色

の鐘のような花が特徴の山菜「ツリガネニンジン」。根っこが朝鮮

人参の代用として使われる。県内で見られる場所は珍しく、角さん

もそうそうお目にかかれないらしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山菜「コシアブラ」はもうすぐ黄色の紅葉を見せてくれるそう。わ

ずかな距離を歩いただけでも多くの植物に出会えたが、山好きに人

気がある植物がそろった、いわば「宝の森」とのこと。「住民には

季節の旬を感じながら少しずつでも庭に手を入れて、この環境を守

ってほしい」との言葉に納得した。

(ヘビもムカデも)

住民はそうした豊富な森の恵みをどう生かしているのか。奈良県桜

井市から移り住んで6年目の徳差正毅さん(67)、久美子さん

(69)夫妻を訪ねた。

「久美子さんがテーブルに」

久美子さんがテーブルに次々と並べてくれたのは、フキノトウみ
「次々と並べてくれたのは、戻る2

そ、ナツハゼの実に砂糖を混ぜて煮たジャム、シソの実のつくだ

煮、ゆでたクリの実など。全て自宅の庭で集めたものを使ってい

る。

 

天気が良ければ庭で食事することも多いという2人。久美子さん

は「奈良にいた時は買い物やランチによく出掛けていたけれど、

ここに来たら家にいる時間が長くなってね。生活が変わった」と

笑う。

庭先で出くわす大きなヘビもムカデも、たまに顔を出すタヌキも、

この地に暮らす人たちにとってはご愛嬌か。久美子さんは「コス

モスの花や、ぎょうさん拾ったクリの写真を奈良の友達に送ると、

うらやましがられるのよ。ここに来て、工夫次第でいくらでも楽し

むことができると分かった」と胸を張る。

「住宅地を巡ると、広々とした庭で」

住宅地を巡ると、広々とした庭で花壇作りに励む姿や薪割りをする
花壇作りに励む姿や、戻る3

人も見かける。里山に人の手が入らず、生息域を広げたクマの出没

が問題化して久しいが、森とともにある生活を謳歌できるここには、

過疎と高齢化の時代の暮らしのヒントがあるかもしれないと思った。

危惧種自生する「宝の森」、半世紀育った森林住宅地、豊富な恵み

「生活変わる」。現代でも100種以上の植物が確認される森があ

る。ここを自分たちの庭のように利用して暮らす徳差夫妻は幸せで

ある。色々な植物があるからほとんど自給自足の生活ができる。何

と幸せなことでしょうね。本当に贅沢な生活だと思いました。自然

の中でゆったりと暮らす生活。現代人はみんな憧れると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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父が帰って来たのは奇跡、娘の太田さん捜索協力に感謝、偶然重なり、手取川で発見

(父が帰って来たのは奇跡、娘の太田さん捜索協力に感謝、偶然重

なり、手取川で発見)

散歩に出て行方不明

散歩に出て行方不明となり、9月12日に川北町内の手取川で見つ



内部リンク

かった白山市の高齢男性の遺族が、捜索に携わってくれた人たちへ

 
となり、9月12日に

のお礼の言葉をつづった投稿を北國新聞朝刊の「地鳴り」欄に寄せ
川北町内の手取川で

外部リンク

た。遺体発見までの17日間、チラシの配布、SNS(交流サイト)

 

での呼びかけなどで広がった協力の輪。生きての対面はかなわなか

ったものの、10月16日に葬儀を無事終え、「奇跡的に家に帰っ

て来られた」と遺影に手を合わせながら感謝の思いを強くしている。

 

(本紙「地鳴り」に投稿)

投稿を寄せたのは白山市白山町の太田里奈さん(44)。8月27

日に同居する父田中幸弘さん(74)の行方が分からなくなった。

太田さんによると、散歩が日課だった田中さんは、行方不明になっ

た日も午後3時頃に「散歩に行く」と言って家を出た。

 

5、6年前に軽度の認知症と診断されていたが、「いつも1時間ほ

ど歩いたら何事もなく帰ってきていた。特に心配はしていなかった」

と太田さん。ただ、この日は日没後も戻らなかった。家族で近所探

し回っても手がかりがなく、白山署に捜索願を出した。

 
「自宅がある南白山町内会」

自宅がある南白山町内会の住民も総出で捜索に協力。2日後の29
の住民も総出で捜索に協力、戻る1

日には自宅から約10キロ離れた白山市下吉谷町で田中さんの目撃

情報が寄せられた。その周辺でチラシを配ると町会長らが親身にな

って各家を訪ねて情報提供を呼び掛けてくれ、太田さんの子どもの

友人たちも鶴来駅などへのチラシの掲示を手伝ってくれた。

 

太田さんの妹、石高美奈さん(41)=小松市向本折町=がインタ

ーネットで情報を募ると、あっという間に県内外の人たちにSNS

で拡散された。

 

 

 

 

心配でたまらない日が続いたが、9月12日に身元不明の遺体が発

見された。太田さんはすぐに警察に連絡を取った。DNA鑑定などを

経て10月13日、田中さんと特定された。

 

遺体発見は偶然が重なっての出来事だったという。手取川の増水に

より、能美市内で中州に取り残された釣り人が救出される事案が発

生。この時救助された男性が「上流にもまだ釣り人がいるかもしれ

ない」と話したことから、捜索が続けられた。石高さんは「たまた

ま探してくれたから遺体が見つかった。本当に奇跡だった」と振り

返る。

 

火葬を終え、田中さんの遺骨は家族の元に戻った。田中さんの妻香

代子さん(68)は「急だったから、まだ仏壇がないのよ」とさみ

しそうに笑った。小さな祭壇には「飲まず食わずだったはず」と大

好きだったたい焼きが供えられた。

 

石川県警のホームページには11人分の行方不明者情報が掲載され

ている。大半が高齢者だ。太田さんは「帰ってこない人も多いと聞

くが、父は皆さんのおかげで帰ってきてくれた。知人だけでなく見

ず知らずの人にも協力してもらい、温かさが身に染みた」と目頭を

押さえた。

 

(太田さんが「地鳴り」に寄せた投稿)

父の捜索に協力してくださった方々へ

8月27日、父が散歩に出掛けたまま行方不明になりました。そ

の際にたくさんの方々が捜索に協力してくださいました。

ボランティアで捜索してくださった方、SNSで拡散してくださっ

た方、チラシを配布してくださった方、知り合いに情報を流してく

ださった方、早く見つかるようお祈りしてくださった方。本当にた

くさんの方々が貴重なお時間と労力を使って協力してくださりまし

た。

本当はお一人ずつお礼を申し上げたいのですが、この場をお借り

して心よりお礼を申し上げます。

9月12日に手取川で釣り人救出の際、偶然発見された遺体が父

でした。あの日釣りをしておられたお二人の方、「上流にまだ釣り

人がいるかもしれない」と伝えてくださり、ありがとうございまし

た。その一言のおかげで父は奇跡的に見つかりました。

皆さまのご協力のおかげで父は家に帰って来られました。DNA

鑑定が長引いて遅くなりましたが、本当にありがとうございました。

父が帰って来たのは奇跡、娘の太田さん捜索協力に感謝、偶然重な

り、手取川で発見。認知症の高齢者では時々ある事件のようです。

 

認知症の薬は今までは進行を遅らせるだけで治す薬はありません

でした。しかし、エーザイが治療薬を開発しました。来年以降に

認可されれば多くの人に恩恵を与えることでしょうね。脳細胞に

くっつく悪玉のタンパク質を破壊して脳細胞を守るそうです。速

く発売されて認知症に苦しむ人が少しでも減ることを祈っていま

す。白山市の父親も軽い認知症で散歩をしている時に、道に迷っ

てしまったと思われます。そして川に転落したのだと思います。

娘の太田さんの地鳴りに投稿した文章は短いなかに捜索に協力

してくれた全ての人に心からの感謝を述べています。また二人

の釣り人への感謝も丁寧に書かれています。読んでいて涙が出

ました。素晴らしい文章だと思いました。感心しました。

 

 

 

 

 

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高校の中学別進学者数、泉丘・兼六中が最多26人、野田25人、紫錦台23人

(高校の中学別進学者数、泉丘・兼六中が最多26人、野田25人、

紫錦台23人)

泉丘高をはじめ、

泉丘高をはじめ、二水、桜丘、小松、七尾各高の2022(令和4)



内部リンク

年春の中学校別の進学者数が16日までに北國新聞社の取材で分か

二水、桜丘、小松、七尾

った。泉丘の最多は兼六26人で、野田25人、紫錦台23人と続
各高の2022(令和4)

外部リンク

き、上位3校は金沢市中心部や「文教地区」にある学校となった。

 

金沢市内では生徒数がほぼ同規模の中学校でも、泉丘の進学者数に

20人以上の差があり、学校間格差も浮き彫りになった。

 

(金沢市中心部と文教地区上位)

泉丘は国立では東大、京大、私立でも早大、慶大などに合格者を多

く輩出する石川トップの県立高で、中学校別の進学者数が明らかに

なるのは初めて。

 

今年春の進学者数の4位以下は長田19人、高尾台18人、泉、清

泉、松任の各17人、浅野川16人、鳴和13人と続いた。上位1

0校は白山市の松任を除いて、いずれも金沢市内の学校だった。

「泉丘への進学者数が最多だった」

泉丘への進学者数が最多だった兼六の可長俊太校長は「小学校から
兼六の可長俊太校長は、戻る1

学習習慣が身についている生徒が目立ち、塾に通っている子も多い

ようだ」と話した。

 

一方、2クラス以上ある金沢市の公立中では金石2人、城南3人、

港4人など、1桁の学校が8校あった。

 

金石の町出達朗校長は、泉丘への進学者が少ない理由は分からない

としながらも「市中心部の学校に比べると、進学に対する意識が若

干薄いのかもしれない」と述べた。

 

金沢市内の中学校における泉丘への進学者数の差について、市内の

教育関係者は「進学者が多い学校は保護者の教育熱が高い傾向にあ

る」との見方を示す。

 

 

 

 

 

 

 

「紫錦台は校下に金大附属病院が」

紫錦台は校下に金大附属病院があることから、医療関係者が多数住
あることから、医療関係者が、戻る2

んでおり、兼六校下も金大に勤める保護者が多いとされる。野田は

校下一帯が文教地区と呼ばれ、比較的所得が高い世帯や転勤族が居

住するケースが目立つという。

 

(二水・野田、桜丘・浅野川、小松・松陽、七尾・七尾)

これに対し、金沢市西部の中学校は泉丘への進学者数が比較的少な

い。理由については「いずれの中学校も泉丘や二水、桜丘と距離が

あり、学習意欲が湧きにくい」(金沢市内の塾関係者)と見る向き

もある。

 

泉丘以外の高校の進学者数では、二水は野田が31人でトップ、野

々市25人、兼六24人、長田23人、額20人となった。金沢市

南部の高校のため、その周辺からの進学者が多いとみられる。桜丘

も同様の傾向で、上位は高校に近い浅野川36人、北鳴28人、鳴

和22人の順で、内灘が21人、森本、津幡南が各18人だった。

 

小松高は松陽37人、芦城32人、南部27人と小松市内の学校が

上位を占め、隣接する能美市の辰口から25人、寺井が24人で続

いた。七尾高は七尾44人、七尾東部28人、中能登23人、志賀

19人、穴水18人となった。

「20日発売の月刊北國アクタス」

(アクタスで詳報)

20日発売の月刊北國アクタス11月号では泉丘、二水、桜丘、小
11月号では泉丘、二水、桜丘、戻る3

松、七尾の過去5年間の中学校別進学者数を全て公開する。各高へ

進学する生徒の割合「進学率」を中学校ごとに算出したデータも加

えた詳報を伝える。高校の中学別進学者数、泉丘・兼六中が最多2

6人、野田25人、紫錦台23人。泉丘は金沢市内の中心部の中学

からが多いと思います。紫錦台は生徒数が少ないのに3位の23人

は立派な成績だと思いました。東大だけが大学ではありませんが将

来、東大を狙う学生はやはり泉丘へ入った方が有利ですね。二水か

ら東大は厳しいと思います。私の次女は泉丘に入ったのですがバレ

ーボールのセッターでキャプテンでした。大学は富大へ入りました。

大学院へ行きたいと言うので行かせました。他の2人は私学だった

ので経済的には苦労しました。3人大学へ上げるのは大変でしたね。

それでも、今は良かったと思っています。チャンスは与えてあげる

べきです。このブログのようにいい高校を卒業していい大学へ入っ

た人は幸福だと思います。社会に出て懸命に仕事をして家族や周り

の人を幸せにしてほしいと願っています。

 

 

 

 

 

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