高専時代に2年生まで物理学を教えてもらった問屋先生の東京での交通事故死の思い出

(高専時代に2年生まで物理学を教えてもらった問屋先生の東京

での交通事故死の思い出)

高専の1年生と2年生の、物理を教えてもらったのが、問屋先生で
物理を教えて

す。先生は非常に厳しくて、特に物理の実験の時は、どんなに遅く


なってもその日の内に、回答を出すと言うのが、原則でした。実験
高専の

が終わると、みんな図書館へ行って、回答にたどり着く、ヒントを

内部リンク

探すのに、必死でした。図書館は実験を終えた、学生でいっぱいに

 

なりました。どんなに遅くなっても、回答を出すまでは、家に帰る

事は、出来ません。私は、一度だけですが、回答が出なくて先生に

外部リンク

夜、遅くに家まで送って、もらった事があります。先生は、厳しい

 

ばかりではなくて、約束は必ず守る、優しさも兼ね備えた、人でし

た。しかし、勉強に関しては、本当に厳しい人でした。進級会議の

時は、赤点の学生は、進級は認めない、考えの人でした。

 

でも、我々が卒業してからは、テニス部の顧問になって、一生懸命

に部員の面倒を見る、優しい人でした。毎年、夏休みには、現役と

OBの交流会を、開いてくれて、試合をしたり、美味しい物が用意

されていて、されらをご馳走になって、交流会は本当に楽しかった

です。交流会の後は、先生の家にお邪魔して、我々の事を現役の学

生に、色んな話をして、もらいました。本当にいい思い出です。

「津幡の人」

高専は、津幡にありましたから、ボランティアで、津幡の人でテニ
高専は、戻る1

スが好きな住民に、コートを提供して、熱心に指導していました。

津幡の住民からも、好かれていました。なかなか、簡単に出来る事

ではありません。時には、津幡の町民のために、テニスの大会を開

催したり、練習会を開いて見たりして、町民のために尽くして、い

ました。また役員もされていました。

 

現役の学生は、OBの協力もあって、北陸地区だけではなく、全国

の高専大会でも、優勝や準優勝を何回も、経験しています。それも

個人戦だけではなく、団体戦でも好成績を、残しています。これも

ひとえに、先生の人柄とテニスに、対する熱心な気持ちに、よる所

が大きいと、言えると思います。

 

 

 

 

 

 

 

先生はテニスばかりではなくて、学問にも熱心で広島大学へ、1年

国内留学して原子物理学を、研究されました。文武両道の素晴らし

い人でした。高専へ戻られてからは、テニス部の顧問に、戻られた

と思います。学問もテニスも、レベルアップされました。

「代表役員」

そんな先生が、北陸地区のテニスの、代表役員として、東京の岸記
先生が、戻る2

念体育館へ、全国の役員会のために、出かけられて、会議に出席さ

れて、会議を終えて帰る途中で、横断歩道を渡っている時に、車に

はねられて、帰らぬ人となって、しまいました。われわれOBを始

め、学生や津幡の町民や、その他の関係者は、悲しさと無念さと悔

しさで、打ちひしがされました。若くして本当に、大切な人をなく

して、しまいました。失って見て初めて、本当に偉大な人だった事

に気ずかされました。どんなにいい人でも、こんな不幸が待ってい

る事が、あるんだなあ。とつくづく、感じされられました。先生に

は、心から感謝します。

 

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