羽咋市が誕生したのは1958(昭和33)年7月1日。あと5日
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で「65歳」となる節目の年だ。その2年前、小さな村村だった余
喜地区は羽咋町、邑知町、鹿島路村の2町2村と合併した。
7月1日。あと5日
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「羽咋町と一緒になるか、ならないかで村を二分する激論があった
そうです。余喜村と鹿島路村が合併しなかったら羽咋は市になって
いなかった。立役者ともいえます」
市文化財保護審議会の藤田豊郁会長(67)=四柳町=は、余喜地
区が羽咋の市制施行に重要な役割を果たしたと力説する。
「もともと余喜村と鹿島路村は」
(郵便番号変更は最近)
もともと余喜村と鹿島路村は、当時の能登部町や金丸村(いずれも
当時の能登部町や金丸村、戻る1
現中能登町)と同じ鹿島郡だった。郡内での市町村合併のみ認めて
いた県に対し、余喜村と鹿島路村は群域を越えて羽咋郡の羽咋町、
邑知町との合併を決議。2町2村の合併への熱意が県を納得させ、
市制施行の条件である人口3万人を満たしたという。
大町で菓子店を営む矢野田比呂子さん(76)は「小学生の時は鹿
島郡の行事に出ていた。羽咋と中能登の中心部からほぼ等距離だか
ら、今も中能登とのつながりは強いですよ」と話す。
そういえば、余喜地区の金丸出町と下曽祢町の隣には、中能登町の
金丸と曽祢という似た地名がある。どちらも「どぶろく特区」だっ
たり、高級麻織物「能登上布」の生産地だったりと共通点を持ち、
生活環境やなりわいが密接につながっていたのだろう。
「同じ郡だった名残は最近まであった」
同じ郡だった名残は最近まであった。長らく余喜地区では中能登と
長らく余喜地区では中能登と、戻る2
同じ郵便番号「929」を使い、ほんの2年半前に羽咋市の「92
5」になったと八野田さんが教えてくれた。
(奈良時代から「よき」)
地区を巡り、さまざまな余喜のわがまち自慢に出合ったが、気にな
ることがもう一つ。「余りある喜び」というありがたい地名のルー
ツについてである。
市歴史民俗資料館の学芸員中野知幸さん(45)によると、そもそ
も余喜という地名は1889(明治22)の市制・町村制施行時に
登場したのだという。奈良時代の木簡や書物には「与木郷」「翼倚」
の文字が残る。大町の御門主比古神社に合祀され、今は跡地しか残
っていない餘喜比古神社があり、昔から「よき」と呼ばれていたこ
とだけは確かだ。
それでは、なぜ余と喜の漢字を使ったのか。住民によると、5河川
が流れる余喜地区はかつて氾濫が絶えず、戦後の邑知潟干拓までは
農地も少ない。旧余喜小の統合協議会委員長を務めた中村康徳さん
(73)=下曾祢町=に尋ねると、「貧しい土地に住んでいた先人
が、良きまちになってほしいとの願いを込めてつけたんでしょう」
と返ってきた。
「過疎が進んでも、わがまちの歴史を」
過疎が進んでも、わがまちの歴史を紡ぎ、魅力を高めようと奮闘す
紡ぎ、魅力を高めようと奮闘、戻る3
る余喜地区の人たちに出会った。ふるさとを思う気持ちは今も昔も
変わらず、これからも良き未来に向かってたくましく歩み続けるの
だろう。良きまち余喜、羽咋市誕生の「立役者」、元鹿島郡、合併
巡り激論、郵便番号変更。羽咋市は合併しても小さな市です。仕事
をしていた頃は羽咋へもよく行きました。能登で有名なのは丸井織
物です。これはかなり大きな会社です。今でも常に最先端を走るい
い会社です。常に新しいものを開発しています。だから強いのです。
金沢のカジナイロングループも強い会社です。
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