(山紫水明のなかで、数々の「命令」が嬉しく、岩城宏之さんその
1、「命令」は絶対だった)
先日、「森のうた」という岩城宏之さんの著書が再出版された。サ
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ブタイトルは「山本直純との藝大青春記」。河出文庫(河出書房新
社刊)だ。これに僕が解説を書いた。最初の出版時の林光さんによ
著書が再出版された。
外部リンク
る解説も載っている。メチャクチャ面白い本だ。宣伝を頼まれてい
るわけではないが、是非読んでみてください。
石川県立音楽堂のオープンは2001年9月。音楽学者・武田明倫
さんが洋楽監督に就任した。すでに1988年設立のOEK(オーケ
ストラ・アンサンブル金沢)音楽監督だった岩城さんは、武田さん
が03年に逝去されてしまうと、後任に僕を指名した。
「ご自分より5歳下の武田さん」
「イケベ、やれ|」
ご自分より5歳下の武田さんには「メイリンちゃん、頼むぞ」と言
「メイリンちゃん、頼むぞ、戻る1」
ったに違いないが、はるか歳下の僕には「イケベ、やれ|」という
命令だ。もちろん、僕は97年にOEK委嘱で「悲しみの森」という
曲を、また県立音楽堂開館記念として「呼びかわす山河」というオ
ラトリオを書いていて、いずれも岩城マエストロの指揮するOEK
で初演されている。
OEK以外でも、たとえば93年にサントリーホールで催された僕
の個展(新日本フィルによる)で「シンフォニー6『個の座標の
上で』」初演や、奥方である木村かをりさんのソロで「ピアノ協
奏曲2『おまえは私をー』」などを振ってくださっているから、
岩城さんにはお世話になりっぱなし。頭が上がらなかった。
複雑なスコアでも完璧に暗譜してしまう人だった。盟友である指
揮者・外山雄三さんの弁ー岩城の暗譜は不思議だ。頭の中に鏡が
あって、そこにスコアがまるまる映写されるって感じなんだ。す
ごいよ。
「前記悲しみの森の時に」
前記「悲しみの森」の時に県立音楽堂はまだなく、金沢市観光会
県立音楽堂はまだなく、戻る2
館(現・金沢歌劇座)での初演だったが、ゲネプロ(会場での最
終リハーサル)で、僕が記したテンポより速い。それを指摘する
と「わかってる。だが、響かないからつい先へ行ってしまうんだ」
と岩城さん。次の日、開館してまもない「ハーモニーホールふく
い」でも演奏された。今度は、僕の指定より遅い。すると「わか
ってる。だが、よく響くから、つい聴いちゃうんだ」
音楽のテンポは、その日の気候、会場の床や壁、座席その他の材
質、聴衆の入り、そのほかさまざまな要因で決まる。楽譜の数字
通りがただしいとは言えない。岩城さんは、当然だがそのことを
よく知る人だった。このとき僕は、岩城宏之という音楽家の真の
すばらしさをあらためて認識したのだった。
「倉敷の作陽大学音楽学部の」
(作陽大委嘱でなくー)
倉敷の作陽大学音楽学部の音楽最高顧問という要職にもあった。
音楽最高顧問という要職、戻る3
そこに新しいホールができるという時、岩城さんから電話。大学
のオケと合唱団、そしてOEKの合同演奏のために新作を書いてく
れ。条件はひとつ。ラストはフォルティッシモ。消えるように終
わるな。それだけだ。この曲の披露のとき、ステージで僕は言っ
たープログラムには、作陽大学委嘱作品とありますが、ちがいま
す。正しくは岩城宏之命令作品です。
「何てことを言うんだ」と岩城さんに怒られたが、でも、岩城さ
んからの数々の「命令」は、そのつど嬉しかった。僕は前記「最
高顧問」も岩城さんのあとしばらく務めたが、これも、もちろん
「命令」だった。山紫水明のなかで、数々の「命令」が嬉しく、
岩城宏之さんその1、「命令」は絶対だった。岩城さんといえば
入院中に木琴か何かで毎日、音楽の練習をしていたらしいです。
そして有名な指揮者になりました。ただ暗譜の能力は凄いですね。
人にそういうことができるのかと不思議でなりません。岩城さん
に備わった特別な能力なのですね。尊敬します。他の人にはでき
ませんからね。
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