海と砂丘のまち七塚、宇ノ気の踏切に七塚の地名、「魚逃げる」線路に反対

(海と砂丘のまち七塚、宇ノ気の踏切に七塚の地名、「魚逃げる」

線路に反対)

宇ノ気地区にある

「宇ノ気地区にあるJR七尾線の踏切の名前に、どういうわけか、



内部リンク

七塚地区の地名がついている」

 
JR七尾線の踏切の

県漁協南浦支所の元参事・山岸秀人さん(66)から、こんな話を
名前に、どういうわけか

外部リンク

耳にした。調べてみると、南から「第1白尾」(宇野気)「第2白

 

尾」(同)「外日角」(森)「秋浜」(宇野気)「遠塚」(宇気)

(木津)(横山)と、場所は宇ノ気なのに、名前が七塚という踏切

が全部で六つある。

 

「第1白尾」から「木津」までの線路の長さは約5キロ。「秋浜」

と「遠塚」の間に、地名がそのまま名前に採用された「七窪」踏切

がある。

 

山岸さん宅は「第1白尾」踏切のすぐそば。七塚の外日角生まれだ

が、結婚を機に宇ノ気に移ってきた。「踏切を見るたび、『なんで

なんかな』と思うんや」と首をかしげる山岸さん。七塚と宇ノ気の

双方にゆかりを持つため、余計に気になるようだ。

 
「七尾線は1898(明治31)年」

(痕跡の一つ?)

七尾線は1898(明治31)年4月、七尾ー津幡間で営業を始め
七尾ー津幡間で営業、戻る1

た。当初は私鉄の七尾鉄道が経営していたが、後に国鉄へ移管され、

JRの運営となった。

 

JR西日本によると、踏切の名前は所在地の地名から付くケースが一

般的で、七尾線の他の踏切はおおむねそれに当てはまる。ならばど

うして宇ノ気の、一部の踏切の名前にだけ、七塚の地名が使われた

のか、担当者に尋ねたものの、開業時の七尾線は私鉄だった上、設

置年代も古く、分からないとの回答だった。

 

七塚町史によると、当初の七尾線は七塚の砂丘地を南北に通る計画

だったとある。しかし、汽車の煙や振動によって魚が逃げてしまう

などと、住民から強く反対され、やむなく宇ノ気の西端に線路が敷

かれたと伝わる。

 

 

このため、山岸さんは「七塚の計画がとん挫した後も、踏切の名前

だけ残ったんじゃないか」と推察。同様の仮説を立てる七塚の住民

は少なくなく、秋浜区長の釜井泰廣さん(70)も「踏切の名前は、

海とともに生きてきた七塚の痕跡の一つなのかもしれない」とうな

ずく。

 
「もっとも宇ノ気の住民」

もっとも宇ノ気の住民の中には別の見方を示す人もいる。旧宇ノ気
中には別の見方を示す、戻る2

町で教育長を務めた、元県議会議長の木本利夫さん(76)は「昔

は宇ノ気から七塚へ向かう道を『白尾道』『遠塚道』などと呼んだ。

その通りの名称が踏切の名前になったんだろう」と見立てる。

 

(由来不明ままある)

「かつての計画から説」と「通りの名称から説」。鉄道ジャーナリ

ストの梅原淳さん(57)に聞くと、「どちらも十分あり得ます」

との回答だった。梅原さんによると、駅舎の名前はともかく、踏切

の名前は由来のよく分からないものが全国的にままあるという。

 

有名なところでは内房線(千葉県)の「切られ」踏切で、周辺に

「切」を連想させるような地名はない。いつ頃からか「昔、刑場

があった」とする都市伝説が一人歩きしているが、それを裏付け

る資料は一切ない。

 

今回の取材では結局、七塚の地名の付いた宇ノ気の踏切の謎を解

き明かすことはかなわなかった。しかし、「汽車で魚が逃げる」

という理由で、明治期の住民が線路の敷設に反対したという、七

塚らしいエピソードを知ることができた。

 
「ローカル線の廃止が全国」

ローカル線の廃止が全国で相次ぐ中、3月に減便された七尾線も
3月に減便された、戻る3

のんびりと構えていられない状況にある。ともすると、海と生き

たまちの名残かもしれない、六つの踏切をこれからもずっと残し

ていきたい。海と砂丘のまち七塚、宇ノ気の踏切に七塚の地名、

「魚逃げる」線路に反対。確かに宇ノ気の踏切に七塚の地名が

付いているのは不思議な気がします。歴史的に検討してもよく

分からないということでした。踏切の名前についてはこれくら

いにして、七尾線も減便されて将来的に廃止になる可能性もあ

ると思われます。そうなれば通勤や通学の学生には大きな影響

が出るでしょうね。乗り合いバスに変更するなどしてこれらの

人たちが困らないようにする対策を今から考えておくべきだと

思います。少子高齢化と能登の過疎化で問題は簡単ではありま

せんが何とか解決したいものです。

 

 

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