前田利家は佐々成政と共に信長の母衣衆として、武功を競った。利
「前田利家は佐々成政と共に」
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家45歳の時、成政は信長から越中を任された。当時、越前府中に
いる利家より、10倍以上の所領である。ライバルの出世に、利家
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成政に対して、利家には苦々しい思いがある。23歳の時、信長の
同胞衆の拾阿弥に刀の笄を盗まれて斬った。拾阿弥をかばったのが
成政だったのだ。
若い頃の利家は美少年。信長寵愛の小姓で、「かぶき者」だった。
実直な人柄の成政は、派手にふるまう利家を、どう思っていたのだ
ろうか。
「お前も頭を下げろ」
賤ヶ岳の戦で秀吉方についたことで、利家は金沢城に入城した。
「銀嶺のかなた」では、その日のうちに利家は、津幡城にいる成政
のもとへ会いに行く。
「秀吉さまが到着される前に金沢城へ来てくれ。戦に負けた。お前
も頭を下げろ」
津幡城の茶室で、利家は成政に忠告した。しかし成政は「越中一国
は信長さまから拝領したもの」と突っぱねた。
「そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと」
そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと
そこで利家は、秀吉に誓約をもらうと約束して、ふたりは酒を酌み
交わす。
「わしは親父さまを救うことができなかった。無銭に負け、おめお
めと敵の軍門に下った。
弱音を吐く利家に、成政は勝負しようと立ち上がった。「悔しい
か。性根を叩き直してやる」
相撲である。五番目に組み合ったとき「又左、何ゆえ我らが藤吉
郎に従わねばならぬ」
成政の声が泣いていた。
数々の戦いで生き残った精鋭ふたりが相撲を取る場面は、男のプ
ライドと本音がぶつかり合う、心憎い場面である。
信長、勝家の非業の死に、命のはかなさと、世の無常を感じなが
ら、狡猾な秀吉に降伏するしなかった利家の無念は察するにあま
りある。だからこそ、男泣きする成政の心を理解できるのだ。利
家こそ泣きたかっただろう。
「今回の紀行で、津幡城ってあったの?」
今回の紀行で、津幡城ってあったの?
(わずか2年で廃城)
今回の紀行で、津幡城ってあったの?と無知な私は初めて知っ
と無知な私は初めて、戻る2
た。金沢城から北東におよそ4里。目前に立ちはだかる坂を上
った高台である。
津幡小学校の旧校舎があった地で、城の遺跡はないという。敷
地の隅の小高い場所に上がると、津幡城址の碑が、枯れ草を背
にひっそりと立っていた。
標高15メートルの崖上から、津幡の街が見渡せた。なるほど、能
登、越中、加賀への街道が交差する場所で、好立地である。
源平合戦では平家軍が、七尾城攻略のため上杉謙信が、ここに陣を
敷いたのもうなずける。
成政は、賤ヶ岳の戦に加勢しようと兵を進めたが、北庄城が早々に
落ちたと知った。そこで津幡城で様子をうかがっていたのだ。
「利家が加賀、能登、越中を支配する」
利家が加賀、能登、越中を支配する
利家が加賀、能登、越中を支配するようになると、軍事的拠点は必
ようになると、軍事的拠点は、戻る3
要ない。名だたる武将が拠点にした津幡の城は、わずか2年で廃
城。戦国の世は去り、津幡は宿場町となった。「銀嶺のかなた」紀
行、津幡城跡(津幡町)、男の本音がぶつかり合う。現在の津幡は
大きな住宅街が立ち並びデパートや商店街も多く出来た。商業が発
展した。それも大きな建物が多く完全に商業地に生まれ変わった。
昔の面影はほとんどない。
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