松井秀喜ベースボールミュージアム(能美市)、希望もたらす「地元の星」

(松井秀喜ベースボールミュージアム(能美市)、希望もたらす「地

元の星」)

松井秀喜選手の名が

松井秀喜選手の名が世に知れ渡ったのは、夏の甲子園で5打席連続



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敬遠された時ではないだろうか。当時はずいぶん議論を生んだ。私

 

世に知れ渡ったのは、

は東京の職場で、話題の試合経過と松井選手の凄さを、興奮して語

夏の甲子園で5打席

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った。「あなたって熱い人だったのね」と、日頃とは違う私に、同

 

僚たちは目を丸くした。

 

スポーツ新聞に書くようになって、私の担当になった記者は瞳を輝

かせ、「松井選手はスポーツ記者みんなの宝だよ」と教えてくれた。

松井選手がプロとして初めて記者の前に登場した日、意地悪な記事

についての対応の寛容さに感激したのだという。人の心を打つのは、

ホームランの前にまず人柄なのだ。

 

それからの華々しい活躍で、「世界に誇る日本の星」になった。け

れど都会の片隅で暮らす私にとってはいつまでも「地元の星」であ

り、希望の光をもたらしてくれた。

「松井秀喜ベースボールミュージアム」

松井秀喜ベースボールミュージアムは小松空港に近い能美市山口町
小松空港に近い能美市、戻る1

にある。

 

(ゴジラ伝説は田んぼから)

白い洋館の正面には、バットを持って構える松井少年のブロンズ像

が立つ。館に、この像の元となった写真が展示してあった。思わず

見入って、微笑みが浮かんだ。松井少年がバットを持つのは、稲刈

りが終わった田んぼである。こんな素朴な風景から、ゴジラ伝説は

始まったのか。

 

歴代のユニホームがずらりと並んでいる。最初の少年野球チームの

ものが、肩幅が広く、あまりのサイズの大きさに驚いた。本当に松

井さんが身につけていたものですか、とお兄さんの利喜さんに確認

した。もちろん本物だった。

 

 

子供の頃から大柄だった松井少年。中学1年の時、相撲大会で1位

になった賞状もあった。数々のトロフィー、メダルがあり、メジャ

ーでの活躍の足跡がよくわかる。

「天才であるが、努力の天才でもある」

天才であるが、努力の天才でもある。毎日の素振りのエピソードは
毎日の素振りのエピソード、戻る2

様々な人の証言がある。

 

2013年に長嶋茂雄さんと共に国民栄誉賞を授与された時の写真

には胸が熱くなった。

 

最も新しい展示は、昨年東京オリンピックで着用していたユニホー

ムとトーチである。

 

(後光が差している)

聖火リレーで、松井さんは王貞治さん、長嶋さんと共に登場した。

長嶋さんを支えて、ゆっくりゆっくり、気遣いながら歩く姿をテレ

ビで見ていたら、胸がつまって涙ぐんでしまった。存在の耀きだろ

うか。後光が差しているようだった。

「1度だけ、その輝きを目にした」

1度だけ、その輝きを目にしたことがある。2002年にジャイア
ことがある。2002年に、戻る3

ンツが日本一になり、銀座の優勝パレードを見に行った。その勇姿

は自信に満ち、穏やかでどっしりとしていた。晩秋の夕陽が、オー

ラとなって松井だけを照らしているように見えた。その瞬間、あり

がたい仏像のように、私は手を合わせて拝んでいた。松井秀喜ベー

スボールミュージアム(能美市)、希望もたらす「地元の星」。仕

事をしていた頃は、小松市や加賀市へよく出向いていたので松井秀

喜ベースボールミュージアムは何回も通っていますが、外から見る

だけで中へ入ったことはありません。松井さんは少年野球は柔らか

いボールを使います。松井少年がフルスイングすると軟式野球のボ

ールがよく割れたそうです。テレビでプロ野球選手が何回打っても

全く割れません。松井少年にはどれだけのパワーがあったのでしょ

うか。それと松井選手が有名になったのが甲子園での5連続敬遠で

す。メジャー時代に苦しい時にこの5連続敬遠のビデオを見て努力

したそうです。本当に偉大な選手が星稜高校から出たものですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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