加能つなぐ高松、かすかに郭の残り香、130年の老舗、伝統守る

室町時代に全国を旅した京都の僧・道興の「廻国雑記」という紀行

室町時代に全国を旅した

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文が、高松の名が登場する最古の信頼できる文書らしい。高松は5

京都の僧・道興の

00年以上前から既に旅人の往来が盛んだった。
廻国雑記という

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藩政期には通行税のような金銭を徴収する口銭場が設けられ、周辺

 

には茶屋などが並んだ。加賀能登の接点として活気づき、明治から

大正にかけ、芸妓らが舞踊や音曲でもてなす料理屋も続々開業した

という。

中心部の伊丹町通りには10店ほどが軒を連ね旧高松史には「金沢

から七尾までの間に高松ほどにぎやかな遊郭はないと言われた」と

ある。

 

(繊維業者で活気)

多くは昭和30年代までに廃業したそうだが、料理屋の伝統を今に

受け継ぐ老舗があると聞いて訪ねた。伊丹町通りの料亭・ビジネス

ホテル「河北亭」。もとの餅屋にさかのぼれば創業130年余りと

いう。叙情豊かな和風旅館のたたずまい。餅屋から料理屋に変わり、

1960(昭和35)年から宿泊業を営んでいる。

「大女将の鶴見和子さん(73)が」

大女将の鶴見和子さん(73)が津幡から嫁いできた71年頃、繊
が津幡から嫁いできた71年頃、戻る1

維業者は数多く、商店がひしめく通りは買い物客が絶えなかった。

 

「各地の工場を回る糸関係の商社や問屋さんが4、5日ずつ泊まり、

高松の旦那衆から夜遅くまで接待を受けて景気が良かった」

 

周辺には家内工業の小さな工場が立ち並び「社長さんだらけの町や

ったなあ」。父親が繊維工場を営んでいた元市職員の多々見行雄さ

ん(70)はこう述懐する。「おやじが大阪の問屋さんらの接待に

励んでいた姿をよく覚えている」。

「メールで事が済む時代、河北亭を」

メールで事が済む時代、「河北亭」を訪れる繊維業者らは少なくな
訪れる繊維業者らは少なく、戻る2

ったが、地元の宴会や法事などのほか、加賀能登を回るのに便利と

観光客にも重宝される。96年から割烹料理店も併設し、地元の若

いファミリー層も気軽に訪れるようになった。

 

「県外客のもてなしも大切やけど、地元に愛されないと長くは続か

んわね」と鶴見さん。95年に93歳で亡くなった先代の芳子さん

は最晩年まで店を取り仕切り、地元でしたしまれた名物女将だった。

 

(地元のためにも)

酔客が来れば「これ以上、どんだけ飲むがや。あしたまた来るこっ

ちゃ」とたしなめた。ステテコにランニングシャツ、ゴム草履の男

性客には「こんな格好で人の家に来るもんやない」と諭した。翌日、

その男性が革靴と背広姿で飲みに来たというから、厳しくも温かい

地域のお母さんのような存在だったのだろう。

 

現在は芳子さんに名前の一字を贈られた女将の芳枝さん(52)と孝

信さん(54)夫婦が店を担う。

 

コロナ下で鶴見さんは何事にも動じない芳子さんの言葉を思い出し

た。「客が͡来なんだら体を休ませたらいい。寝ときまっし」。

「鶴見さんは自分たちが店をたたんだら」

鶴見さんは「自分たちが店をたたんだら、会合や法事はどこでする
会合や法事はどこでする、戻る3

んやろうと考えた。地元のためにも頑張らんなん」と力を込める。

気丈な女将たちによって、この先も高松の古き良き時代の風雅が伝

えられていくのだろうと思った。加能つなぐ高松、かすかに郭の残

り香、130年の老舗、伝統守る。高松は古くから加賀能登の中継

点として発展してきた。また繊維産業も盛んで多くの業者がやって

きた。夜の接待も遅くまで行われた。

 

 

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