青学大記録的圧勝、箱根駅伝2年ぶり6度目総合V「史上最強」大会新に復路新

(青学大記録的圧勝、箱根駅伝2年ぶり6度目総合V「史上最強」

大会新に復路新)

第98回東京箱根

第98回東京箱根間往復大学駅伝最終日は3日、神奈川県箱根町か



ら東京・大手町までの復路5区間、109・6キロに関東20校と

オープン参加の関東学生連合を加えた21チームが参加して行われ
大学駅伝最終日

、往路制覇の青学大が10時間43分42秒の大会新記録で2年ぶ
神奈川県箱根町

り6度目の総合優勝を果たした。青学大が2020年に出した記録

を1分41秒更新し、2位順大に10分51秒の大差をつけた。

内部リンク

復路でも20年の東海大の大会記録を上回る5時間21分36秒を

 

マークし、2年連続7度目の優勝。9区で中村唯翔、10区で中倉

啓敦がともに区間新記録を出すなど、トップを譲らなかった。

外部リンク

順大は往路から順位を三つ上げ、総合2連覇を狙った駒大は3位だ

 

った。追い上げた東洋大が4位に入り、東京国際大が5位。6位以

下は中大、創価大、国学院大、帝京大と続き、10位の法大までが

来年のシード権を得た。中大のシード権獲得は10年ぶり。11位

は東海大、早大は13位、予選1位の明大は14位だった。

 

1区で区間新だった中大の吉居大和と、9区で快走した青学大の中

村が最優秀選手に選ばれた。

 

今年も新型コロナウイルス禍が続く中での開催。感染予防策が徹底

され、沿道での応援自粛も呼び掛けられたが、大勢の観戦者が見受

けられた。

 

アンカー中倉の姿が見える前から優勝を確信した。ゴール地点の青

学大の選手たちは「晋、晋」と原監督の名を連呼し、これに笑顔と

ハイタッチで応える指揮官。「史上最強軍団」の自称に偽りはなか

った。2年前に作った大会記録を1分41秒も縮めて圧勝。「実力

通りの走りをして、口だけでなく現実となった」と勝ちどきをあげ

た。

 

 

 

 

 

 
「往路ではなかった」

往路ではなかった区間賞を、2位に2分37秒差をつけて臨んだ復
区間賞を、戻る1

路で3人が獲得。「守りのパターンも考えられたが、学生自ら新記

録を狙った」(原監督)という。最後の2区間では従来の記録を大

きく更新。9区の中村が「スタート前から区間新を狙っていた」と

言えば、同じ3年の中倉は「自分も負けていられなかった」。晴れ

舞台で普段通り伸び伸びと攻め、中村は最優秀選手に輝いた。

昨年は直前で主将に骨盤付近の疲労骨折が判明して動揺し、4位に

終わった。悔しさを糧に鍛えつつ、監督は練習内容の見直しを図っ

た。厚底シューズの影響で「膝から下よりも、臀部付近のけがが増

えている」と分析。その周囲や支える脚の筋力アップと、ケアを徹

底した。

 

確立した強化法の成果で、エントリーした16人全員が1万メート

ルで28分台の記録を持つ。ここから「能力、練習消化率、直前の

状態、コースとの相性」で10人を選んだ。疲労骨折から復帰した

岸本が7区1位、10日前に発熱した佐藤も8区2位。力と状態を

信じた起用に、選手たちが応えた。

 

「補欠もレベルは変わらない」と原監督は誇らしげに言う。走った

4年生は2人だけ。2015年からの4連覇の再現も予感させる、

圧倒的な強さだった。

 

(キーマン失速王者駒大3位)

連覇を狙った駒大は往路から順位を上げられなかった。監督車に

乗り、走る選手を後ろから大声で励まし続けた大八木監督は「残

念。私の采配ミス」と責任を背負った。

 

往路はエース田沢らの快走も及ばず、トップの青学大から3分28

秒差の3位。復路での逆転に向け、キーマンとなったのが8区の鈴

木だった。1万メートルで27分台のタイムを持つチームの柱だ。

2位でたすきを受けると青学大を猛追したが、終盤の上り坂付近か

ら失速。区間18位とブレーキになり、総合6位に後退した。

 

鈴木は昨秋に右太ももを疲労骨折し、出雲駅伝と全日本大学駅伝を

欠場。ぶっつけ本番で通用するほど箱根は甘くなかったようで、大

八木監督は「ベストメンバーを組めなかった」と残念がった。

 

チームが沈みそうな中、アンカーの青柿が意地を見せた。残り6キ

ロ付近から中大との抜きつ抜かれつの争いを制した後、3位でゴー

ルした2年生。「故障明けや体調が万全ではない選手は、仕方がな

い面もある。最低限の順位は取れたかな」。強豪のプライドを守っ

た。

 
「最多の優勝14度」

(中大、久々シード権)

最多の優勝14度を誇る中大は往路の6位を維持して10年ぶりに
中大は、戻る2

シード権を獲得した。藤原監督は「表彰台を狙うより確実にシード

権を取ろうというチーム。ほっとしている」と、表情を緩めた。

 

「復路の要として監督に8区に置いてもらった」と意気に感じた中

沢が区間3位の力走を見せ、7位から3位に浮上。最終10区で後

退したものの、終盤まで上位争いにからんで来年の出場権はきっち

り確保した。

 

(沿道に60万人)

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、昨年に続いて沿道での

応援や観戦の自粛が呼び掛けられたが、大会本部によると、2日間

で約60万人が沿道で観戦した。昨年の18万人の3倍強に当たる

。一昨年の121万人など、コロナ禍前の近年は120万人前後で

推移していた。この日、たすきをつなぐ中継所付近では一目みよう

と立ち止まり、中には大声を出す人もいた。ゴール地点の東京・大

手町では大勢の人が集まり、何重にも人垣ができた。

 

(順大2位 名門の力) (4年生好走で躍進)

かつて「復路の順大」と言われた伝統の力を発揮した。総合優勝1

1度の名門が2位。山登りの5区で快走して「山の神」と称された

今井正人を擁し、総合優勝した2007年以来のトップ3に入った

。その時のメンバーでもあった長門監督は「遅れても挽回する力が

付いてきた」とチーム力への手応えを感じ取った。

 

往路は、エース区間の2区に起用された三浦らがもう一つの出来な

がらも5位と健闘。復路では山下りの6区で、主将の牧瀬が区間賞

。これで勢いに乗った。「自分の走りが復路全体を変える」と意気

込み、3位に引き上げる快走。呼応した8区の津田も区間賞をマー

クして順位をさらに一つ上げると、残り2区間も順位を保った。

 

長門監督は今期の4年生を、似たり寄ったりという意味で使われる

「金太郎あめ」と呼ぶ。津田は「スタート前に牧瀬から電話が来て

、気持ちのスイッチが入った」と振り返る。「最高の金太郎あめに

なってくれた」とたたえた監督は、「これ(戦力)を整えて、来年

は堂々と総合優勝を目指すチームにしたい」。完全復活を誓った。

 
「青学大記録的圧勝」

青学大記録的圧勝、箱根駅伝2年ぶり6度目総合V「史上最強」大
箱根駅伝、戻る3

会新に復路新。青学大は往路は区間賞がなかったとは言え、選手は

安定した力を出しました。驚いたのは1年生が本当に良く頑張って

いたと思います。山道でクロスカントリーの練習で鍛えた選手は、

後半になっても全くバテナクテ速いペースで最後の中継所まで走り

きっていました。素晴らしい走りでした。4年生が2人しかいない

のに2、3年生も余裕を持ってマイペースで走れたのでしょう。全

体で見ると1位で走っているのです。全選手のレベルが高い証拠で

す。2日目の復路では3人も区間賞を取る力走でした。完璧な青学

大の圧勝でした。

 

 

 

 

 

 

 

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ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年、日本メーカー初、改めて振り返る

(ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年、日本メ

ーカー初、改めて振り返る)

ルマン24時間、マツダ787Bの総合優勝から30年、日本メー
ルマン24時間

カー初、改めて振り返ると信じられない気持ちに、なります。



世界3大レースのひとつに数えられるフランスのルマン24時間、
総合優勝

レース、この伝統の一戦を日本メーカーが初めて制したのは、19
マツダ787B

91年のことで、マツダ787Bによる大願成就だった。30年の

歳月が流れた2021年の今、あらためて空前の大偉業を振り返っ

てみる。

(日本メーカー歴代最高と考えられる壮挙)

内部リンク

日本の四輪モータースポーツにとって、現段階までにおけるドライ

 

バー(選手)成した最大の偉業は2017年、佐藤琢磨が世界3大

レースのひとつであるアメリカの「インディ500」を初制覇した

ことで、満場一致、だろう(彼は2020年に2度目のインディ

500優勝も達成)。では、日本車あるいは日本社、日本の自動車

(メーカーが成した最大の偉業とは?)

こちらは観点によって意見がことなり、満場一致とはいかないかも
「観点によって」

しれないが、やはり世界3大レースのひとつであるフランスのルマ
こちらは、戻る1

ン24時間レースでのマツダによる日本車初の総合優勝(1991

年)、これが最大公約数的な答えではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

その壮挙から30年。マツダがルマン挑戦等のモータースポーツ史

をまとめた記念の資料や写真を公開した。今年のルマン24時間レ

ースはコロナ禍の影響で、例年の6月ではなく8月に延期開催される

予定だが夏至の時節という本来のルマン開催期に近いうちに、あら

ためてマツダの大偉業を振り返ってみたい。

外部リンク

(ラストチャンスだった1991年のルマン)

 

マツダのロータリーエンジン(RE)搭載車は1970年代からルマ
「ロータリー」

ン24時間レースに姿を現していたが、マツダオート東京~マツダ
マツダの、戻る2

スピードの本格的な挑戦がスタートしたのは1979年とされ、や

がて本社開発サイドとの一体化も進んだ真の、ワークス、として力

を高めていくのは80年代が進むにつれてのことであった(81年

から連続参戦)。参戦するクラスも1986年からは総合優勝を意

識するそれへと移る(Cカー)。1987年と1989年には総合

7位を獲得していた。1991年は当時のグループC規定が、端境

期、にあった年といえよう。当時のF1と同じ3.5リッター自然

吸気レシプロエンジン搭載一本化の新、Cカー、への移行が推進さ

れており、REという独自エンジン路線に誇りをもって歩んできた

マツダは当初、ルマンに参戦できなくなるなるはずだったが、19

91年はルマンを含む当時の「SRC」で、旧Cカー、の混走が認め

られるかたちになり、当時のマツダのルマン挑戦にとってラストチ

ャンスとなった。

 

(ついに成し遂げられたルマン初制覇)

6月22~23日に決勝レースが実施された。メルセデスが主導権
「決勝レース」

を握ってレースを進めるが、マツダも着実なレースを展開する。
実施、戻る3

ジャガーとは互角以上に戦える力があった。1ー2ー3をしめて

いたメルセデスがダメージやトラブルで崩れ出す。ただ1号車は

首位に君臨し続けていた。しかし残り3時間を切ってから波乱が

起きる。首位のメルセデスの1号車がトラブルで戦線を、去るこ

とになった。そしてトップに立ったのはマツダ55号車。最後の

土壇場で勝利の女神が微笑んだ。ジャガー勢を2ー3ー4位に抑

えて総合優勝を飾る。出走38台で完走は12台とされたサバイ

バル戦で素晴らしい耐久性も披露した。

 

日本メーカーのルマン24時間レース総合優勝はこのときのマツダ

が初。しかも、メルセデスやジャガーと戦って勝利しただけに価値

は格別に高い。ジャガーを上回り、メルセデスも耐久レ-スならで

はの安定感を武器にうっちゃっての勝利だった。本当に素晴らしい

勝利でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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