海と砂丘のまち七塚、伝統漁守るサラリーマン、漁協は「出張所」に、福浦港に底引き船団

(海と砂丘のまち七塚、伝統漁守るサラリーマン、漁協は「出張所」

に、福浦港に底引き船団)

能登半島の付け根

能登半島の付け根、石川県のほぼ中央に位置する旧七塚町、現在の



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かほく市七塚地区は、日本海に面し、南北に細長い砂丘地だ。「山

石川県のほぼ中央に

なし、川なし、田圃なし」という自然条件のもと、先人たちは主た
位置する旧七塚町

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る生活の糧を海に求め、長らく漁業が盛んな土地だったが、時代の

 

流れとともに、まちの装いは大きく変わった。海と砂丘のまちの今

を追う。

 

7月30日早朝、かほく市外日角の砂丘に地引き網のロープを引く

10人ほどの姿があった。七塚で唯一、地引き網漁を行う油野武彦

さん(56)=白尾=のグループだ。浜から機械でロープを巻き取

り、網をたぐり寄せる。魚の入る先端の袋網が見えると、最後は人

力で網を浜に揚げた。

 

2時間余りの漁で収穫はキス10キロ売り上げは1万円だという。

油代などを差し引くと利益はないに等しい。10人で1万円では、

1人当たりの時給換算すると500円か。全国平均の最低賃金が時

給千円に迫ろうかという時代にあって、あまり生産的ではないが、

油野さんは「こんな日もあるわい」と歯牙にも掛けない。

「その理由はきっぷのいい」

その理由はきっぷのいい性格のせいだけではない。油野さんは塗装
性格のせいだけでは、戻る1

会社に勤めるサラリーマンで、地元の仲間というメンバーもそれぞ

れ営業マンや自営業など他に本業がある。いわば「兼業漁師」なの

だ。

 

(福浦港に底引き船団)

七塚の漁業は明治時代までは地引き網漁や刺し網漁が多かった。し

かし、沿岸部のイワシやサバが減ると、次第に底引き網漁が主流に。

30隻を超える七塚の底引き船団は、志賀町の福浦港を拠点に活動

し、船団が所属する南浦漁協は県内で指折りの売上高を誇った。

 

 

2隻の底引き網船を所有し、南浦漁協の組合長も務めた堂久八さん

(80)=白尾=は「ニギスの漁獲高は南浦漁協が日本一だった。

大卒初任給が月1万5千円の時代に中卒の坊やの乗組員が6万~1

0万円稼いどった」と振り返る。

 

ところが平成に入ると、魚価が低迷し、後継者不足も顕在化した。

地元に漁港がないため経費もかさみ、漁をやめる人が相次いだのだ。

七塚沖にワイングラス型の漁港を設置する計画もあったが、いつの

間にか立ち消えになった。

「時代の波には逆らえず」

時代の波には逆らえず、2016(平成28)年までに七塚の底引
2016(平成28)年、戻る2

き網漁は姿を消した。隆盛を誇った南浦漁協(06年の県漁協統合

以降は南浦支所)は「出張所」に格下げされ、事務所などの施設も

売却。現在の南浦出張所は、運営部会長の自宅が事務所を兼ねてい

る。

 

(仲間と朝飯「うまい」)

油野さんの父親も底引き網漁船の乗組員で、引退後に小型船を購入

し、沿岸部で刺し網漁などにいそしんだらしい。そして、父親が亡

くなって船を譲り受けた油野さんは、サラリーマンを続けながら、

土日に漁に出る生活になった。地引き網漁は6年前、このままでは

七塚の伝統漁がついえてしまうと、支所の関係者から頼まれて始め

たという。

 

もうからないだけならまだしも、赤字に陥りかねない地引き網漁を

なぜ続けるのか。ひと仕事を終えた油野さんに尋ねた。「海が好き

やしな。それに漁が終わって仲間とわいわいしながら食う朝飯がま

たうまいんや」。波打ち際で紫煙をくゆらせながらガハハと豪快に

笑った。

「南浦出張所に所属する」

南浦出張所に所属する漁師は油野さんを含め、わずか10人。七塚
漁師は油野さんを、戻る3

の漁業の未来は決して明るいものではない。しかし、本業ではない

にせよ、現役の漁師たちは底抜けに明るく、今もなお、海とともに

生きている。海と砂丘のまち七塚、伝統漁守るサラリーマン、漁協

は「出張所」に、福浦港に底引き船団。かほく市の七塚の30隻を

超える底引き船団は志賀町の福浦港を拠点に活動し、所属する南浦

漁協は県内で指折りの売上高を誇った。七塚がこんな凄い底引き船

団だったとは全く知らなかった。特に「ニギスの漁獲高は日本一だ

ったそうです。

 

 

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