古葉竹識さん死去元広島監督、日本一3度弱小球団変えた、負けん気の強さ

(古葉竹識さん死去元広島監督、日本一3度弱小球団変えた、負け

ん気の強さ)

プロ野球広島の

プロ野球広島の監督として初のセ・リーグ優勝、日本一を果たすな



ど黄金期を築いた古葉竹識(こば・たけし)さんが12日、死去し

た。85歳。熊本県出身。故人の長男が広島球団を通じて16日に
監督として初の

発表した。死因は明らかにしていない。葬儀・告別式は近親者で行
セ・リーグ優勝

った。

内部リンク

熊本・済々黌高、専修大から日鉄二瀬を経て1958年に広島入り

 

。走攻守三拍子そろった内野手として活躍し、64、68年に盗塁

王を獲得。70年に南海(現ソフトバンク)に移籍し、翌年引退し

た。ベストナイン1度。

外部リンク

南海、広島でコーチを務め、75年シーズン序盤、ジョー・ルーツ

 

監督の辞任を受けて広島監督に就き、球団創設26年目で初のリー

グ優勝に導いて「赤ヘル旋風」を巻き起こした。79年に初の日本

一。85年に退団するまでの11年間でリーグ優勝4度、日本シリ

ーズ制覇3度を達成した。87~89年は大洋(現DeNA)で指導。

99年に野球殿堂入りした。

 

2003年に広島市長選に落選。04年は参院選比例代表に自民党

公認で出馬し、落選した。東京新大学リーグの東京国際大の監督も

務めた。

「通算成績は」

通算成績は1501試合出場、打率2割5分2厘、1369安打、
2割5分、戻る1

44本塁打、334打点、263盗塁。監督通算873勝791敗

137分け。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古葉さんの最大の実績は、1975年に広島を球団初のセ・リーグ

優勝に導いたことである。開幕して間もなくルーツ監督が辞任。指

揮者にとって中途の後継監督ほど難しい役目はない。そんな状況で

優勝した理由に当時の主力選手は「先発投手の登板間隔を守ったロ

ーテーションの確立」を挙げた。それまでの広島はゴールデンウイ

ークの後、決まって下降線をたどった。「コイの季節の終わり」と

言われた。ローテーションの崩れが原因だった。

 

それを修正した。安定した投手力で勝つという原点を重視。万年B

クラスの負け癖をも拭い去ることになった。初の日本一にも押し上

げ、常勝チームに育てた。

 

(貧しさをバネに)

「無名の古葉さん」

無名の古葉さんを一流の野球人にしたのは「野球が命」「負けん気」
一流の、戻る2

「貧しさ」だった。小柄な体を支えた「肥後もっこす」の典型とさ

れた強気の性格。少年野球に夢中となりプロ選手の夢を描いたが、

家業が倒産。それまでの富裕から「貧しさに耐えろ、空腹に耐えろ

」の生活になった。

 

先輩の誘いと特待生の条件で専修大に進んだ。1年生の時、日鉄二

瀬の濃人渉監督(のちに中日などで監督)から「プロに行かせてや

る。それに給料が出る」。中退し、社会人となって実家へ仕送りが

できたという。広島入団も監督のおかげで、同僚の江藤慎一を見に

来たスカウトに「無名だが、将来性はある」売り込んでくれた。

 

猛練習で正遊撃手の座を奪った。長嶋茂雄と首位打者を争った63

年は死球であごを骨折、離脱して2位。毅から竹識への改名を経て

新たな戦いに臨み、盗塁王を2度取った。はしゃぐことはなく黙っ

て好結果を出した。

 

「江夏の21球」

一回り大きくしたのは野村克也率いる南海への移籍だ。ここで「考

える野球」と出合う。技術に座学が加わり「一球を大事にしろ」が

古葉野球の柱となる。初の日本一になった79年の近鉄との日本シ

リーズ第7戦。4ー3で迎えた九回裏、抑えの江夏豊が無死満塁の

ピンチに遭った。古葉監督は主力投手に救援の準備をさせた。いわ

ゆる「江夏の21球」で抑える場面だが、勝負に隙を見せないすご

みがうかがえた。

「絶対に諦めない」

絶対に諦めない生きざまは故郷の先輩で、子ども時代から赤貧にあ
故郷の、戻る3

えいだ巨人V9監督の川上哲治と重なる。大学の監督時代、部員の

就職に尽力したのは人の温かさを知っていたからである。「静かな

したたかな男」は波乱の昭和特有の野球人だった。元広島監督古葉

竹識さん、日本一3度弱小球団変えた、負けん気の強さ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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